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第一章
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しおりを挟むあのあと、次の駅で降り反対側の駅に回って最寄りまで戻った翠は、完全に遅刻だというのに未だぽやぽやとした頭のまま歩いては、学校へと向かった。
「おい、冬月! お前今何時か分かってるのか!」
案の定、校門の前に居た数学の岩井が怒鳴り声を上げて翠の前に立つ。
神経質そうな見た目と陰険さを滲ませた目で見てくる岩井に、普段何かとやれ素行が悪いだのやれチャラついている等と目の敵にされている翠はこの岩井の事が好きではなかったが、けれども今はそんな事すら気にしていない様だった。
「聞いてるのか」
「はぁ」
「普段からだらしない格好や態度ばっかりで、お前は本当にどうしようもないな」
「はぁ」
「っ! 教師に向かってなんだその返事は! これだからバカ校は!」
翠の気の抜けた返事に、顔を真っ赤にして怒鳴る岩井。
どうやらこの高校に赴任させられた事自体気に入っていないのか、こんなごみ溜めは俺の居る場所ではないと思っている様子の岩井が言葉の端々に侮蔑を含ませ、感情的に翠に当たり散らしてくる。
その幼稚さに翠はようやく岩井へと顔を向け、真っ直ぐ見つめ返した。
「……以後気を付けまーす」
完全に舐め腐った態度で言葉を吐き、しかしもう何も聞く気はない。と完全にシャットアウトした翠が強制的に話を終わらせ、すたすたと横を通り過ぎる。
その流れる美しいプラチナの髪に一瞬だけ呆けたあとハッとしたように岩井は「待て!」と声を荒げたが、翠はその驚くほど美しい瞳で岩井を一度見やったあと、そのまま何も言わずに歩き出した。
その神秘とも言えるほどの翠の美しさに怯みながらも、岩井は苦虫を噛み潰したような顔で、遠ざかる翠の背中にくそっと吐き捨てたのだった。
***
「あ、やっと来た」
「おはよ~」
翠が教室に入るなり声を掛けてきたのは友人の篠崎圭と佐久間稔で、ホームルームが終わり一時限目が始まる前のちょっとした時間で賑わう教室のなか、おはよ。と翠は手を軽く上げたあと二人が座っている席へと向かい、それから興奮したように話し出した。
「聞いて!!」
「何を」
「今日電車でさぁ、」
「あ? お前チャリ通じゃなかった?」
「いやそれが昨日の帰りパンクしちゃって」
「え~災難だったね」
「それな。まぁそれは置いといて、でさ──」
二人に電車での経緯を興奮ぎみに話したあと、ヤバくない!? と目を輝かせる翠。
そのヤバいという意味をいまいち理解出来ないものの、お前はまた変態をホイホイして。という眼差しで圭は翠を見た。
男子校であるこの公立北高等学校の生徒から天使と称され、校内はおろか他校、近隣住民にまでその美貌を轟かせている翠にとって痴漢などは日常茶飯事らしく、そっちの方がヤバいだろ。と圭は思いながらも、まぁ助けてもらって良かったな。と返した。
「向かいの制服着てたって事は、秀才君なんだね」
そう言った稔の言葉通り、名前を書けば受かるとまで言われるこの北高校の道を挟んだお向かいさんは、なんと偏差値七十という数字を誇る名門進学校【私立南高等学校】であり、まさに北と南という名が表すように、正反対の学校が向かい合っている。
良い見本が南高校、悪い見本が北高校。とレッテルを貼られている事は勿論北高校の生徒にとって面白くない事は確かだが、しかし実はお互い住む世界が違うと割り切っているため両高の生徒は特に関わる事もなく、トラブルもあまりなかった。
「お高くとまってる奴しか居ねぇと思ってたけど、良い奴もいんだな」
「ほんとだね」
「つかお前に痴漢って、そのリーマン勇気あんなぁ」
「ははっ、確かに」
圭のぞんざいな言い草に、しかし同調するよう笑った稔。
それに翠はなんでだよ! とは言ったものの、二人と同じよう笑った。
こんな男だらけの学校で天使と呼ばれているのだから、数多の男子から告白される事も翠にとっては日常茶飯事である。
しかし中には告白だけでなく襲い掛かろうとする輩も少なくなく、けれどその見目に反して腕っぷしが強い(むしろそんな輩のせいで鍛えられたとも言う)翠は全て返り討ちにする事も有名で、最近では遠巻きに見られるだけで留まっていた。
そして同じく、今一緒に居る圭も勿論強く、稔に至っては甘いマスクと物腰柔らかい話し方のせいで一見優男に見えるが、制服のシャツの中に黒のハイネックインナーを着ているものの、その覗く素肌から刺青が見えている。
所謂親がそっちの住人である稔は刺青について学校側から何も言われた事はないらしく、そして本人も露骨に見せたりはしないが、翠も圭も、勿論ここの生徒はほぼ知っていて。そのためヤンキーが多いこの学校の中でも特に要注意人物として名高いこの三人には、誰も近寄ろうとはしないのだ。
だからこそ、そんな翠に良く痴漢なんてしようとしたな。と未だに笑っている圭と稔に翠は、いやそこも重要だけどもっと重要な事があんの! と話を戻した。
「でさ! その助けてくれた人なんだけど、俺のスーパーヒーローとそっくりなんだよね!」
「……はぁ?」
「スーパーヒーロー?」
翠の言葉に眉間に皺を寄せる圭と、オウムのように繰り返した稔を他所に、翠がキラキラと瞳を輝かせては、そう! と叫ぶ。
それから翠は今も尚鮮明に思い出せる、幼少期の記憶に想いを馳せた。
──あれは、翠がまだ六つの頃。
家の近くの公園で遊んでいたら急に知らないおじさんに腕を引かれ、何処かへ連れていかれそうになったのだ。
突然の出来事と恐怖で硬直する体をなんとか必死に捩り叫んだが、平日の昼下がりの公園には不幸にも翠しか居らず。
力の差は歴然で、抱えられ口を塞がれそのまま連れていかれそうになり、翠が絶望した、その瞬間。
突然、いてぇ! とその男が叫んだかと思うと、翠を離した。
ドサッと地面に落ちた翠が見た、先。
そこには、誘拐犯に後ろから飛び蹴りしたのか、翠よりも少しだけ背丈の小さな男の子が立っていた。
その幼いながらも凛とした姿を、翠はきっと、一生忘れないだろう。
突然に次ぐ突然の出来事の嵐で呆ける翠と、子どもながらも本気で蹴られれば痛かったのか、片膝を付いた誘拐犯。
それから状況を理解したらしい誘拐犯が怒鳴りながら翠とその男の子を掴もうと手を伸ばしたが、それよりも先に、その男の子が呆け座り込んでいた翠の手を取り、駆け出した。
繋がれた手の温かさ。
視界に広がる、晴れた空とその中を走る小さな背中。
流れる、黒髪。
家どこ。と聞く声。
そのどれもが優しく、美しく、翠は誘拐されかけたにも関わらずもう恐怖なんてどこにもなくて。
むしろスーパーヒーローのように助けてくれたその男の子の背中を、キラキラとした瞳で見ていただけだった。
だが冒頭にもあったようにその子は翠を送り届けたあとすぐに居なくなってしまい、探そうにもそれから翠は一人で出歩く事をしばし禁止され、そしてあの公園に近寄る事もさせて貰えず、結局あの子と会ったのは、あの一回きりだった。
名前を聞いておけば良かった。と何度も後悔したし、あの時一緒に家のなかに連れて入れば良かった。と、今でも悔やんでいる。
──そんな思い出の、自分にとっては命の恩人でスーパーヒーローであるその子とそっくりな人に助けて貰ったのだ! と翠が興奮した様子で圭と稔を見たが、しかし二人は何を馬鹿げた事を。という様な顔をしただけだった。
「同じ子な訳ねぇだろ」
「だったらいいねとはもちろん俺も思うけど……、さすがに、ね」
「いや絶対あの子だったって!!」
翠が必死に言うもののもう相手にしてもらえず、そしてこんなバカ校でも勿論授業はあるわけで、やってきた先生によってこの話は強制的に終わらされてしまったのだった。
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