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☑災厄と最悪との再会☑

やって来た災厄

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 あっちいなぁ。
 オレは駐車場前でコンクリートの縁石の上に腰をおろして、ひたすらグミを噛んでいた。
 ただ今オレは人を待っている。
 その人をオレは姫サマと呼んでいるがその実体は、セラピスト&マッサージのキャストだ。
 見目麗しい女性を採用しているせいで、勘違い満点のいかがわしいサービスを期待して問い合わせてくる客も少なくないが、出張カウンセリングとマッサージのサービスを行っている。

 オレはお仕事中の姫サマに逐一連絡をとって状況を確認する役目をつとめている。
 さらに送迎なんかもオレの仕事だ。

 オレの勤めている事務所はそうした派遣サービス業のほかに、タレントの事務所の面も持っている。今やテレビをつければ、うちのタレントが画面を彩るのも目に新しくはない。大手プロダクションの【cour】(クール)を抜きにすれば、タレント事務所の中で、うちの事務所は一二を争う精鋭といっても過言じゃない。そういう後ろ盾があるからこそ、派遣サービス業で小金稼ぎをしているともいえる。

「あー、姫サマはまだかよ」
 オレは大きく欠伸をする。
 昨日は夜中まで事務所の子の配信liveに付き添っていた。お陰であまり寝ていない。軽くぼんやりとする頭で道路の向こうがわを見ていると、異様なものが目の端に映った。

 陽炎が立ちのぼるほどクソ暑いってのに、あったまおかしいんじゃねえの?
 それが始めの感想だった。
 真っ黒なスーツの上下にこれまた真っ黒のネクタイを締め、その男は交差点からこちら側に向って横断歩道を渡っていた。
 シンプルなフォルムだが遠目で見ても分かる。あれは、大分仕立ての良いスーツだ。
 いやどんなスーツだとしたって、社会ではクールビズの最中、ワイシャツをぴっちりと一番上までボタンを締めて、一寸の歪みもなくネクタイを締めるのはいかがなものか。しかもスーツは漆黒だ。熱を吸収すること必至だろうよ。
 熱中症対策の真逆をいく格好だ。


 普通の人間なら暑さで喘いでいるところをその人物は鷹揚な足取りで、汗を拭く様子もなくこちらへやってくる。
ひょっとしたら、オレは幻を見ているのだろうか。そう思いながら、オレはぼうっとして道路の向こうを眺めていた。男が手に持つシルバーのアタッシュケースが、日光を得てギラギラ眩しい。

 こう暑いってのに、営業っすか?お疲れ様です。
 まったくの他人事でなんの関心もなくその男がやって来るのを目撃していたのだが。

 黒スーツの男が髪を掻き揚げた刹那、オレの背筋はぞくり。と跳ねあがった。その仕草に悪寒が走ったのだ。あまりにも身に覚えのある悪寒だったので、オレはよくよく瞳を凝らして、男を見た。

 あれ、は。
 グミが一つ口からこぼれ落ちる。
 そのあとはもう、ただただ口をぽかんと開けて、自分の今日の運勢を恨むしかなかった。
 ごめんなさーい、今日の最下位は、ふたご座のあなた。とーっても苦手な人と出会っちゃうかもとか今朝のテレビの占いでは言われてたたんじゃないだろうか。

 なんでコイツがいやがる。オレの人生が360度変わって、いや。それじゃあ一周して元通りだ。180度変わってしまった元凶が、なぜここにいる。
 感情起伏の読み取れない瞳でオレを見とがめ、男は口元だけでにやりと笑ってみせる。そして悠然とした確かな足取りで道路を渡りきった。

「なんだその小汚い恰好は。アロハシャツにくたびれたデニムなんかはいて、お前はチンピラか?」
 そう飛んできた声は、スズメの涙ほどの願望をふうっと吹き飛ばしてしまった。
 これじゃ、別人のわけ、ないよな。
 もうオレとそいつとの間には数メートルの距離しかない。オレはへっぴり腰でヨロヨロ立ち上がると、間合いをはかる。
「輪をかけて阿呆に見えるぞ。いや、もう既に阿呆だったか、失礼。何にしろ久々だな」
 涼しい顔からは想像もできないくらいの勢いでまくし立てられ、オレはクラクラした。
「う、うるさい。それ以上近づいてくるな」
 絶対に、1m以上は開けておかないと危険だ。じりじりとオレは後ずさる。
「そういきり立つな。今日は、相談があって来たんだ」
 男はすかさず間合いを詰めてくる。
「お前の頼みごとを聞く耳なんか、とうの昔に無くしたよ。悪霊にとられたんだよ」
「耳なし芳一か。結構なことだ」
 その男は至って愉快そうに一笑する。薄い唇が、淫靡な曲線をえがいた。男はオレの半径1m以内への進入を始めようとしていた。

「ストップ。それ以上来るな」
「なぜ?」
 男はカクンと小首をかしげ、この上なく不思議そうにこちらを見る。
「おまえは、要注意人物だからだ。話は聞く。でもな、そこから動いた時点で中断する」
「殺生だな。ああ、至って冷たい」
 男は大仰に肩をすくめて見せる。
「いいか、オレは今忙しい。本当ならお前と談笑している暇なんかねぇの」
「そう。他ならぬ、俺がお前に相談に来たのはそれだ」
「はぁ?話が見えねぇよ」
「ダンショウ」
「談笑?」
「いいや、男に娼婦の娼と書いて男娼だ」
「はっ。そーいう系の話はまったく興味ないな」
 オレは冷ややかに返した。
 しかし。
「関係ない、と言っている状況ではないだろう。お前の事務所存亡の危機だからな」
 ジムショソンボウノキキ?
 オレは頭の中でもう一度、言葉を咀嚼した。自然とパカンと口が開く。
「口を開けて呆けるな。俺の会社が、お前のいるタレント事務所を買い取ってやるというわけだ。借金にあえいでいるようだからな」
「え。お前、会社なんか持ってたのか?いや、それ以前にお前はどうしてここにいるんだよ。親父サンの病院を継ぐって言って、北海道へ帰ったんだろ?」
 こいつの親父は北海道で獣医をやっている。

 都会のように、犬猫、最近では小動物の診療が主の獣医とは違い、北の大自然たるそこでは馬やら、牛やら羊やらの大掛かりな療治が多いらしい。
 もっとも北海道の獣医がみな家畜の面倒見をするわけじゃないらしいが。こいつは、親父サンに招集をかけられ、高校を卒業すると同時に、北海道へ強制帰還させられたのだ。
 オレが尋ねると、そいつは大儀そうにする。
「継ぐとは一言に言っても、獣医学を学ばずには獣医にはなれないだろう。あいにく俺は羊の身体の仕組みにも、牛の直腸検査にも興味はない。動物の身体よりも人間の身体の方が好きだからな」 
 そいつは、そこで言葉を切り、オレの身体を上から下まで、ねっとりと、視線でなぞっていく。ぞおっとしてオレは更に後ろにさがる。

「そして、人間を取り扱うタレント事務所にはとても興味がある。【ティアラ】の人材もとても興味深い」
「そ、そうだ!そう。そのことだ。さっき言ってた、買い取るってどういうことだよ?」
「そう。その反応を待っていた」
 男もとい、八俣彰人は嗤笑し、ここぞとばかりにオレの間合いに踏み込んできた。


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