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32. 誰か、じゃなくて、僕が
その日、学園から出てきたシェリルの目の前を、白猫が横切った。
シェリルはそれを目で捉え、周りの人たちに悟られないように彼の後を追う。
向かう先はあの廃れた庭園の傍の大木だ。
その下で立ち止まっているリルを抱きしめて、シェリルは光った転移陣の中に吸い込まれ······───······目を開ければ、美しい石畳と噴水が見える。
しっかり転移できた事に安堵し、周りを見渡せば、ベンチに座り微笑んでいるヒューがいた。
「久しぶり、シェリル嬢。学園はどうだったかな?」
「ヒュー様、お久しぶりでございます」
シェリルが深く腰を折れば、彼はポンポンと自分の隣を叩いた。
”ここに座って”という合図に頷いて、シェリルは彼の隣に腰掛ける。
緊張した面持ちで座った彼女を見て、ヒューベルは解きほぐすように口を開いた。
「今日も疲れたかい?学園は楽しい?」
今日はヒューベルが臨時で入れた貞操概念の授業のあった日だ。
勿論それを知っていて、反応を窺う為にシェリルをここに呼んだのだけど。
「はい······本日は本年度から実施されるようになった授業が追加されまして。そちらだけだったのです」
「ふーん、本年度からねえ?どんな授業?」
リルはヒューベルをチラっと横目で見る。
自分で学園に提案して無理矢理組み込んだ癖に、悪気もなさそうな顔でよくもまあ平然と!
まあ?······それは、言わないで黙っているけどさあ······。
「はい、国で決められて今後も一年に一度実施されるようです。この国の貞操観念······に関する授業でした。先生が最近は王国の男女関係が乱れていると仰っていて······」
うんうん、とヒューベルは大きく頷くと、口を開く。
「なるほどね。貴族は知っておかないといけない問題なんだろうね?でもさ、やっぱり以前から疑問だったんだけど、シェリル嬢は王太子の婚約者なんだから、そういった関わり合いについて分かっている筈だよね?」
「それは······私はこの国に関しては事故の後、意識が戻った後の事しか分からず······無知でして······」
「へえ、なるほど······」
ヒューベルは手を顎に当てて考え込んだ。
やはり”世渡り人”として、転生あるいは転移してきたと考えるべきか?
でも、彼女は自分の知っている幼い頃のシェリルと見た目、性格共に変わってはいない。
途中、ワガママ令嬢などと言われていた時が異常だったくらい、自分の知るシェリルは昔からこのままなのだ。
「じゃあ、王族と結婚するシェリルにとって、その授業は為になった。と言う事だね?なら、やっぱりキスの事は慎重に考えた方が良いんじゃないかい?」
その言葉にシェリルは顔をあげる。
「い、いえっ!でも、私は王族の方と結婚するつもりはありませんので······。ヴァレンティ―ナさんが王族の方々全員と結婚すると言っていらっしゃいましたから······。私はその為にすぐにでもキス······を練習しなくてはいけないのです······」
そこまで言って、シェリルは申し訳なさそうにヒューを見た。
「ですが、こんなに大事なものと知らず······あんな事を言ってしまい申し訳ございませんでした。仰る通り、私は未だ王太子の婚約者という身なのでご迷惑かけてしまいますし······。ヒュー様のお手を煩わせるわけには参りませんから······。
ヴァレンティ―ナさんが適当な男性を紹介してくれると仰っていましたので······この話は無かったことに「は?」
ヒューベルは自分の中に渦巻く黒い感情に驚く。
いや、確かに彼女をあの調教部屋に入れて自分の事以外見えなくなるまで蕩けさせたいと思っていた。
それは事実だ。
それが、正常な人間の考えではない事だって分かっている。
けれど。それが他人に奪われたら?
他の男が、シェリルに触れたら?
そんな奴がいれば、じっくりと、自分の心の痛みを味わせる様に、時間をかけて······
「······殺してやる」
「え?」
シェリルはヒューの言葉が聞こえなかった。
彼が下を向いたまま一点を見つめ、何かをぼそりと呟いて。
次の瞬間ヒューにドンッと肩を押され、シェリルは瞳を閉じる。
「······っう、ぁ!」
続く痛みはない······とシェリルが瞳を開ければ紫色の美しい瞳が目の前にあって彼女は息をのんだ。
彼に押し倒されている。なのに、頭は打たないように配慮して手を添えてくれていて······、彼の優しさを感じてシェリルはふっと微笑む。
「ッ!く······そ······」
ヒューベルはその微笑みに苛立った。
なんでこんなに余裕そうなんだ!
なんで拒絶しない!
他の男にこんな風に押し倒されても彼女はこんな風に······微笑むのか······?!
ヒューベルはそんな乱れに乱れた心の内を出さないように自分を制し、通常通り振舞う事に注力する。
「こんな状況で笑っていられるのかい?このまま辱めをうけるとは思わない?」
シェリルはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。だってヒュー様は今もこうやって頭が当たらないように気遣って下さっているではないですか」
ヒューは彼女の頭の下に添えていた手を抜くと彼女の頤に手を添える。
「······はぁ。でも、本当にしっかり考えた方がいい。王太子の婚約者としてキスだけでも他の人としているなんて知られたら本当に大変な事になるよ。それこそ、君は罰をうけてしまう」
王太子の婚約者が他の男とキスをしているなんて露見した際には醜聞だ。
現公爵である彼女の兄、アルフレッドまで迷惑がかかるだろうと想定して、フィリスに忠告をすれば彼女は悲しそうに笑った。
「そう······ですか。それは問題ですね······。でも、私はヴァレンティ―ナさんの為にそれを行わなくてはならないのです」
「だから······。それなら、僕が協力する。
誰か、じゃなくて僕が、だ」
真っすぐに見つめられているその瞳に自分が映っていて、思わずシェリルは視線を反らした。
直後、ヒューベルは身体を引いて座り直し、距離を取るとシェリルに手を伸ばす。
別にヒューベルだってシェリルを怖がらせたいわけではないから。
その手を取ったシェリルを引き上げて、隣に座らせるとヒューベルはシェリルの瞳をまっすぐ見つめた。
「シェリル、僕じゃ嫌?僕なら。此処なら、誰にも知られないし」
「······っ」
その美しい紫色の瞳が揺れていて、シェリルは動揺する。
どうして、そんなに悲しそうな表情をするの?
なんでそんなに親身になってくれるの?
でも······嫌じゃない······そう思っている自分がいる。
こんな自分のようなキモチワルイ人間に、そんな事を言える権利すらないけれど。
この日、こうしてシェリルはヒューとキスの練習の為、定期的に会う約束をして寮に帰った。
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