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第二章
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しおりを挟む隆之と知り合いになった翠が放心状態で学校へ行き、圭と稔に脱け殻のようだと称されてから、実に早いものでもう一週間。
自転車はすっかり直っているというのに、あの日からずっと健気に電車通学をしている翠は、今日も今日とて満員電車の中で数多の好奇な目を向けられ、変態達からは触られそうになりながらも、必死に隆之の姿を探していた。
──がしかし、タイミングが悪いのかなんなのか、あの日以来隆之に会えた事はなく。
その事に心が折れかけている翠は、やっぱ学校の前で待ち伏せしようかな。なんて考えたが、ストーカーかと思われたら嫌だし! と慌ててそれを振り払い、……会いたいなぁ。なんて気鬱な表情で電車を降りてとぼとぼ学校へと向かった。
「わ、早いね翠。おはよう」
「マジだ。おはよ。てかなんかお前の周りだけすんげぇジメッとして見えんだけど」
「……おはよ~……」
一限目の終わりのチャイムが鳴る頃。
仲良く二人で登校してきた稔と圭。その二人が教室に入るなり挨拶してきたものの、翠の様子を見ては少しだけ引いた顔をしていて。
そんな二人に普段ならば馬鹿にすんなと軽口を叩くであろう翠はしかし、傷心なのだと自身の席に座ってべたりと上半身を机に張り付けては、情けない顔をするだけ。
そのやつれきった翠の様子に、理由は言わずもがな隆之に今日も会えなかったからだと知っている二人は、そこまで気落ちする事なのか? とは思いつつも、友達が暗い顔をしているのを見るのは好きじゃないと、顔を見合わせた。
そうして頷き合った二人は、その日の放課後、やはりとぼとぼと背中を丸めて帰ろうとしていた翠を羽交い締めにし、気分転換するぞ。と半ば強引に繁華街へと繰り出したのだった。
──だが、そんな二人の心遣いも虚しく。
カラオケに行ってもしんみりとした(主に、会いたいだの何をしているのだの、そういう失恋から立ち直れていないような)歌ばかりを歌う翠にカラオケで盛り上がろう作戦はあえなく失敗に終わってしまい、それならばとゲームセンターへと連れて行くも、翠はボーッと宙を見ているだけ。
そんな翠の様子にこりゃお手上げだと圭と稔が頭を抱えたのだが、二人の心情を察する事なく翠はしょぼんとしたまま、力なく二人に手を振った。
「……わり、俺今日は先に帰るわ」
「「えっ」」
突然の翠の言葉に、もう帰るの? と言うよう圭と稔が目を丸くするも、時刻は夜の九時を過ぎている。
未成年の、ましてや制服姿のままでこんな時間帯まで街を彷徨いていて良い訳はないが、しかし圭達にとってはこれが日常であり、圭と稔はやはり驚いた表情をしていたままだったが、そんな二人を残し翠はもう一度ひらりと手を振っては、駅への道を重い足取りのまま歩いた。
喧騒にまみれた街はギラギラと明るく、車のライトが翠を照らしては通りすぎてゆく。
どこかの店のBGMやら車の音、それから道行く人々の話し声で溢れた街のなか、一人浮かない顔でボーッとしながら歩いていた翠だったが、突然ドンッと肩がぶつかり、思わずよろめいてしまった。
「いっ、てぇ」
そうぼやいた翠が顔を上げれば、どうやらもうだいぶ酔っぱらっているような四十代のサラリーマンがいて。ふらふらと覚束ない足取りで歩いていたのかぶつかってきたその人に、腹の虫の居所があまり良くない翠が少しだけイラッとした表情をしたものの、しかし俯いたまま歩いていた自分にも非がある。とペコリと頭を下げた。
そしてそのまま通りすぎようとした、その瞬間。
突然ガシッと強い力で腕を掴まれ、翠は痛みにピクッと眉を寄せては、何だ。とそのサラリーマンを睨んだ。
「ぶつかっといて会釈だけなんてこれだから最近の若い奴は……、って、めちゃくちゃべっぴんさんじゃないか」
ぶつかってきたのはそっちの方のくせいちゃもんを付けようとしていたが、翠の顔を見た途端、呂律の回らない声で驚いた表情をするサラリーマン。
その話す度に香る強烈な酒臭さに翠が不快感を露にしたまま、離せよ。と腕を振ったが、酔っていて力の加減すら分からないのか、ギリギリと骨が軋むほどの強さで握ってくるだけで。
そして翠を上から下へと眺めてはニヤニヤと下品な笑顔を浮かべるサラリーマンに、堪忍袋の緒がプツンと切れた翠が殴ろうと反対側の腕を振り上げた、その時──。
「その手、離してもらって良いですか」
だなんて凛とした深い声が、すぐ側で聞こえた。
その声に弾かれたよう横を向いた翠の目に映るのは、紛れもなく翠が一番会いたくて会いたくて堪らなかった、隆之本人の姿で。
それに翠がドクンッと心臓を高鳴らせヒュッと息を飲んだが、隆之はそんな翠の状態など露知らず、二人の間に割り込むよう体を押し込んできては、サラリーマンの腕を掴んだ。
突然の第三者の介入に驚いたのか、呆けていたサラリーマンの腕を易々と翠から離し、翠を庇うよう目の前に立つ隆之。
それはさながら王子様のように翠の目に映り、そして幼い頃に見たあの背中よりも遥かに大きく広く、だが変わらず凛としたその後ろ背に鼓動は更に跳ね、翠は顔を真っ赤にした。
……え、待って待って待って、なんでここに音無君が、え、うそ、やばいやっと会えた嬉しい……、ていうか格好良すぎる!! 王子様じゃん!!
だなんてまるで長年の推しに会ったファンのように心の中で叫んだ翠が、感極まって瞳をウルウルと潤ませては、隆之の背中を見つめる。
そんな翠をチラリと振り返った隆之はというと、今にも泣いてしまいそうな翠の姿に、ギョッと目を見開いた。
「っ、……これ以上絡むようでしたら、警察を呼びます」
翠を見て一度小さく声を詰まらせた隆之が前に向き直り、低い声を出しながらサラリーマンに警告をする。
それはどこか怒気が含まれていて、その声にサラリーマンも少しだけ酔いが覚めたのかヘラヘラと笑いながらも、一歩後退したのが分かった。
「な、何だよ。別に何もしてないじゃないか」
だなんだと言いながらも、高校生である隆之に凄まれただけでそそくさと退散していくサラリーマンは、ひどく情けなく。
そんな呆気なく去っていくサラリーマンのみっともない背中をそれでもじっと見つめたあと、隆之は小さく息を吐きながら、翠へと振り返った。
「大丈夫ですか? もしかしてさっきの人に何かされましたか?」
翠の潤んだ瞳を見て、絡まれ怯えていたのだろうと見当違いをしているのか、そう途端に声のトーンを和らげ見つめてくる隆之の、眼鏡の奥から覗く瞳。
それがひどく優しく温かくて、翠は心臓が握り潰されてしまいそうなほどのときめきに息を震わせながらも、なんとか必死にブンブンと首を横に振った。
「だ、大丈夫……! ほんと、大丈夫、何もなかったから、」
「……本当ですか?」
つっかえながら何とか言葉を紡ぐ翠に、いや嘘でしょ。という眼差しを向けつつ、泣きそうになっているのに? という言葉は使わない隆之の優しさ。
それに気付いてしまった翠はまたしても泣いてしまいそうになりながらも、ドクドクと鳴り響く鼓動を沈めようと深呼吸をしては、隆之を見た。
「ほ、ほんとに大丈夫だから。それよりまた助けてもらっちゃったね。ごめんね、ありがとう音無君」
「……いえ、俺は何もしてませんから」
へらりと笑う翠の言葉に未だ納得していない様子ながらも、本人が何もないと言っているのをわざわざ追及する事でもないと思い直したのか、隆之がじっと見つめつつ、呟く。
その声と疑心の表情にですらキュンと心臓が鳴るのを感じつつ、翠は会えた嬉しさに頬を染めながら、うっとりとした瞳のまま微笑んだ。
「会えて嬉しい……」
「……え?」
「っ、あ、えっとその、そ、そう! この間ちゃんとしたお礼も出来てなかったから、会えたらな~ってなんとなく思ってて! なのにまた助けてもらっちゃって、ほんと俺ってばみっともない所ばっかり見せてて恥ずかしいな、あはは」
思わず口をついて出た本音を慌てて誤魔化した翠が早口で捲し立てては、あははと笑う。
それからポリポリと頬を掻いている翠の様子を見た隆之は一度ぱちくりと瞬きしたあと、しかしふっと穏やかに微笑んだ。
「お礼ならしてもらいましたし、みっともなくなんてないですよ」
どこか冷たく見える外見が少しだけ和らぎ、そして翠の言った言葉をフォローしてくれる隆之の優しさに、……あ~も~ッッ!! ほんっっっとに格好良すぎる!! と心のなかで絶叫した翠が、またしても顔を赤くし心臓を高鳴らせながらも、ブンブンと首を横に振る。
「あ、あんなのお礼じゃないからね!」
「十分ですよ。むしろ俺はほんとに何もしてないですし」
「いやでも、」
「本当に気にしないでください。それよりこんな時間にこんな所を彷徨いてたら危ないですよ」
だなんて話を変えるよう、だが注意するよう言ってくる隆之。
それが心配してくれているようで嬉しく、しかしそれはお互い様なのでは? と翠は思いつつも、黒のパーカーにジーンズというシンプルでラフな隆之の初めて見た私服姿に格好良いとキュンキュン胸をときめかせ、ふにゃりと頬を弛めた。
「平気だよ。それにもう帰る所だったし。……そ、それよりさ、音無君も、もう帰る感じ?」
「あ、いえ、行かないといけない所があるんですけど、」
「っあ、そ、そうなんだ!! じゃあ急いでたよね!? それなのになんか引き止めちゃったみたいでごめん! ほんと、迷惑ばっかかけてごめんね! えっと、そ、それじゃあ俺はこれで!」
もしかしたら一緒に帰れるかもしれない。だなんて淡い期待を抱いてしまった自分が恥ずかしく、隆之の返事に間髪入れず言葉を発した翠が、あーもーほんと俺のバカ! 何変な欲出してんだ。なんて首まで真っ赤に染め慌てて作り笑いをしながら、別れの挨拶もそこそこに羞恥から逃げるようその場を去ろうと、踵を返す。
だがその瞬間、不意に何処からか『パシャリ』というシャッター音が聞こえ、思わず翠はピクリと体を揺らして歩みを止めてしまった。
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