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☑愛染はかく語りき☑

愛染はかく語りき

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 私は愛染、文字だ。 
 この部屋の壁に貼られた、文字である。
 私に知りえるひとの世といえばこの部屋であり、その部屋の現在の主のことだけだ。
 加えて動く身体のない私はこの部屋と他の部屋を比べてみることなどできない。
 この部屋の主は帰宅するなり部屋をぐるりと見渡し、
「変だな、足の踏み場がない」と呟くため、この部屋は足の踏み場がない部屋なのだ、と文字通り理解するのみだ。


 この国では「言霊」という私のような存在を説明づけてくれる言葉があるが、私はまさに言霊より生命をえた存在だ。
 強い、とにかく強い衝動や感情や説明のつかない鬱屈などがないまぜになって私は生まれた。 
 私を書いた人物は、そのときひどく混乱していて、その混乱が私を生んだのだ。

 混乱という渾沌が筆にのせられ文字の輪郭を得て、紙を滑る。そのバランスがあのときは絶妙だったのだと思う。
私は見事に紙に封じ込められ、その人物のそのときの感情をいつまでも胸にしまい続けている。
いいようもない恐怖と、熱情のようなものを。

 私を書いた人物はよほど文字を書くセンスに優れていたのだろうと思う。それを裏づけるのは、私が書かれる前に書かれたらしい文字たちだ。
 彼らはすぐ近くの机につまれたノートの中にくすぶっている。彼らはみな意思を持っていて、自分がどんな存在なのかを語りたがる。

 彼らを見ていて気づいたのは、文字は自己主張が強いということだ。それは勿論この私も例外ではない。
最近学んだことを話してみようと思う。

 私は最近、ひとが脳で考える「言葉」に滑りこむことを覚えた。
 どうやってできたのか自分でもまだよく分からない。
 ただ、時折、私の中に予期せぬ言葉が挿入されることがあり、ひとが考えているときに発する「言葉」に気づいたのだ。モノローグともいうそれに、私は滑りこむことができるようになったのだ。

 とはいえ具体的に滑りこむ対象の造形や人となりを知らなければ、できない芸当である。主で試したところ、中々どうして上手く干渉できたので、私は少々調子に乗っている。

 私はどうやら、ひとの世というものに関心があるようだ。
 主の混乱が私を生んだ。けれど、いつでもどこでも理路整然と崩さない主が、混乱を及ぼすほどの事象とはなんだろう。
 そんなこと有りえるのだろうか。
 という、なかば自分の根源を知るような哲学的な興味もあれば、単純に未知への興味もある。
 いずれにしても、私は今日滑りこみの実験しようと思っているのだ。
 今、ここで。


 私が主以外に名を知り体を知る対象はそう多くない。なんせ私はここから動けない身なのだ。今までもそしてこれからも。
 けれどそれでも問題はない。
 主が関心を寄せ私が知りたいと望むのは、たった一人の人間の発する言葉。
 狩野玲二の言葉だけなのだから。

 さあ、はじめてみよう。
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