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☑身体の記憶☑

満ち引きの記憶

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「ちゃんと理詰めで理由を述べることができたら、放してやるよ。もと弁論部だろう?」
「もとサッカー部だ!勝手に人の経歴を変えるなっての」
「じゃあ理由は言えないんだな」
 彰人の、奥の見えない暗黒の瞳が、じいっと見つめてくる。オレは気圧されるまいと、視線を返す。
「言える。おまえだからいやだ。八俣彰人だからいやだ。明快だろ」
 彰人のせいで情緒不安定になるのは、もうゴメンだ。
「グミが食べたい。そこどけよ」

 オレは彰人を手で押しのけ、尻ポケットからとグミを入れている缶ケースを取り出せた、かのように思った。しかし後ろの両のポケットに入っていたはずの、ケースもスマホも、跡形もなくなっていた。手に触れるのはポケットの布地のみだ。
「あれ?どこかに置き忘れたか?」
 オレは慌てて腰ポケットにも手を突っ込むけれども、そこにもまた、ない。
「なぁ、彰人。オレのグミケースとかスマホ、見なかったか?」
「ああ、それなら。さっきコンシェルジェに言って捨ててもらった」
 何も不思議な事はないといった口調で、彰人は言う。顔もまたさらっと涼しげだ。
「なっ。な、なにしてんだよ!勝手なことするなよっ。ていうか、いつの間に」
「さっき受付でな」
 オレも受付には居合わせていたというのに、まったく気がつかなかった……。それに、いつのまにポケットから取り出したっていうんだ?

「お前にはもう必要ないものだから」
「必要だ!スマホなんてのは商売道具だし。グミはオレにとって命の薬だ」
「命の薬か。糖分中毒上等だな」
「悪いか!別に法律犯してるわけじゃねーし!そんなのいいから、さっさと返してもらって来いよ。オレのグミとグミケースを返せ!」
 グミはまた買えば良いにしても、スマホには何百件、何千件と必要な連絡先が入っている。返して貰わなくては、仕事ができない。
 それにグミケースについては、本来は姉貴が衝動買いした謎のおしゃれなケースで、結構値段の張る代物だ。気軽く捨てていいものじゃない。
「必要がない。俺といる間、お前はスマホで連絡を取り合う相手も必要ないし、俺の傍にいる間は禁煙だ。約束を忘れたのか?」

 約束。
 その言葉を紡ぐ彰人の声は少しだけ真摯で、オレの心臓はどくりと大きく波打った。不覚だ。
「昔。昔、大昔の約束なんか、覚えてるかよ。大体、仕事もあるし、スマホがなけりゃ姫サマたちと連絡がとれないだろ。困るんだよ」
「何も困ることはない。明日からお前は男娼になるんだからな」
 What?こいつは、何を言っている。
「もう一回言ってくれ」
 オレは人差し指を立てて言う。
「男娼だ。闇で借りた金を取り戻すには、闇で稼ぎ出すしかないだろう。金はあるところにはあるものだ」
「え、いや、その?」
 何か言わなきゃとは思うけど、何を言ってももう手遅れな予感がして、オレの唇はどんどん乾いてゆく。
「至って奇遇なことに、このホテルは別名男娼館という、今巷で有名な大人の遊び場だ。図らずも、さきほどカウンターでお前の名前を登録しておいたよ」

 彰人は部屋中央の脚の長い円卓まで歩いて行くと、グリーンのビンと手に取ると、コルクを抜いて、グラスに注ぐ。太陽のようにキラキラした液体がたぷたぷワイングラスに収まってゆく。彰人はグラスをゆらゆらと回して香りを楽しんでから、味わうようにゆっくりと喉に流し込んでゆく。その様子をオレは呆然として眺めていた。
 文句言いたいことは山ほどある。
 元々はオレの借金じゃないだろうとか、男娼なんてできるかよとか、図らずもじゃなく図ってるだろ、とか。
しかし、オレは言いあぐねて、ただぱくぱくと金魚のように口を開閉していた。
 信じられない。

 ミイラ取りがミイラになったのだ。しかしお上際の悪いオレはなおも聞く。
「今言ったの、全部嘘だろ?」
 嘘だと言え、彰人。
「本当だ」
「逃げるからな」
「俺から逃げられると思うのか?」
「い。いやだっ。男はおまえで、最初で最後にするつもりだったのに!」
「それはそれは。泣かせることを言ってくれるな。感涙にむせびそうだ」
 彰人は両手を大きく広げ無感動に嘯く。オレは椅子から踊りあがると、真っ先にドアの前まで走る。が。ガチガチを不幸な音をたてるだけで、ドアは開かない。
「外から施錠している。無駄だ。いい加減覚悟を決めろ。お前の現実なんてこんなものだ」 
 ゆるりと、背後までやって来た彰人はその両腕で、オレを羽交い絞めにする。
 焦燥感にかられ、オレは首だけ上にむけて彰人の顔を仰いだ。静謐で精悍な男の面がそこにはあった。
「捕まえた。3年ぶりだな。存分に楽しもうじゃないか」
 そう静かに笑う彰人をみて、オレは投げやりな気持ちになった。
 神様のいじわる。



☑☑☑



 糸を引くほどの粘度のローションが彰人の指に膜を作り、オレの中をとかしていく。先ほど彰人は、ローションをどこからか取り出して、オレの入り口へと塗りたくった。
 あまりにもぬるぬると気持ち悪いので、オレが「拭けよ」と言った矢先、彰人は指をつるん、と挿入してしまった。
 指があまりにも巧みにそこをいじるから、感じては彰人の思う壺だと思ってはいても、オレは陸地に放たれた魚みたいに、びくびく跳ね上がらずにはいられない。そのたびに、ベッドのスプリングがきしきし呻き、マットに沈む膝がガクガク震える。オレは枕に頬を埋め、シーツを手で掴んだ。   

 そして片手の手根を口にあて、声の反響を防いだ。みじめな気分になるのが嫌で、高校時代もそうして声を押し殺していた。これは当時しばらく慣習になっていたものだ。
 同じ行為で身体を結んでいながら、彰人と自分との温度差を感じたときから、ずっとそうしてきた。無駄に声をあげるオレ、無駄なく己を刻みつける彰人、その齟齬にオレはいつもみじめったらしい気分になっていたからだ。ふ、と息をつくと、指の輪郭が中の皮膚に記憶され、その瞬間に皮膚が緊張する。その度に、彰人はオレの腰を撫でて、再び息つぎのための弛緩を与えてくれる。

 この、指と腰骨にあてがわれた手だけが、今、オレと彰人を唯一のつなぐ「絆(ほだし)」だ。
あまり温度の高くない、それこそ彰人のイメージピッタリな、細く長い指で形づけられた少し神経質そうな手。
 それが紡ぐのは、合理的で感情を押し殺した前戯だ。それが悪いとは言わない。オレの前にも、きっとオレの後も、彰人はそうやって誰かを抱いてきたんだろうから。
 だけど、不安になる。遊びなら遊びで良いんだ。
 こっちだってそれならそれなりの折り合いをつけられる。
 セックスしたから相手に愛情があるだなんて思い込むほど幼くもないし、高校時代の彰人以後にも、オレはそれなりに、恋愛をしてきた。もっとも相手は女の子だったけれど。
 だけど遊びなら……。

「ん」
 小さく彰人が呻き、しゃらしゃらとドッグタグの揺れる音を聞いた。オレの体内の湿った上皮に、彰人のそれが擦れる。
 オレは親指の根元をきつく噛む。手の筋がぐきっと鳴った。
 遊びだったら、何でそれを外さないんだよ。と思う。
「あ。う」
 殺したはずの声が蘇ってしまう。
 体内には存在しがたいボリュームを刺しこまれ、比喩か事実か、内臓が押しあげられる息苦しさを覚える。
 これが、波打ち。そして、ざっと肉厚が内臓の肉を引っぱり、去っていく。
 それが、波引き。体内の何かしらが解き放たれ爆ぜるような、奪われる快が身体の芯をつく。
「ひ」
 自分の吐息が手を焦らし、その余熱でむせかえりそうになる。
 そのときオレは気づいた。しばらく彰人と離れた後の、この行為で。

 どうして彰人と身体を交わすのが、波にも磯にもつかない心地になるのか。不安でみじめな気持ちになるのかを。
 この行為には、彰人の顔がなく、身体の輪郭がないからだ。彰人は手と性器さえあれば事足りる。身体を預けあい、吐息を交わしあい、緊張と弛緩を与えあう、そういう行為とは、オレたちのしているものは違う。違うと、オレは思ってしまう。
 均等な間隙で、寄せて引いてをくり返す彰人を意識する。それは熱く、硬く――時折びくびくと震える。その熱と躍動はオレを高揚させるのにも勿論十分で、だけど――足りない。
 身体の快には達していても、心にはまだ足りない。足りなくて、苦しい。
「ん、あ」
 堪えきれない声が、口もとから零れて、それに反応してか、中の彰人もふるふる顫動する。
お互い、絶頂が近い。オレが自分の前を触って、後ろを緊張させると、う、と苦しそうに彰人が声を出す。
 
 頼むから、早くイってくれ。彰人。
 じゃないと、こんな淡白なセックスでも思い出してしまう。

 オレが、彰人を好きだったときのことを。
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