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☑身体の記憶☑

ドッグタグ

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 3年ぶりに出会った、アノおかしな男によって、オレは半ば強引に、ホテルへと連れて来られていた。彰人はここ数年はずっとホテル住まいをしているのだという。
 聞いてみれば、彰人は高校卒業後、実家に帰り、とんぼ返りでこちらに戻ってきて、叔母さんの事務所で働きだしたのだそうだ。
 はなから、親父さんの医院を継ぐ気などなかったということだろう。まぁ、地道に獣医師を目指して大学で勉強なんていうのは、彰人には酷く退屈に違いない。一足飛びに会社の代表取締役とは、彰人らしいというか、なんというか言いようもない。
 オレの唯一納得のいかないことといえば、その間まったく連絡をよこさなかったことだ。


「彰人」
「なんだ」
「さっきの、事務所の立て直し政策とやら。あれって全部、建前だろ」
 オレは奇妙なほどにふかふかなベッドから降りて、窓際へいくと、皮製の一人掛けソファに胡坐をかいた。
 普段四畳間に雑魚寝のオレには、ただでさえベッドは居心地が悪い。   
 しかしこの部屋、ビジネスホテルにしては随分と広い。

 彰人は髪をタオルで拭きながら、ガラステーブルを挟んで向こう側の椅子に腰掛ける。はだけたワイシャツの下で、銀のチェーンのドッグタグが揺れている。
 それは薄明るい照明の下で、あやしく光った。1枚、彰人の名の刻まれたタグに隠れるように重なり、それはあった。
「REYJI  KANOU」
 未練がましいやつ。
 そう思いかけて、自分の胸にも、その対が揺れていることを思いだした。
「何故そう思う?」
「真っ当な方法じゃ、到底、あれだけの金額を取り戻すことなんかできない。そんなの今の事務所の状況考えれば、当然だ。たとえ、お前んとこの、ドでかい事務所を引っぱって来たとしたってな」
 彰人が河西や姫サマやオレを前にして語ったのは、至ってありがちな政策だった。具体性もなければ、思い切りもない。
 図々しい彰人らしからぬ、大人しいものだった。
「まぁ、その点においては正解だ。消費者金融でさえ、自己破産必至だというのに、即金と保証人なしの闇金では、法外至極。あの金額は、正当法では到底太刀打ちできず、首括るしかないだろうな。手を出すこと自体いい度胸だ」
「あの狸社長。どこ行きやがったんだ。スマホもつながらねーし」
「一切合財痕跡を消してこそ、完全なる逃亡だからな。前々から準備してしたっておかしくはない。現に、請求書には社長と共に、お前の名が連名されていた。連帯保証人としてな」

 あの後、請求書を彰人と河西とオレで確認したところ、ほぼすべてにオレの署名があった。勿論署名なんてした覚えなんかない。
 だけど、正規社員の河西なんかを槍玉に挙げるよりも、立場の曖昧なオレを挙げるほうが、遙かにスムーズにいくのは火を見るより明らかだった。
 社長とは飲み屋で出会って意気投合し、雇ってもらったような関係である。当時はホスト崩れのようなことをしていたオレは、社長に事務所に所属することを提案された。タレントにはなりたくないと言って、今の仕事につかせてもらったのだ。
「つまり、お前は、まんまと重荷を背負わされたんだよ」
「別に、背負ってねぇよ。オレの事務所ってわけじゃねーし、オレだって逃げる気になりゃ、逃げれる。大した責任も負ってねーし、表向きはあそこの社員ですらない」
「しかし、可能だろうか?あの平和ボケした事務員と、能天気なセラピスト達を残して?」

 姫川ちゃんの鼻に抜けるあっけらかんとした声と、河西のよく言えば鷹揚、悪く言えばどん臭い話しかたを思い出す。ふたりとも世間ズレしていない。
 あの事務所には、事務員だけでなくそういうタイプのタレントも多いのだ。社長自身が叩き上げではなく、親が作った事務所を受け継いでいだ、いわばお坊ちゃんであることも大きいのだろう。
「無理かな?やっぱな。無理だよなぁ。見殺しにするのと変わらねぇもんな」
「まったく」
 彰人は、呆れ果てているのだと示そうとせんばかりに、大仰なため息をつく。
「どうせ情に絆されるなら、危機管理をしっかりしておけばいいものを」
「うるせぇよ。言われなくても分かってるよ」
「いいや。お前は分かってないな」
 彰人はテーブルを超えて、体をこちらへ乗り出す。眼前に首筋が迫ってきて、オレは目を逸らした。胸が、異様なほどドキドキしはじめる。
「勝手に色を変えて。誰が、髪の色を抜いて良いと言った?」
 わしゃり、と後頭部を手のひらですくわれ、髪がかき乱される。一瞬、反射的に目をつむってしまった。
「おまえには関係ないだろ。指図される覚えなんかねぇよ」
「俺は茶色の方が好きだ。明日、カラーリングしに行って来い」
「そんな金ない」
「俺が出す。このホテルの近くに俺の行きつけの美容院がある。予約を入れておくからそこへ行け」
 そんなの雲の上の話だ。なんせオレはカラーリングも、当然の如く自分でする。1000円床屋ですら、出し惜しむ。
 オレの実家は貧乏だし、姉は年中変な男に引っかかって金を騙し取られるし、で。傍目から見れば、辛苦を舐めてきているのだろうと思われてもしょうがない家庭で育った。だから、分相応ってやつは骨に染みこんでいる。

「お前と違って、髪に金をかけてる余裕も暇もねぇよ。貧乏人暇無しってな。それより、さっさと本当の政策ってやつを教えろ」
「そう焦らなくてもいいだろう。せっかく再会したんだ。もっと楽しいことを考えようじゃないか」
 やわな口調がうさんくさい。晴れ晴れとした笑顔がうっとうしい。これは恐らく、いや十中八九ベッドイン前の騙し口上だ。
「大体、お前が楽しくさせないんだろ!」
「おやおや、それはお言葉だな。お前がすんなり快楽へと堕ちてゆける状態を作り出そうと、こんなにも骨を折っているというのに」
 オレの首のチェーンを指で弄しながら、彰人はわざとしくため息をつく。

「やっぱり。オレは、嫌だからな。男にはもう二度とされない、って。おまえがいなくなった時に誓ったからな!」
「俺は、なんて男は美味しいんだ。もっと美味な男を探求しよう、と誓ったよ」
 彰人は悪びれる様子もなく嗤う。
「そ、そんなことより、聞きたいことがあるんだけど?」
「何だ?」
「お前、オレがあの事務所にいるって知ってたのか?昼間会ったとき、オレに相談しに来たとか言ってただろ。それってオレがあそこにいるって知っていたってことだよな?」
「だとしたら、どうだというんだ?」
「ど、どうだってことはねーよ。大したことじゃない」
 嘘ついた。オレがいる場所知ってたなら、なんで今まで会い来なかったんだ。そう言いたかった。
「大したことじゃないなら、どうでもいいことだ」
 そうして顔を近づけ、オレの右耳へとキスをした。
「ピアスも、開けるなと言ったのに」

 彰人の息が耳を焦らして、背中がぞくぞくとした。彰人は尚も執拗に耳を、咬んだり、舌先で舐めたりをくり返す。
「や、だっつの。ドコ舐めてんだ!」
 頬がぽっと熱くなる。ぴちゅぴちゅと、とても近い場所でエロチックな水音がするせいで、腰がやおら熱くうずきはじめた。小さなピアスの輪郭を舌で丁寧になぞりながら、彰人は待ちかねたように、オレのタンクトップの胸を撫でて、ソコを探る。
「待てよ。いやだ」
「理由は?」
 お前が男だから。
 そういう場合じゃないから。
 そういった理由は建前で、オレはただ、勝手にオレの前から姿を消して、勝手に現れた彰人が許せないだけだ。

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