ブリュー・デ・ブリュー

蒼月さわ

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schwur

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 スパイクの紐をもう一度結び直し、ほどけないことをよく確かめてから、俯いたまま腰をあげた。それを脇から見ていた俺も、一緒に立ちあがった。

「今度は大丈夫か?」

 彼はびっくりしたように慌てて振り返った。俺がドレッシングルームの片隅で石像のようにベンチに座り、スパイク紐を結び直している様子を眺めていたことに気がついていなかったらしい。彼らしいが、少しがっかりした。

「大丈夫……です」

 まだドイツ語が不自由な彼の口調はたどたどしい。まるでロボットが喋るような短い単語だけが出てくる。いっそうのこと身振り手振りでのジェスチャーの方が、会話が成り立ちそうだ。けれど、この内気な奴がそんな大胆なコミュニケーションをするはずがない。だから、誰とも馴染めずに孤立している。

「試合までには、まだ時間がある。ウォーミングアップをするなら、一緒にやろう。その方がお互いにいい」

 彼はフォワードで、俺はゴールキーパーだ。このポジションでお互いにやれることといえば、シュート練習だ。彼がゴールを狙い、俺がそれを阻む。簡単でつまらないかもしれないが、体を慣らしていくにはいい。三時間後には、お楽しみの試合が控えている。
 彼の神秘的な目が途端に大きくなった。だが次第に不機嫌そうに睨みつけてくる。彼の第一の関門だ。ここで大抵の人間は彼に不快感を覚えて挫折する。だが、俺はチームメイトでキャプテンだ。難問はとっくにクリアした。

「緊張することじゃない」

 そう軽く言うと、彼の頬に赤みがさした。恥ずかしそうに下を向く。きっと誰からも指摘されている癖に違いない。

「大体、まだ選手が揃っていないんだ。みんなのんびりしすぎだと思わないか?」

 クラブのユース同士の練習試合とはいえ、いいプレーをすれば監督やコーチの目に留まり、ゆくゆくはトップチームへ昇格できるかもしれない。クラブユースに所属しているとはいえ、全員がプロのサッカー選手になれるわけではないのは、十八のガキな俺でもわかる。だからこそ、どんな試合でも準備を怠らず、全力でプレーしなきゃならないっていうのに。チームメイトたちがゾウのようにのろいのは、きっとブンデスでもトップクラスのクラブに所属している妙なプライドがあるせいだ。トップのクラブだからこそヤバイのに。

「……あの」

 チームメイトの緩さに怒っていた俺をなだめるような声が、すぐそばから届いた。

「みんな……すぐ、集まる、思い、ます。今日、相手、強い、です、から」

 何とか単語をしぼり出しているといった調子で、彼が言ってきた。俺はさりげなく指の表面で頬をかいた。サッカーのことを考えている時の俺の形相は悪魔のようだと、ユース仲間のユルゲン・バウアーに真面目に指摘されたことがある。きっと今も頭から尖った角が生えていたに違いない。彼が俺を変に恐れなきゃいいがと心配したが、それは勝手な思い込みだった。

「今日、勝ち、たい、です」

 俺は顔をあげて振り返った。俺の胸元あたりまでしかない彼は、顎を精一杯反りあげて、息を呑んで俺を見上げていた。リスのような小柄な体には、ライオン並みの闘争心が宿っている。コーチもチームメイトたちもわからないかもしれないが、俺にはわかる。こっちが焼かれそうな強い眼差しに、利かん気そうな口元を見れば。
 込み上げてくる笑いが、俺の口を豪快に曲げた。

「それじゃ、先に練習しながら、のんびり屋どもが欠伸をしながらやって来るのを一緒に待とうか、アイ」
「はい」

 アイはドイツ語で頷くと、嬉しそうに俺へはにかんだ笑顔を見せた――



 アンセムが聞こえた。入場開始だ。
 周囲に集まる関係者たちが、拍手と掛け声をかけてくる。それに見送られながら、俺たちは出口へ向かってトンネルを進む。手を繋いでいる黒髪の男の子は、俺よりも堂々と前を向いて歩いている。まるでこれから戦場に赴く戦士のように雄々しい。俺は少年のちっぽけな従者で、主の邪魔にならないように、掴んだ小さな手に導かれるようにして、ピッチへ出た。
 眩しいばかりの大歓声が、俺たちを出迎えてくれる。スタジアム中を埋め尽くすサポーターたちの熱気と興奮が、マグマのように体内を駆け巡り、俺の闘争心を煽る。それはとても情熱的で、鳥肌がたつほどに刺激的だ。俺の人生が始まる。いつもピッチへ出る度に、そう強く感じる。ここが俺の生きる場所なのだと。
 輝くばかりのピッチの中央には、大きく広げられたチャンピオンズリーグの旗がアンセムのって泳ぐように揺らめいている。俺たちのチームと相手のチームはその旗を背後にして、左右に別れて一列に並んだ。間には、今日の試合を裁く審判たちが立つ。
 俺は少年の小さな肩から手を離して、背中に回した。後ろ手に両手を握り、目を瞑る。心地良いアンセムが背中を押し、サポーターの熱狂的な歌声が足元を揺るがす。あと少しで、始まる。世界最高峰の闘いが。
 アンセムが止んだ。俺は静かに目を開けた。チャンピオンズリーグの旗を持った係たちが、急いでピッチの外へ出てゆく。目の前には、二つのチームのベンチが見える。監督やコーチ、スタッフ、そして控え選手たちがいる。
 バイエルンFCのベンチでは、ディーター・マテウス監督が腕を組んでテクニカルエリア内に立ち、険しい眼差しでピッチを睨みつけていた。ヨーロッパクラブの覇者を決めるチャンピオンズリーグ準決勝のファーストレグは、俺たちのホームスタジアムで行われる。監督はスタジアムに充満する勝利の欲求を、選手である俺たちよりもずっと肌で感じているに違いない。
 頭で考えるよりも先に、その隣へも視線が流れた。
 いるはずがないとわかっていても、どうしても確かめたかった。
 プレミアリーグが誇る名将と名高いエロール・バーン監督が、特に気負いもなくこちらを見ていた。そのベンチ内には、ビブスを来た控え選手たちが数名いたが、その誰もが俺の会いたい相手ではなかった。
 やはり帰ってしまったんだな。
 一年も経たないうちに……
 キックオフ前には恒例行事がある。相手チームとの握手だ。アウェイチームであるノーザンプールFCの連中が、ホームチームである俺たちの列へ来て、一人一人と握手を交わした。
 この連中と、試合中に取っ組み合いをしたんだよな。俺はお前がこのクラブに移籍したと知ってから、必ず試合を見ていたよ。試合に出た時のお前はいつも悔しげだった。どういう待遇をされていたかは、お前にボールが回ってこない様子からわかったよ。だから、我慢できなかったんだな。一緒に試合に出ていた頃は誰よりも我慢強かったお前が、掴み合いをするほどに。
 きっとお前の癖が誤解の壁をつくってしまったんだろう。俺がそばにいれば、そんなくだらない壁はこの拳でぶち壊してやったのに。
 最後の選手と握手を交わした。ヴィクトール・ヴュレルは、お前にパスを出して、それがヨーロッパでの初めてのゴールに繋がった。傲慢なフランス野郎だが、世界トップレベルの選手だ。お前の才能を見抜いたんだ。俺もあのゴールには興奮した。クラブのドレッシングルームで見ていたが、テレビの前でガッツポーズをして叫んだよ。そばにいたユース上がりのルーカス・エディンガーが飛びあがって驚いたのがおかしかった。
 けれど、結局お前はクラブを追い出されてしまった。

「フリードリッヒ、集中しろよ」

 親友のユルゲンが近寄ってきて、肩を叩いた。

「勿論だ、お前も居眠りするなよ」

 俺たちは手を叩きあって、自分のポジションへと向かう。
 今日は格別だ。なんせお前を追い出したノーザンプールの連中を叩きのめせるのだから。
 俺はあいつらに、ゴールを割らせるつもりはない。
 お前のために闘うつもりだ。
 見ていてくれ。
 必ず勝ち、決勝へゆく。そしてチャンピオンズリーグを制覇する。
 ヨーロッパ王者の称号と共に、日本へ行く。そこで、お前を誘うつもりだ。ノーザンプールなんかよりも余程お前に相応しいクラブへの移籍を。
 ゴールポストが見えてきた。俺の聖なる仕事場だ。
 昔、クラブのピッチで足を伸ばしながら、お前が俺に語ってくれた夢を忘れたことは一度もない。
 だから待っていてくれ、アイ。
 俺が必ずお前を迎えに行く。
 ……必ず……
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