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第一章
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しおりを挟む「だいじょうぶ?」
ハァハァ。と息を切らす自分を同じよう息を切らしながらも真っ直ぐ見つめてくる、瞳。
幼さが抜けない、高い声。
それでも見つめてくる瞳も声もとても落ち着いていて、凛と澄んだ色合いがありありと浮かぶその子に、呆けた顔のまま、うん。と頷いた。
繋がれた手は子ども特有で柔く、温かい。
「いえ、はやくはいって」
握っていた手を離して、ほら、さっきの奴が追ってくる前に。と呟くその声にまたしても頷き玄関に駆け込んだあと、説明を聞いて血相を変えた母と共にその子もとりあえず家の中に入ってもらおうと玄関を開けたその先。
そこにはもうその子は居らず、俺はずっと、その子の姿を探すよう家の前の道を眺めていた──。
***
「みーくん、いつまで寝てるの~?」
チュンチュン。と響く鳥の声と共に下の階から己の名を呼ぶ母親の声が聞こえ、みーくんと呼ばれた男こと冬月翠は、ベッドの中でもぞりと動いた。
少しだけ開いたカーテンの隙間から覗くのは澄み渡った青空で、そこから射す陽が翠の美しいプラチナの髪の毛をキラキラと輝かせている。
その美しい絹のような髪と同じく驚くほど長い白銀色の睫毛がふるりと震え、露になる瞳。
透き通った水色の色素の薄い瞳は未だ夢の中を泳いでいるようで、幸せな夢を見ていたのに。とパシパシと瞬きをした翠はそれからベッドヘッドの上に置いていた携帯を手に取った。
「んぅぅ……」
寝起き特有の掠れた唸り声を出した翠がぽやぽやとしたまま時間を確認する。と同時に目に映った時間を見て一気に覚醒したのか、ぐわっと目を見開いた翠が慌てて飛び起きた。
「やばい! 遅刻する!!」
そう叫びベッドから飛び降りた翠は着ていた寝巻きをポイポイと脱ぎながら、昨夜のうちに母がハンガーに掛けておいてくれていた制服へと手を伸ばす。
まるでモデルのようなスラリとした体型と真っ白な傷ひとつない美しすぎる肌に素早く制服を纏った翠は、それから一目散に部屋を飛び出し階段を駆け降りた。
そして直ぐ様洗面所へと向かい顔と歯を洗った翠が美しい髪の毛に寝癖を付けたまま玄関へと向かい靴を履いていれば、奥のリビングから出てきた母親は驚いたような顔をしては翠を見た。
「みーくんおはよう。そんなに急いでどうしたの? 朝ご飯は?」
「ごめん要らない! 今日岩井が朝の身だしなみチェックで校門の前に居るんだよ! だから一秒でも遅刻するとまた嫌味言われるからもう行く!」
「こら、岩井先生でしょう」
「あははっ」
母親の言葉に、綺麗で艶々な唇を大きく開け白い歯を見せながら笑った翠はそれから、まぁそういう事だから! じゃあ行ってきます母さん! とそのまま家を出た。
外に出た瞬間に広がる、晴れ晴れとした美しい空。
もうすっかり秋めいた気配が辺りに漂い、その少し肌寒い空気を吸い込んだ翠は一度気持ち良さげに伸びをしてから、そんな事をしている場合じゃないと走り出した。
(ッ、ハァッ、ハァッ、な、なんとか間に合った~……)
プシューッという音と共に、背後で閉まるドア。
家から全速力で駅へと向かい、滑り込むように電車へと乗り込み滲む汗を拭いながら心のなかで呟いたが、しかしやはり朝の通勤や登校時間と被る車内は込みあっていて、ギュウッと胸元で学生鞄を抱いた翠は小さく溜め息を吐いた。
それから翠は無関心を決め込もうと目を閉じとりあえず時間が過ぎてゆくのを願ったが、やはり聞こえてくる声や刺さる視線にキュッと唇を噛み眉を寄せた。
『ねぇ、あれ見て』
『えっ、すご』
『めちゃくちゃ綺麗』
『なにあの人、髪の毛凄い綺麗だし肌もめちゃくちゃ白くない? ヤバいんだけど』
『芸能人かな? 声かける?』
『ばか。相手にされるわけないじゃん。てかあんな綺麗なのと並んだらこっちが公開処刑じゃん』
『あー確かに』
『え、あいつ男? 女?』
『学ラン着てるし男だろ。あの顔だとさぞモテるんだろうな』
『うらやましー』
ヒソヒソと、しかし確実に翠の耳に届く声。
皆一様にして翠の外見を褒め称えるその声や遠慮のない視線に、……あー、やっぱり岩井に嫌味言われる方がましだったかな。てか昨日チャリがパンクさえしなければなぁ。なんて、普段自転車で通学しているがパンクしたせいで電車に久々に乗るはめになった運の悪さを恨みながら、翠は人知れず溜め息を吐いた。
立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
その言葉を正に現しているような、男ながら花も恥じらうほどの美貌を持つ翠。
日本人の父とロシア人の母との間に産まれ、美しさと愛らしさを兼ね備えている翠はしかし称賛の声も視線も煩わしげにしては気にしないよう意識を遠くへと追いやろうとしたのだが、その瞬間、ピクッと眉を寄せた。
背後からぴたりと張り付くよう明らかに密着してくる体と、耳元で聞こえる少しだけ荒い息。
それにぶわりと全身の毛穴が開き、鳥肌を立たせた翠はウゲェッと心のなかで舌を出した。
(……こいつ、気持ち悪……)
そう瞬時に思ったが、込み合っているせいで振り向く事も逃げる事も出来ず、せいぜい身動ぐだけが精一杯の翠は益々眉間に皺を寄せ、しかし痴漢と呼ぶには決定打に欠ける曖昧さで身を寄せてくるだけのどうやら中年とおぼしき男性の行為に、青筋を浮かせた。
きっと今ここで、近くてキモいんだけど。などと言った所で満員電車なのだから仕方ないだろうと言い逃れされてしまうだろう。
最悪、ちょっと見た目が良いからって自意識過剰なんだよ糞ガキ。と罵声を浴びせられる事もあるかもしれない。まぁそんな台詞など常日頃から色んな人に吐かれている翠にとってもう傷付きもしないが面倒になるのも嫌だったので、触ってきたら容赦なくぶん殴ろう。と決めながら無視しようとした、その瞬間──。
「前の人息苦しそうなんで、僕の方に寄って貰って構わないですよ」
不意に後ろから、低く、だが凛とした声がした。
ぎゅうぎゅうと犇めく電車内だからかボリュームを下げたその柔らかさもある声に翠が目を見開きながら、首だけでなんとか後ろを振り返る。
そうすれば翠に寄ってきていた中年のサラリーマンに声を掛けたらしいその人物が目に入り、だがその人は目元まである長い前髪と黒縁眼鏡のせいで目があまり見えず、けれど良く良く見れば翠が通う高校のすぐ近くにある高校の制服を着ていた。
その高校生の声に翠に張り付いていたサラリーマンは驚いた様子のあと、あ、い、いや、大丈夫だよすまない。としどろもどろながらも冷静さを装い、慌てて人波を掻き分けてゆく。
だがしかし翠はそんな事などもう意識になく、意図的にあのサラリーマンにああやって声を掛けたであろうその高校生を見ていた。
あっ。とそのサラリーマンを目で追った高校生の前髪が、さらりと揺れる。
その隙間からようやく見えた眼鏡越しの瞳に、しかし翠はまたしても目を見開いては思わず息を飲んだ。
……似てる。今も覚えている記憶のなかのあの男の子と。纏う雰囲気が、その瞳が、あの子とそっくりだ。
そう思った瞬間、途端にドクンッと跳ねる心臓。
えっ、うそ、うそ、まさか。と焦りながらもその高校生から目を離せずにいればバチッと目が合ってしまい、翠はまたしても息を飲んだ。
「大丈夫ですか?」
少しだけ顔を寄せて問いかけてくるその高校生の表情は心配が滲んでいて、しかし翠はもはや会話など出来る状態ではなく、はくはくと口を小さく震わせるだけ。
そんな翠にもう一度声を掛けようとしたのか高校生が口を開きかけたその時、車内アナウンスが流れた。
『──駅。──駅。お出口は右側です』
鳴り響くアナウンスに促されるよう、人波が一気に蠢く。
それに押される形でその高校生が遠ざかっていき、しかし翠はその場から動く事も出来ずにその人だけを見ていた。
人混みに飲まれ、あっという間に開いていく二人の距離。
その高校生は未だ心配そうな顔をして翠を見ていたが、その姿が見えなくなり、プシューッと扉が閉まる音が響く。
そして何事も無かったかのように走り出す電車の中でしばし呆けていた翠はしかし、それからぽろりと言葉を落とした。
「……降りるの忘れてた」
そう。先程の高校生が流れに逆らうことなく降りたのはそこが最寄り駅だからであり、すぐ近くにある高校なのだから勿論翠もそこで降りなければならず、だから動こうとしなかった自分を人混みに流されながらも心配そうに見ていたのかもしれない。と思った翠は、あんな風に助けてもらった事もなければ幼い頃の記憶の少年と似ている風貌の彼に出会えた事に一人顔を真っ赤にしながら、ただただぼんやりと突っ立っていた。
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