ブリュー・デ・ブリュー

蒼月さわ

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「バーン監督」

 私は安心した。監督は普段どおり濃い茶色の地味なトレンチコートを着ている。どことなく疲れているように見えた。鮫のような記者たちに質問攻めにされたのかもしれない。それではきっとアイも疲れただろう。だが、監督の後に続けて入ってきた男の姿に、そのような考えは砕け散った。エヴァンスマネージャーだった。
 私のなかで黒い影が一気に増幅した。ランドンコーチも入室し、ドアを閉めた。まだアイが戻ってきていないのに。
 騒がしかったドレッシングルームは、潮がひくように静まる。監督は我々の前に立って、拍手をした。

「みんな、素晴らしかった」

 チームメイトが歓声をあげて、拳を突きあげる。

「今日の試合はタフな内容だった。アリーナは強かった。しかし勝利したのは我々だ」

 今度は口笛と拍手がおこる。

「今日のうに、最後の最後まで戦う姿勢を忘れなければ、我々は優勝できる」

 監督はじっくりと見渡した。アイを探しているのかと思った。しかし何も言わなかった。

「さあ、今日はもうシャワーを浴びて、家へ帰ろう。まだ優勝レースは終わっていないが、今日だけは美味しい食事が食べられるだろうからね」

 みんな同意の声をあげながら、シャワーを浴びる支度に入る。私は監督の横顔に釘付けになった。表情は穏やかで、微笑んでいる。しかしどこか寂しげなのだ。その背後にいて、目立たないように片隅に立っているエヴァンスマネージャーも気になって仕方がない。何かが起きている。いや、起きたのだ。

「少々、話しておきたいことがある」

 チームメイトはそれぞれ手をとめて、監督に注目した。

「レインのことだが」

 監督は後ろに両手をまわした。

「病院で診察を受けた結果、右足を骨折していて、全治一ヶ月だそうだ。けれどひどい怪我ではないので、完治するのにそれほど時間はかからないだろう」
「戻ってきたら、またいじめてやりますよ」

 ゲイリーがジョークを飛ばす。周囲が笑った。
 だが監督の話は、それで終わりではなかった。

「それと……アイのことだが」

 監督の傍らにいるランドンコーチが、同じ姿勢のまま顔を伏せた。監督は躊躇うように言葉を切ったが、やがて小さなため息を伴って続けた。

「アイは、今日限りでクラブから去ることになった」

 一瞬にして、笑いが止んだ。

「クラブは彼を日本へ帰すことに決めた。とても、残念だ」

 ドレッシングルームは水を打ったように静まりかえった。つい少し前まであれほど賑やかだったのが嘘のような沈黙である。ゲイリー、エヴァレット、ドュートル、ポーティロ、ギル……みんな芝居でもしているかのように、同じ表情をしている。
 私は胸元を強く押さえた。私のなかの影が、完全に光を喰い潰した。

「アイは今日の試合で素晴らしい働きをした。彼が優秀なストライカーであることは、みんな分かってくれたと思うが……」

 私は何も考えていなかった。ただ理不尽な想いだけが、私の行動の原理になった。

「……何故です」

 気がつけば、監督の前に歩み出ていた。

「理由は? いったい何故? よりにもよって、今日の試合のあとで、どうしてそんなことを? 理由は? 理由はいったいなんです!」 

 ランドンコーチが後ろから私の肩や腕を強く掴んだ。まるで監督への暴行を止めようとするかのように。私は監督を尊敬している。そんな愚かな行為に走るわけがない。ただ私は知りたいだけだ。

「ヴィクトール、落ち着くんだ」
「私は落ち着いています。だからこうして、問い質しているんです!」

 アイがクラブから去る? レンタル移籍してから、まだ数ヶ月しか経っていないのに!

「どうしてですか、バーン監督。私はまったく理解できない!」
「つまりだ、ヴィクトール」

 部屋の隅にいたエヴァンスマネージャーが、おもむろに近寄ってきた。

「彼は前の試合で、味方の選手に掴みかかった。クラブの練習でも、チームメイトとトラブルを起こしていた。そうだろう?」

 マネージャーは同意を求めるかのように私の目を見つめてくる。

「彼の態度はプロのサッカー選手として失格だ。チームにも悪影響をもたらした。これ以上、看過はできない。だから、日本へ帰すことにした。契約上も問題はない」

 私はランドンコーチの手を振りほどいて、彼を激しく睨みつけた。全身が炎で炙られ焼かれているのではないかと感じるほど、怒りで熱くなった。

「……あなたにそんなことを言う資格はない。アイの態度を責める前に、ご自分の軽率な言動を反省されたらどうですか? アイが自然にチームに溶け込めなかったのも、あなたがチームメイトに余計なことを喋ったからだ。それはクラブのマネージャーがするべき態度ではない!」
「私が何を喋ったというんだ? ヴィクトール? ノーザンプールのクラブマネージャーとして、常に最善のことを考えている私を、侮辱する気かい?」

 エヴァンスマネージャーは平然と両腕を組みながら、威圧するように私の回りを歩いた。

「君は随分と彼を買っているようだ。最初は興味がなかったのに」
「アイが素晴らしい選手だからですよ。チームには欠かせない存在になるはずです」
「しかしもう、ここにはいられないんだ、ヴィクトール」

 まるで頭の悪い子供を優しく諭すかのような言い方だった。自分の権力の優位を信じて疑わない態度だ。だが私の怒りはこの男が思っているよりも深かった。
 私はわざとバーン監督に背を向けた。先程から私とエヴァンスマネージャーの間に割って入ろうとしている。しかし大切な監督を巻き込みたくはなかった。

「よくわかりましたよ、ムッシュウ。あなたがたの企みがね」

 人間というのは、本物の怒りを知ると、逆に冷静になるのだということがよくわかった。体内中の血が滾っているにもかかわらず、私の思考は恐ろしいほど醒めていた。

「あなたは、いやあなた方は、故意にアイの話をチームメイトに流したのだ。このクラブから追い出すためにね」
「君は気が動転しているんだ」

 エヴァンスマネージャーは私を納得させようとした。

「大体、追い出すためなら、獲得するわけがないだろう?」
「あなた方が欲しかったのは日本人選手ではなく、日本の援助だ!」

 アイはあのフラットで叫んだ。自分はけして資金のためだけに呼ばれたのではないと。しかしクラブ側からすれば、そのためだけに獲得したのだ。そして用済みになったのだ。

「日本企業と契約を結んだ以上、勝手にアイを首にはできない。あなた方は正当な理由が欲しかったのだ。それにはアイ自身に、事件を起こしてもらわなければならなかった。だからあなたは、無責任にもチームにウィルスを巻き散らしたのだ!」
「随分と興味深い話だが、ミステリー小説の読みすぎだ。そんな回りくどいことをするくらいなら、最初から彼を取らないよ」
「そのとおり、あなた方が欲しかったのはアイではない。契約に必要な日本人選手だ。誰でも良かったのだ。あとでゴミのように捨てればいいのだから」

 登録選手の名前は<ジャパニーズ>だ。
 私は情けなくなった。知らなかったにせよ、彼らの陰謀に私も加担したのだ。あのようなことを言わなければ、今ごろアイは普通にこの場にいたはずだ。
 ……私のせいだ。
 エヴァンスマネージャーは私の目の前で立ち止まった。革製の靴の踵で床を踏み鳴らし、腕を組んだまま、胸を反らす。切り込まれた顎を突き出し、権高に私を見据えた。
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