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第一章
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しおりを挟む「え、えっと、あの、俺、北高の二年の、冬月翠」
「あ、やっぱり。制服の刺繍青色ですもんね。俺は南高の一年の、音無です。音無隆之」
学ランに入る北高というネームの色は、今の三年が緑、二年が青、一年がえんじとなっており、それをやはり隣の高校だからか知っていたらしいその高校生、もとい隆之が小さく笑う。
隆之の通う南高校はブレザーであり、ネクタイの色が学年ごとに違うようで、今の三年が青、二年がえんじ、一年が緑となっている。
その事を翠も知っていたし、何より記憶のあの子は自分よりも背丈が小さかった事から年下だろうと思っていた為、一年生という事に驚きはしなかったものの、小さな笑顔と名前を聞いただけで翠は空をも飛べそうなほど嬉しく、おとなし、たかゆき……。と心のなかで名前を復唱した。
「お、音無君、本当にごめんね。俺のせいで遅刻だよね」
たかだか名字を呼んだだけだというのにひどく気恥ずかしく、翠は自分でも君付けなんて柄じゃないと知りつつもそれでも嬉しくて、頬を紅色に染めながら今日何度目か知らぬ謝罪を口にする。
しかし隆之はやはり、ごめんなどと言わなくてもいい。という顔をしただけだった。
「俺もともと朝弱くて良く寝坊するんです。だから今更遅刻が増えた所で痛くも痒くもありませんから、気にしないでください」
きっと翠の申し訳なさを和らげようとわざとおちゃらけた言い回しをした隆之がそれから、そういえば、と翠に尋ねた。
「そういえばさっき、電車が来る前何か言いかけてましたよね、なんですか?」
揺れ動く電車のせいでぴたりと密着してしまいそうなほど至近距離になり、ぐっと壁に手を付いて翠を押し潰さないよう配慮しながら聞いてくる隆之。
その声が、大して身長差がないせいでダイレクトに耳元で聞こえ、翠は更に縮まる距離と耳にかかる吐息、それからふわりと香る爽やかな匂いにまたしても盛大にドクンッと心臓を鳴らし、目の奥でチカチカと星が瞬くのを見た気がした。
「はわわわわ」
「はわ、……え?」
思わず漏れた翠の間抜けな声に隆之が不思議そうな顔をして、翠を覗き込む。
その純粋な眼差しが余計に眩しくて、えっ何これ無理死ぬ!! と翠は鞄で顔を隠しながら、はくはくと唇を震わせたあと、言葉を紡いだ。
「……あああのっ、め、迷惑かけたお詫び、させて欲しい!」
「お詫び?」
「うん!」
「さっきから言ってますけど、本当に迷惑とか思ってないので、お詫びだなんてしなくて良いですよ」
「……っ、じゃ、じゃあ、お礼! お礼、する!」
本当に気にしなくて良いと断るその言葉に、鞄をバッと下げ顔を見つめた翠が尚も食い下がれば、一瞬だけ呆けた表情をしたあと、ふはっと隆之が笑った。
「それもいいですって。俺がしたくて勝手にしたんですから。あ、でも、ちゃんと前見て歩いた方が良いとは思います」
小さく笑いながら、まるで幼稚園児に言うような言葉を投げてくる隆之に、翠は益々顔を赤くしながらも、「う、うん! 気を付けるね!」だなんて馬鹿丸出しの返事をしては、コクコクと一生懸命頭を上下に振る。
その姿は本当に幼稚園児のようで、なんだかツボにハマったらしい隆之がまたしてもふはっと笑みを浮かべていた。
そうこうしている内に電車はあっという間に学校がある最寄り駅へと着いてしまい、電車から降りた二人。
昨日は自身に向けられる視線や言葉にうんざりとしていた翠だったが、今日はそのどれもが全く気にならず。むしろ隆之だけに神経を集中させていたようで、今も尚隆之がさも当然というように一緒に並んで歩いてくれている事が嬉しいのか翠は天にも昇るような気持ちで一杯だった。
……めちゃくちゃ優しいし、やっぱ超格好良いし、しかも絶対あの時の子だし!
そう心のなかで悶々としながら、何故か叫びジタバタと暴れたい衝動に駆られる翠はされど、まるで借りてきた猫のように大人しいまま、隆之の隣を歩いている。
その伏し目がちな姿は息を飲むほど美しく、キラキラとした髪の毛や真っ白な頬、長い睫毛や艶々の唇を、まさに完璧な美だと讃えるよう、太陽がそっと優しく照らしていた。
「それじゃあ、失礼します」
「あっ、」
ポーッと隆之に見惚れながら歩いていたが、駅を出てすぐの所にある学校の為、数分でちょうど反対側へと渡る横断歩道へと来てしまい、隆之がそれじゃあと挨拶をした。
──のだが、翠は咄嗟に腕を伸ばして、気付けば隆之の制服の裾をちんまりと詰まんでしまっていた。
ぎゅっと、控え目に自分の服の裾をそれでも掴んでいる翠に、隆之が不思議そうな顔をする。
そんな隆之の反応に離れがたくて反射的に掴んでしまった翠はしかしハッとし、慌ててパッと手を離した。
「っあ、ご、ごめんね……」
何やってんだ。俺。とカァッと頬を染めながら謝り、俯く翠。
しかしそれを違う方へ解釈したのか、隆之は一度考えるような素振りをしたあと、すぐ側にあった自動販売機を指差した。
「……じゃあ、あれ、奢ってください」
どうやら、翠が未だにお詫びだかお礼だかを気にしていると思ったのであろう隆之がそう言えば、一瞬だけポカンとした表情をしたあと、勿論そのモヤモヤもあった翠は途端にパァッと表情を明るくさせた。
「うん! うん! 奢る!!」
首がもげてしまうのではと言いたくなるほどの勢いで、翠がぶんぶんと首を上下に振る。
それがやはりツボなのか、またしても隆之がふっと笑い、二人は和やかな雰囲気で自動販売機の前へと移動した。
「えへへ、何本でも奢るよ!」
「ふっ、……いや、一本で十分です」
花をも恥じらうほどの可憐な笑顔に似合わず、アホッぽい笑い声を上げながら財布を取り出し見つめてくる翠に、隆之が吹き出しつつ遠慮する。
それに、え、でも。と今度は残念そうな表情をした翠がとりあえずと財布から小銭を出そうとしたが、何分未だに緊張しているせいで手が震え、盛大に小銭をばら蒔いてしまった。
「あわわわっ」
「っ、あははっ!」
焦る翠と、堪えきれなくなったのか、大きな笑い声を出した隆之。
翠からすればなぜ隆之が笑っているのか分からず、へ? と呆けていると、隆之が道端にしゃがみこみ小銭を拾い始めたので、慌てて翠も自身がばら蒔いた小銭を拾った。
「あぁぁ……、ほんと何から何までごめんね……」
「ふふ、いえ、俺の方こそ笑ってすみません」
格好悪い所ばっかり見せてる。と翠がへなへなと力なく呟けば、隆之が悪いと思ったのか、口元を掌で隠し笑いを堪えていて。
一見、あまり感情を見せないようなタイプかと思ったがどうやら違う様子で、その優しい眼差しにまたしても翠が見惚れていれば、不意にトンッと指先が触れた。
そんな何気ない、然り気無い接触だというのに翠は顔を赤くし、微かに触れた隆之の武骨な指にときめいてしまって、その手を見た。
自分の少々華奢な手とは違う、男性らしい筋と血管が浮く、大きな手。
身長は大差ないのにどうやら手は隆之の方が一回りほど大きいらしく、そんな男らしさに同じ男だというのにキュンッと胸を高鳴らせた翠は、……な、なんだコレ。とやはり謎の苦しさに苛まれながらも、お金を拾い終わり、立ち上がった。
「じゃあ、これで」
そう指差す隆之が選んだのは、お茶のペットボトルで。他には要らない? と翠は聞いたが、やはりまたしても笑いながら十分ですと言われてしまい、これじゃあお詫びにもお礼にもならない。と翠は少しだけしょんぼりとしながら、ついでにこの自動販売機にしか売っていないお気に入りの苺ミルクの缶を買った。
ガコンッと落ちてくる缶。
隆之のお茶を取る前に苺ミルクのボタンを押したため、取り出し口でお茶のペットボトルと苺ミルクの缶が重なっている。
それに、しまった。と思いながらも腰を屈め、取るのに苦労しながらも翠が、はい! と隆之にお茶を渡せば、やはり何故か少しだけ笑われてしまった。
「ふ、ありがとうございます」
「いやむしろ俺の方が色々ありがとうだから!」
「だからそんな事ないですって」
そうふわりと笑った隆之がタイミング良く変わった信号を見て、「それじゃあ」と歩き出す。
その背に、あっ。と思ったが今度こそ引き止める事など出来るわけもなく、名残惜しむよう、「バイバイ!」と翠がその背に声を掛けぶんぶんと手を振れば、隆之が振り返った。
「じゃあまた、冬月さん」
翠がほぼ無理を言って買わせて貰ったとも言えるお茶を手にし、にこりと笑う隆之。
その柔らかな低い声が、その優しげな姿がとびきり格好良くて、そしてその薄い唇から紡がれた自分の名字に、翠は目を見開いた。
そんな翠を他所に、隆之は横断歩道を渡りきり学校へと入って行ってしまい、翠はぽつんとその場に佇んでいたかと思うと、へにゃへにゃと座り込んでは、深い溜め息を吐いた。
恥ずかしくて、でも飛び上がりたいほど嬉しくて。
そんな、幼少期のあの時の事を思い浮かべる際の柔らかな気持ちとはまた違った産まれて初めての感情に、翠は目を丸くし頭から湯気を出す勢いで、踞ったまま。
それから、
「……はは、み、名字、呼んでもらっちゃった……。……ううぅぅ、何これ苦しい!」
なんて呟き、……体が破裂してしまいそうだ。と翠は晴れた秋空の下で情けなく踞ったまま、もう一度、ううぅぅ、と唸ったのだった。
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