10 / 28
10
しおりを挟む──だんだんと空が白み始めた、明け方。
泣きすぎてズキズキとする頭のまま、けれども唯は何とか立ち上がり、机の上にある母が作ってくれたおにぎりに手を伸ばした。
「……いただきます、……んぐ、……うん、おい、しいなぁ……」
もうカピカピとしたお米は冷たく、お腹も空いていなければ、本当は味も分からない。
けれども、煌にも家族にもこれ以上心配をかける事も、優しさを無下にする事も出来ないと唯は無理やり口に詰め込み続け何とか完食しては、ペットボトルの水も勢い良く飲み、自身の頬を両手で叩いた。
「よし、よし……! 僕が泣くのは違うんだから、もう泣くのは終わり!!」
泣きたいのはずっと煌くんの方だったんだから。と唯が自分を鼓舞するよう叫び、決意を固める。
それから今もなお薬指を彩る指輪を眺め、唯はそっとその指輪にキスをした。
「……ありがとう、煌くん」
そう囁き、指輪を外した唯が、丁寧に箱の中に指輪をしまう。
真実は唯にとって悲しい事だったが、それと同時に、同じ愛ではなくともそれでもずっと真摯に一人の人間として煌が唯を愛してきてくれた事に、変わりはなくて。
煌が与えてくれた全ての事が今の唯を形作っている事も変わりなく、むしろ今気付けて良かった。と唯は煌にとって一生逃れられない枷の契約を結んでしまう前に気付けた事をありがたく思いながら、天を仰いだ。
見上げた天井には、煌が昔貼ってくれた光る星のシールが月夜の残光を纏い、微かに瞬いている。
先週まではここで動物の姿になり二人で丸まってお昼寝していた事が幻だったのではないかと思いながらも、唯は弛みそうになる涙腺を叱咤した。
「……大丈夫、大丈夫……。うん、こっからどうすれば良いのか真剣に考えるんだ、僕」
ぐらぐらと歪む視界のなか、もう泣かない。と決めた唯が、これからどうすれば良いのかと頭を悩ませ、それからしばらくし、決意が宿る眼差しで、前を見た。
「……うん、そうだ。そうしよう」
先ほどから心の声をぽつりぽつりと溢していた唯が、ようやく閃いたのか少しだけ明るい表情をする。
それから自身の首の後ろ、煌の歯形を持つはずだった場所を擦り、一度目を閉じた唯は、二晩泣き続けべちゃべちゃになった顔と昨日はお風呂にも入っていない事を思い出し、慌てて部屋を飛び出した。
***
「……ふぅ~、落ち着け、落ち着くんだ、僕」
お風呂に入り、さっぱりとした体とだいぶスッキリとした心持ちで、唯がベッドに腰掛けながら呟く。
時計を見れば朝の八時で、そろそろ今日も煌が来てくれる時間だろうと唯は緊張と不安でドキドキと心臓を鳴らしつつ、煌が来るのを待った。
そうして、待つこと数分後。
階段を登る音が微かに聞こえ、唯がピンと背筋を伸ばす。
それから程なくし、コンコンとドアをノックする音と同時に、扉が開いた。
「唯……、起きてたのか」
不安げな様子で部屋に入ってきた煌が、既に唯が起きていて、あまつさえ準備まで終えて待っている姿に目を見開く。
そんな煌に唯は、そんな日もあるんだよ。と言いたげに小さく笑い、隣を叩いた。
「煌くん、おはよう。こっち、座ってくれる?」
「あ、あぁ……」
「昨日はごめんね」
「……いや。体調が良くなったようで良かったよ」
そう言いながら煌がそっと手を伸ばし、唯の頭を撫でようとする。
以前ならば喜んでその手を受け入れ、すりすりと自ら顔を寄せていただろうが、しかし今はもうそんな事は出来ないと唯はさりげなく手を躱し、煌を見た。
「っ」
「煌くん、あのね、僕、他に好きな人が出来たんだ」
唯の突然の告白に、煌がピシリと体を固まらせ、息を飲む。
煌の薄い灰色の鋭い瞳が困惑に揺れ始め、その美しさに胸がギュッと痛んだが、それでも唯は自分の本心が漏れ出ぬようしっかりと深呼吸をしてから、頭を下げた。
「だから煌くんと番にはなれません。ごめんなさい」
──必死に唯が頭を悩ませ、考えた事。
それは、どうすれば煌に罪悪感を持たせずに番になる約束を解消出来るか。という点で。
きっと、この間の優弥との話を聞いてしまい自分をそういう意味で愛していないと気付いたから。と本当の事を言っても、煌はそんな事はないと、愛していると言ってくれると、唯は分かっていた。
だからこそ、そんな嘘をつかせてしまうのは絶対に嫌だと思った唯が考えたのは、自分が別の人を好きになったという嘘をつけば良い。という、シンプルだが最強の方法で。
そうすれば、傷を付けてしまった責任からずっと一緒に居るという子どもの時に交わした馬鹿げた約束を律儀に守ろうとしている煌の心も軽くなるだろうと、考えたのだ。
もちろんそんな人は居ないし、これからも煌以上に愛せる人と出会う事はないだろう。
しかし煌を騙すにはそれを信じ込ませる必要があり、唯は顔を上げてしっかりと煌を見た。
「昨日は、それを考えるために一人で居たかったんだ。本当にごめんね、煌くん」
「……」
唯の言葉に、固まったまま何も発しない煌。
そんな煌を見て、それはそうだろうな。なんて唯は、子どもの頃からべったりと煌に引っ付いてきた自分が突然好きな人が居るなんて言うのはいささか無理があると思いながらも、煌の返事を待った。
「……」
「……」
煌が項垂れ、何かを耐えているような、そして物凄く頭の中で考えているような沈黙が続き、ピンと張り詰めた空気が漂う。
その中でしかし唯はどこかとても落ち着いた面持ちで、ただひたすらに煌を見つめ続けていた。
さらりと揺れる灰色がかった髪の毛に、顔を押さえる血管の浮いた大きな手。
唯よりも一回り以上大きな体は筋肉質で、煌が葛藤で苦しんでいるというのに、唯はやはり馬鹿みたいに心をときめかせてしまった。
「……か」
「え?」
「そいつは、俺よりも唯を幸せに出来るのか?」
どこの誰だ、や、どんな奴なんだ、という質問をしてこない煌の、自分の言葉を常に信じ肯定し、自分を想ってくれていると分かる言葉。
それに唯はやはり泣いてしまいそうなほど愛しく、嬉しく思いながらも、首を振った。
「僕は幸せにしてもらいたいんじゃなくて、好きな人と番になって、二人で一緒に幸せになりたいんだよ」
──大好きな人と、煌くんと、そういう未来を築いていきたかったんだよ。
だなんて心の中で本音を呟きながら、唯が穏やかな顔で笑う。
そんな唯の、どこか覚悟と決意が伴った美しい表情に煌は息を飲んだあと、ぐっと唇を噛み締め、それから唯を見た。
その瞳が一瞬懇願するように悲痛な色を乗せた気がしたが、すぐにいつもの鋭くも優しい色合いへと変化し、煌がゆっくりと頷く。
そして、煌も穏やかに微笑んだ。
「……分かった。唯が決めた事なら、俺はそれで良いよ」
深く、しっかりとした口調で放たれた言葉が、唯の胸を貫く。
この十六年の積み重ねてきた絆が、たった数分で無へと変わる瞬間。
それはあまりにも呆気なく、けれどもこれで良いのだ。と唯は自身の痛みに気付かないフリをしては、煌へと手を差し出した。
「……これからも、幼馴染みとして、友達として、宜しくね」
あの日、あの時、本当ならばこう言うべきだった言葉を、なんとか平静を装い紡ぐ唯。
それは、番になれなかったとしても煌のいない人生など考えられない。という最後のわがままでもあり、唯がうかがうようチラリと煌を見上げれば、煌は少しだけ躊躇したあと、それでもやはり唯の意思を尊重するよう、握り返してくれた。
温かくて、優しくて、強くて、いつも自分を導き守ってきてくれた、大好きな手。
それを噛み締め、自分ではない人と幸せになっていくのだろう煌くんを心から祝福出来ますように。と願いを込めながら、唯が手を離す。
「煌くん、ありがとう」
「……ああ。俺も、ありがとう、唯」
「ふふ」
「……今日はもう帰るよ」
「……うん」
お互いにありがとうと伝えあい、ずいぶんとぎこちない笑顔を交わし、煌が立ち上がる。
その後ろ背を唯は堪らず追いかけたくなりながらも、必死に衝動を抑え、頷いた。
──そうして、それぞれの想いを色々と抱えたまま、出会ってから初めて、二人は自らの意思で週末を別々に過ごしたのだった。
73
あなたにおすすめの小説
当たり前の幸せ
ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。
初投稿なので色々矛盾などご容赦を。
ゆっくり更新します。
すみません名前変えました。
僕が死んだあと、あなたは悲しんでくれる?
いちみやりょう
BL
死神 × 不憫なオメガ
僕を大切にしてくれる青砥と、ずっと一緒に居られると思ってた。
誰も感じない僕のオメガのフェロモンを青砥だけはいい匂いと言ってくれた。
だけど。
「千景、ごめん。ごめんね」
「青砥……どうしたの?」
青砥は困った顔で笑って、もう一度僕に“ごめん”と謝った。
「俺、和樹と付き合うことにした。だから、ごめん」
「そんな……。もう僕のことは好きじゃないってこと?」
「……ごめん」
「……そっか。分かった。幸せにね」
「ありがとう、千景」
分かったと言うしか僕にはできなかった。
※主人公は辛い目に遭いますし、病気で死んでしまいますが、最終的に死神に愛されます。
僕はあなたに捨てられる日が来ることを知っていながらそれでもあなたに恋してた
いちみやりょう
BL
▲ オメガバース の設定をお借りしている & おそらく勝手に付け足したかもしれない設定もあるかも 設定書くの難しすぎたのでオメガバース知ってる方は1話目は流し読み推奨です▲
捨てられたΩの末路は悲惨だ。
Ωはαに捨てられないように必死に生きなきゃいけない。
僕が結婚する相手には好きな人がいる。僕のことが気に食わない彼を、それでも僕は愛してる。
いつか捨てられるその日が来るまでは、そばに居てもいいですか。
さかなのみるゆめ
ruki
BL
発情期時の事故で子供を産むことが出来なくなったオメガの佐奈はその時のアルファの相手、智明と一緒に暮らすことになった。常に優しくて穏やかな智明のことを好きになってしまった佐奈は、その時初めて智明が自分を好きではないことに気づく。佐奈の身体を傷つけてしまった責任を取るために一緒にいる智明の優しさに佐奈はいつしか苦しみを覚えていく。
たしかなこと
大波小波
BL
白洲 沙穂(しらす さほ)は、カフェでアルバイトをする平凡なオメガだ。
ある日カフェに現れたアルファ男性・源 真輝(みなもと まさき)が体調不良を訴えた。
彼を介抱し見送った沙穂だったが、再び現れた真輝が大富豪だと知る。
そんな彼が言うことには。
「すでに私たちは、恋人同士なのだから」
僕なんかすぐに飽きるよね、と考えていた沙穂だったが、やがて二人は深い愛情で結ばれてゆく……。
昨日まで塩対応だった侯爵令息様が泣きながら求婚してくる
遠間千早
BL
憧れていたけど塩対応だった侯爵令息様が、ある日突然屋敷の玄関を破壊して押し入ってきた。
「愛してる。許してくれ」と言われて呆気にとられるものの、話を聞くと彼は最悪な未来から時を巻き戻ってきたと言う。
未来で受を失ってしまった侯爵令息様(アルファ)×ずっと塩対応されていたのに突然求婚されてぽかんとする貧乏子爵の令息(オメガ)
自分のメンタルを救済するために書いた、短い話です。
ムーンライトで突発的に出した話ですが、こちらまだだったので上げておきます。
少し長いので、分割して更新します。受け視点→攻め視点になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる