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第1話
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木の生えない白い丘を登ってゆく。
霧にまかれて雪を踏みしめる坂道。走れば死ぬ薄い空気に息は切れ、早鐘のように鼓動が胸を打つ。
やがて、丘の頂にたどり着く。
わずかに視界が利く地面の他には、何も見えない。霧は濃く深く、ミルクの中にいるようだ。
遥かな南の果て、この世のはじっこにいつも漂っているという、深い霧の中に立ち、荒涼とした大地をひとり眺めたならば、こんな気持ちになるだろうか。下界からはるか離れた高所にあるこの地の寒気に、身をすくませながらそう思う。
「寒いなあ……」
むかし、北の海に新しい航路があると、多くの冒険者が白い海へ旅立った。
十八世紀、十九世紀、そして二十世紀と、霧と吹雪と氷だけが統べる水路の先へ、恐れを知らぬ男たちは、競うように舳先を進めた。
彼らのほとんどは戻ることはなく、僅かな生還者は皆、口を揃えて言った。何も無かった。危険なだけで、そこから得られるものなど何もない、白い地獄だった。
ここも、同じだろうか。世界のどの海からも一番遠いここには、あらゆるものが何もなく、何も見えない。
空虚な時間は長く辛く間延びし、このままずっと終わらないのではとさえ思えてくる。
「……はあ」
幾度目かの深い吐息をつく。それが、合図となった気がした。
頬をかすめ、ひとつ風が吹く。うつむいていた顔を上げる。
霧が風に流され、視界が開けてゆき、遠くまでが見渡せるようになる。
所々に岩が覗くだけの、雪をまとった白い荒野は、なだらかな丘の連なりで、どこまでもゆるゆるとうねり、地平の果てまで続いていた。
風はさらに強く走る。高く大きく遠くまで駆け抜け、青空を覗かせてゆく。
「…………」
雲の切れ間から陽光が射し、全てのものを強くまぶしく照らす。地上を覆う雪はまたたく間に溶けてゆき、彩度のなかった視界が鮮やかに色づいてゆく。
白はいつか、残らずきれいに消えていた。霧と雪に閉ざされた丘の一辺が、わずかの間に青い空に抱かれた、広大な世界の頂に変わったのだ。
「すごい……」
魔法のような、世界の創造の瞬間のような、劇的な変貌だった。壮大な組曲が流れ終えた後の、万雷の拍手が聞こえてくるようだった。
――ここには、全てがあるの。全てのものが、ここにあるの――
いつか僕の隣で、美也子がつぶやいた言葉を想い返す。もう戻らないものの言葉が、蒼い虚空にほどけてゆく。
風の中に、命を育む豊饒の匂いがする。焼けつくような強い陽射しに、身体はすぐに汗ばんでゆく。凍てつくようだった空気が心地いい。
手をかざし見上げた空までは、もうすぐ届きそうに近い。風に抱かれ空に抱かれ、全ての行方をこのまま見つめていたい。
どんな南の島の空でも及ばない、深くまぶしく美しい青がそこにあった。
☆
「あぎさーん」
稜線に沿って、誰かがこの丘を登ってくる。
ひょろっとした高い背丈と、ショートをいいかげんに伸ばして、それで前が見えるのかという髪形、けだるげで覇気のないわりに、通りの良いその声を聞くまでもなく、やってくるのが誰なのかすぐにわかる。
軽く手を振って応えていると、やがて息を切らせて、佳代が丘の上までたどり着く。
「あはは、きっついわ。……倒れそう。やばい、忘れてた。富士山の頂上なんかよりも、ずっと高いんだったよね、ここ」
途中で脱いだのであろうフリースを腰に巻き、額とシャツに汗をにじませながらも、涼しげな笑顔は変わらなかった。
「ここで走ったりしたら、絶対ダメだよ。僕はそれやって、死にそうになった」
僕がそう言うと、佳代は目つきを変えて食いついてくる。
「死にそうに? それ、どんな具合?」
真顔になって聞いてくる佳代。僕はうーんと、首を捻りながら答える。
「高山病というよりも、一時的な酸欠だったのかな。自分の周りの空気がなくなったみたいに、苦しくなって」
「苦しいの? すごく?」
「すごく苦しい」
「苦しむだけ?」
「しばらくじっとしていたら、治ったけれど、そのまま死んじゃうこともあるみたい。だからここでは、たとえ銃で撃たれても、走ってはいけないの」
エベレストを登る登山者や、ヒマラヤの国境を逃げる亡命者が、のろのろとしか動いていない映像を見て、走ればいいじゃん、と思ったことがあったけれど、あのあたりでは数メートル進むたびに休憩し、苦しんだり吐いたりしながらしか行動できないということを、この地に来てから身を持って知った。
ふうんと頷き、あまり魅力的な内容ではなかったようで、興味を失ってほうぼうを見渡し始める佳代。
「わあ。ほんと、すっごい眺めだよねえ……。日本ならこれだけで、金が取れそう」
遠くの斜面に、何百ものゴマシオのような点々が見える。白いのは羊で、黒いのは牛の仲間のヤクだ。同じような場所で放牧されている互いのことを、彼らはどう思っているのだろう。意外と仲がいいのか。たまにもめたりしているのか。
「佳代はあっちの方とか、歩いてみた?」
「ううん、全然」
せっかくチベットの奥地まで来ているというのに、こいつは東南アジアやインドで量産される沈没組並みに、何もしていない。すでに全ては、興味の外なのだろうか。
「ちょっとは散策でもしてみなよ。寺の裏の方とか、いい眺めだよ。ばーっと花が咲いてて」
「いいよいいよ。ねえ、あの切り立った台形の岩、なんだか目立ってるよね。アメリカの西部劇とかに出てきそうじゃない?」
「うん。あんまり見ないから、ここの紹介画像で、よく使われてるな」
以前、僕は美也子と、あの岩のそびえる丘の上まで行ってみた。帰りに性格の悪そうなヤクに囲まれ、怖い思いをしたことを思い出す。
「あぎさん探してたの。今日も鳥葬なかったのに、よくここに来てるから、もしかしたらと思ったら、本当にいるから、笑えた」
鳥葬。その言葉が佳代の口から出てくるけれど、表情に特別な変化はなかった。
「探してたって、なんで?」
「あのね、さっきもう一人、日本人が来たの」
「え、ほんと?」
「うん。女の子。歳はけっこう若いかな」
「へえ……」
ここは夏藩。中国の奥地、チベットの小さな村。
村の中心となる寺は、動乱の歴史の中でも破壊を免れた立派な佇まいだが、他には何もない。丘に囲まれた村の規模はごく小さく、チベット高原の荒野にぽつりと埋もれた、どこへの道中にもならない、何もない辺鄙な集落でしかない。
こんな所に、僕と佳代と石川さんの日本人三人が、偶然同じ時に、同じ宿に滞在していただけでも驚きだったけれど、さらにもう一人増えて、これで四人目ということになる。何かの巡り合わせだろうか。
「それでさ、上の階に、四人部屋があったでしょ? みんなでシェアすると、大分安くなるから、そっちに移らない? 先に石川さんにどうかなって聞いてみたら、いいよって。あぎさんもオッケイだったら、その人に声かけて、誘ってみてよ」
「いいけど、何で僕が。佳代が言えばいいじゃないか」
「あたしが声かけたら、逃げられちゃうかもしれないでしょ。こんなご面体だとね」
ちょっとばかりあごが大きめな他は、作り物のように美しい少年めいた顔を、前髪をずらすように少し傾げ、悪気のないまなざしを向けて佳代は言う。
僕は言葉を選んで口ごもり、指で鼻を掻き、いいよとだけ答える。
「じゃあ、さっさと行こう。その人が部屋にいるうちに」
切れていた息も落ち着いたようで、僕を促し丘を下ってゆく佳代。途中、くるりと向き直り、下から覗き込むようにして聞いてくる。
「お願いしてたこと、やっぱり、ダメ?」
見上げるような形になり、髪が分かれて、佳代の顔があらわになる。佳代の顔の左半分は、紫色にひきつれた大きな火傷の痕に覆われている。
「考えといてね」
「あのさ」
背を向ける佳代に、僕は聞く。
「僕がダメだったら、他の誰かに頼む? その、石川さんとか、今来たっていう女のひととかに」
下り坂は好きなようで、たったか歩く佳代は、立ち止まらずにそれに答える。
「石川さんは、ダメだよ。断られるに決まってるじゃない」
「どうして僕なら、大丈夫だと思ったんだよ」
さっきまで立っていた丘の上にちらりと視線を向けて、佳代はそうねえと答える。
「なんとなく。道を聞くみたいに」
なんとなく選ばれるような内容だろうか。確かに道はよく聞かれる方だけれど、もう少し理由が欲しい。
「あそこだよね、あれ」
「うん」
さっきまで立っていた丘の先、高台の一角には、色とりどりのタルチョ、経文の書かれた五色の旗が、ロープを通して張り巡らされている。運動会の万国旗のようにも見えるタルチョは、チベット圏にはどこにでもあり、青い空によく映えるその様子が、僕はとても好きだった。
ただ、あそこにあるものは違う。
のどかなこの世界の中で、あのあたりの空気だけが違う。何か特別なものがある場所か、特別なことが行われている場所であろうことは、世界中の誰が見ても、なんとなくわかる。
長年の風雨で、すっかり色あせた旗が、だらりと垂れ下がっているその姿は、どことなく忌まわしい。高台のさらに背後には、人の登れない岩場があり、その上に、ちらほらとハゲワシが止まり、時折こちらを窺っている。
鳥葬台を見つめる佳代の目に、それらはどう映っているのだろう。疲れ果て、ようやく倒れ込むことのできる、暖かく柔らかい寝床のようにでも見えているのだろうか。
――私の体を、あそこで解体してくれない? ハゲワシさんたち、細かく砕いた遺体じゃないと食べてくれないそうだから、あそこで私を、空に還す手伝いをしてくれない?――
霧にまかれて雪を踏みしめる坂道。走れば死ぬ薄い空気に息は切れ、早鐘のように鼓動が胸を打つ。
やがて、丘の頂にたどり着く。
わずかに視界が利く地面の他には、何も見えない。霧は濃く深く、ミルクの中にいるようだ。
遥かな南の果て、この世のはじっこにいつも漂っているという、深い霧の中に立ち、荒涼とした大地をひとり眺めたならば、こんな気持ちになるだろうか。下界からはるか離れた高所にあるこの地の寒気に、身をすくませながらそう思う。
「寒いなあ……」
むかし、北の海に新しい航路があると、多くの冒険者が白い海へ旅立った。
十八世紀、十九世紀、そして二十世紀と、霧と吹雪と氷だけが統べる水路の先へ、恐れを知らぬ男たちは、競うように舳先を進めた。
彼らのほとんどは戻ることはなく、僅かな生還者は皆、口を揃えて言った。何も無かった。危険なだけで、そこから得られるものなど何もない、白い地獄だった。
ここも、同じだろうか。世界のどの海からも一番遠いここには、あらゆるものが何もなく、何も見えない。
空虚な時間は長く辛く間延びし、このままずっと終わらないのではとさえ思えてくる。
「……はあ」
幾度目かの深い吐息をつく。それが、合図となった気がした。
頬をかすめ、ひとつ風が吹く。うつむいていた顔を上げる。
霧が風に流され、視界が開けてゆき、遠くまでが見渡せるようになる。
所々に岩が覗くだけの、雪をまとった白い荒野は、なだらかな丘の連なりで、どこまでもゆるゆるとうねり、地平の果てまで続いていた。
風はさらに強く走る。高く大きく遠くまで駆け抜け、青空を覗かせてゆく。
「…………」
雲の切れ間から陽光が射し、全てのものを強くまぶしく照らす。地上を覆う雪はまたたく間に溶けてゆき、彩度のなかった視界が鮮やかに色づいてゆく。
白はいつか、残らずきれいに消えていた。霧と雪に閉ざされた丘の一辺が、わずかの間に青い空に抱かれた、広大な世界の頂に変わったのだ。
「すごい……」
魔法のような、世界の創造の瞬間のような、劇的な変貌だった。壮大な組曲が流れ終えた後の、万雷の拍手が聞こえてくるようだった。
――ここには、全てがあるの。全てのものが、ここにあるの――
いつか僕の隣で、美也子がつぶやいた言葉を想い返す。もう戻らないものの言葉が、蒼い虚空にほどけてゆく。
風の中に、命を育む豊饒の匂いがする。焼けつくような強い陽射しに、身体はすぐに汗ばんでゆく。凍てつくようだった空気が心地いい。
手をかざし見上げた空までは、もうすぐ届きそうに近い。風に抱かれ空に抱かれ、全ての行方をこのまま見つめていたい。
どんな南の島の空でも及ばない、深くまぶしく美しい青がそこにあった。
☆
「あぎさーん」
稜線に沿って、誰かがこの丘を登ってくる。
ひょろっとした高い背丈と、ショートをいいかげんに伸ばして、それで前が見えるのかという髪形、けだるげで覇気のないわりに、通りの良いその声を聞くまでもなく、やってくるのが誰なのかすぐにわかる。
軽く手を振って応えていると、やがて息を切らせて、佳代が丘の上までたどり着く。
「あはは、きっついわ。……倒れそう。やばい、忘れてた。富士山の頂上なんかよりも、ずっと高いんだったよね、ここ」
途中で脱いだのであろうフリースを腰に巻き、額とシャツに汗をにじませながらも、涼しげな笑顔は変わらなかった。
「ここで走ったりしたら、絶対ダメだよ。僕はそれやって、死にそうになった」
僕がそう言うと、佳代は目つきを変えて食いついてくる。
「死にそうに? それ、どんな具合?」
真顔になって聞いてくる佳代。僕はうーんと、首を捻りながら答える。
「高山病というよりも、一時的な酸欠だったのかな。自分の周りの空気がなくなったみたいに、苦しくなって」
「苦しいの? すごく?」
「すごく苦しい」
「苦しむだけ?」
「しばらくじっとしていたら、治ったけれど、そのまま死んじゃうこともあるみたい。だからここでは、たとえ銃で撃たれても、走ってはいけないの」
エベレストを登る登山者や、ヒマラヤの国境を逃げる亡命者が、のろのろとしか動いていない映像を見て、走ればいいじゃん、と思ったことがあったけれど、あのあたりでは数メートル進むたびに休憩し、苦しんだり吐いたりしながらしか行動できないということを、この地に来てから身を持って知った。
ふうんと頷き、あまり魅力的な内容ではなかったようで、興味を失ってほうぼうを見渡し始める佳代。
「わあ。ほんと、すっごい眺めだよねえ……。日本ならこれだけで、金が取れそう」
遠くの斜面に、何百ものゴマシオのような点々が見える。白いのは羊で、黒いのは牛の仲間のヤクだ。同じような場所で放牧されている互いのことを、彼らはどう思っているのだろう。意外と仲がいいのか。たまにもめたりしているのか。
「佳代はあっちの方とか、歩いてみた?」
「ううん、全然」
せっかくチベットの奥地まで来ているというのに、こいつは東南アジアやインドで量産される沈没組並みに、何もしていない。すでに全ては、興味の外なのだろうか。
「ちょっとは散策でもしてみなよ。寺の裏の方とか、いい眺めだよ。ばーっと花が咲いてて」
「いいよいいよ。ねえ、あの切り立った台形の岩、なんだか目立ってるよね。アメリカの西部劇とかに出てきそうじゃない?」
「うん。あんまり見ないから、ここの紹介画像で、よく使われてるな」
以前、僕は美也子と、あの岩のそびえる丘の上まで行ってみた。帰りに性格の悪そうなヤクに囲まれ、怖い思いをしたことを思い出す。
「あぎさん探してたの。今日も鳥葬なかったのに、よくここに来てるから、もしかしたらと思ったら、本当にいるから、笑えた」
鳥葬。その言葉が佳代の口から出てくるけれど、表情に特別な変化はなかった。
「探してたって、なんで?」
「あのね、さっきもう一人、日本人が来たの」
「え、ほんと?」
「うん。女の子。歳はけっこう若いかな」
「へえ……」
ここは夏藩。中国の奥地、チベットの小さな村。
村の中心となる寺は、動乱の歴史の中でも破壊を免れた立派な佇まいだが、他には何もない。丘に囲まれた村の規模はごく小さく、チベット高原の荒野にぽつりと埋もれた、どこへの道中にもならない、何もない辺鄙な集落でしかない。
こんな所に、僕と佳代と石川さんの日本人三人が、偶然同じ時に、同じ宿に滞在していただけでも驚きだったけれど、さらにもう一人増えて、これで四人目ということになる。何かの巡り合わせだろうか。
「それでさ、上の階に、四人部屋があったでしょ? みんなでシェアすると、大分安くなるから、そっちに移らない? 先に石川さんにどうかなって聞いてみたら、いいよって。あぎさんもオッケイだったら、その人に声かけて、誘ってみてよ」
「いいけど、何で僕が。佳代が言えばいいじゃないか」
「あたしが声かけたら、逃げられちゃうかもしれないでしょ。こんなご面体だとね」
ちょっとばかりあごが大きめな他は、作り物のように美しい少年めいた顔を、前髪をずらすように少し傾げ、悪気のないまなざしを向けて佳代は言う。
僕は言葉を選んで口ごもり、指で鼻を掻き、いいよとだけ答える。
「じゃあ、さっさと行こう。その人が部屋にいるうちに」
切れていた息も落ち着いたようで、僕を促し丘を下ってゆく佳代。途中、くるりと向き直り、下から覗き込むようにして聞いてくる。
「お願いしてたこと、やっぱり、ダメ?」
見上げるような形になり、髪が分かれて、佳代の顔があらわになる。佳代の顔の左半分は、紫色にひきつれた大きな火傷の痕に覆われている。
「考えといてね」
「あのさ」
背を向ける佳代に、僕は聞く。
「僕がダメだったら、他の誰かに頼む? その、石川さんとか、今来たっていう女のひととかに」
下り坂は好きなようで、たったか歩く佳代は、立ち止まらずにそれに答える。
「石川さんは、ダメだよ。断られるに決まってるじゃない」
「どうして僕なら、大丈夫だと思ったんだよ」
さっきまで立っていた丘の上にちらりと視線を向けて、佳代はそうねえと答える。
「なんとなく。道を聞くみたいに」
なんとなく選ばれるような内容だろうか。確かに道はよく聞かれる方だけれど、もう少し理由が欲しい。
「あそこだよね、あれ」
「うん」
さっきまで立っていた丘の先、高台の一角には、色とりどりのタルチョ、経文の書かれた五色の旗が、ロープを通して張り巡らされている。運動会の万国旗のようにも見えるタルチョは、チベット圏にはどこにでもあり、青い空によく映えるその様子が、僕はとても好きだった。
ただ、あそこにあるものは違う。
のどかなこの世界の中で、あのあたりの空気だけが違う。何か特別なものがある場所か、特別なことが行われている場所であろうことは、世界中の誰が見ても、なんとなくわかる。
長年の風雨で、すっかり色あせた旗が、だらりと垂れ下がっているその姿は、どことなく忌まわしい。高台のさらに背後には、人の登れない岩場があり、その上に、ちらほらとハゲワシが止まり、時折こちらを窺っている。
鳥葬台を見つめる佳代の目に、それらはどう映っているのだろう。疲れ果て、ようやく倒れ込むことのできる、暖かく柔らかい寝床のようにでも見えているのだろうか。
――私の体を、あそこで解体してくれない? ハゲワシさんたち、細かく砕いた遺体じゃないと食べてくれないそうだから、あそこで私を、空に還す手伝いをしてくれない?――
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