上 下
12 / 20
1年前(キスの変化)

小さな変化

しおりを挟む



 この瞬間、新しい期待に胸を膨らまされている人が何人いるんだろう、と思う。
 新しい制服はまだ体に馴染んでいないし、新しいクラスや新しい担任、クラスメイトには違和感しかない。
 同じ中学校からのクラスメイトもいたけれど、中学の頃よりも校則が少しだけ緩和されていることもあって、ほのかに見た目に気合を入れている雰囲気が見受けられる。

 あからさまな高校デビューとまではいかなくても、中学までとは違ったものを自分の中に入れたいと思っている様子は伝わる。
 わたしも、新しい風を自分の中に吹かせたいと思っていた。

 わたしは春休みに母がいるミャンマーに行った。
 母はミャンマーのヤンゴンにある語学センターに日本語教師として常勤している。日本にいたときに勤務していた大学の繋がりでもなんでもない。
 自分で一から応募し、採用されたらしい。
 ミャンマーを選んだことに特に理由はないようで、タイミングがちょうどよかったことだけが理由のようだ。
 任期は1年だというけれど、その後は契約更新があれば、ミャンマーに残り、もし契約が満了になったのであれば、フランスでもメキシコでもどこにでも行くつもりだという。
 ヤンゴンではヤンゴン・ズーやシュエダゴン・パゴダ、ボタタング・パゴダ、国立博物館、寝釈迦仏などを見て、ひととおりヤンゴン観光をした。初めて海外に行ったからといって、何かが大きく変化するわけでもない。

 けれど、母が転地をしたことで向学心にさらに磨きをかけている様子を見るのは新鮮だった。わたしも新しい学校で色々なものを吸収しようと思うのだ。


 入学式に始業式と経て、わたしは石関くんや寧々と同じクラスになった。
 もちろん自分たちで選んだわけではないけれど、一芸入学のあるA学では、学力入試で入ったメンバーが入るクラスは限られているらしい。
 わたしにとっては親しいふたりがいることで、わたしは安心している面もあった。
 学校の方針として必ずしも部活に所属しなくていいということなので、わたしは部活に入るのをやめ、生徒の自主サークルに所属することにする。
 石関くんに勧められて、旅行サークルに入ることにした。
 あくまでも高校生のサークルなので大げさなことはできないのだろう、と思ったけれど、3年生の最後では海外旅行も計画するらしい。
 とはいえ、普段の活動は、情報収集や週末の小旅行、あとは旅行資金の調達など、割と自由だ。
 懐ぐあいや活動への意欲によって、参加するものは自由に選ぶことができる。
 強制的な活動はほとんどなく、参加できるものに参加する程度の意識でいいらしい。

 基本的には勉強をしたかったし、場合によってはバイトもしてみたかったわたしにとっては最適なサークルだった。石関くんは大学受験を目指しているらしいので、このサークルを選んだようだ。


 春休みの間に石仏は出てこなかった。
 つまり、1か月ていどのインターバルでは出てこないのだということが分かる。
 春休みの間には石関くんにはほとんど会う機会はなく、メッセージアプリからミャンマーの写真を送ったり、日々の何気ないやり取りをしたりするくらいだった。それでも石仏が出てきていないということは、キスの効果は少なくとも1か月続くということだ。
 ただ、いつ出てくるともしれない石仏のことを思うと、気が重くなるのも事実だった。
 人は慣れるものだというけれど、わたしはあのキスに慣れることができない。デートのたびに、挨拶のようにキスをする。
 それだけでわたしの目的は達成されているのだけれど、石関くんはそうじゃないのかもしれない、とこの頃は思うのだ。

 受験が終わって合否を待つ段階にあった3月のある日にも、深いキスをされた。
 石関くんは感情やその場の衝動だけで突っ走るわけでもないけれど、この頃は一度キスをすると、身体が触れている時間が長くなるのを感じている。

 抱き合うことも、触れ合うことも違和感がなく、わたしは石関くんのことを少なくとも男子の中では一番好きなのだということは自覚していた。

 けれど、それは石関くんが求めている好きなのかどうかは、分からない。
 そしてその好きにはゴールや目的があるのかどうかも、分からないのだ。目的意識で生きているわたしからすれば、それはあまりにも不慣れで難しいことだった。
 目的の不一致を意識することなんてなく、世の中のいくつものカップルは自由に付き合ったり別れたりするのだろう。
 けれど、わたしにとっては石仏から身を守るために、石関くんは必要だった。
 利己的かもしれないけれど、彼が何かをわたしに求めているのであれば、それは同じことだろうと思う。そして、小さな変化があった。

 石関くんは、わたしのことを「野宮さん」ではなく、「野宮」と呼ぶようになったのだ。



 1年目の高校生活では、肩の荷がすっかりおりていた。クラス委員でもなければ、受験もない。
 新鮮な気持ちで始めることができた。A学は入学時にシラバスを配って、必要な科目や授業時数を説明した後に、自分で履修数科目を申請するシステムになっている。
 大学との違いは、履修希望した科目に対して担任による監査が入る点だけで、ほとんどは自由だ。入学の時点で、入りたい大学があったり、したい仕事が決まっていたりなど目的がハッキリとしている人は、かなり特色のある履修の仕方をするようだった。

 寧々は入試組ではあるものの個人的にコンセプトアートに関心があるようなので、語学や芸術学や美術実技をメインに履修するらしい。わたしはこれといって目指す方向もないけれど、語学や留学には興味があったので、語学や世界史、異文化理解などの科目をメインに履修する。
 いずれにしても、文系メインだ。石関くんは大学進学を目指しているので、いわゆる5科目7教科をメインに履修していくらしい。


 校内には海外からの留学生もちらほら見かけるので、中学校の時と比べると、ぐっと世界が広がった気がする。
 また帰国子女も多いらしく、校内で外国語を聞く機会も自然と増えた。
そしてバイトを始めることによって、わたしの世界も実際的に広がったのだ。
色々なアルバイトを探す中で、塾のアルバイトは自分にとって親和性が高い気がしたけれど、退屈な気もした。ファミレスのホールというとてもオーソドックスなバイトを選んだ。

 そして、その店には同じ旅行サークルのルアンという男子生徒がいたこともあり、親しくなった。
ブラジルからの留学生だ。
ルアンは距離感がとても近く、ハグや頬へのキス、本題前の導入話が大好きでコミュニケーションが必須。

 一方で、しっかりとした約束というものはあまり重視しないようで、あらゆるコミュニケーションが気安いのだった。男女の区別をせずに、誰にでも熱烈にまで見えるコミュニケーションをとっていくルアンは、わたしからすれば新鮮な存在だ。
 会うたび「ハルカ、デートしよう」と言われるものの、実際には連絡先の交換もしていなければ、具体的な日にちを話しするわけでもない。
個人的にひっそりと期待していたのは、ルアンのようなあっけらかんとした頬へのキスでも、石仏を防ぐことができるのではないか、ということだった。

 けれど、そんな考えは甘かったようで、ルアンのスキンシップの頻度は無関係に、石関くんとのキスの効果が切れれば石仏が登場する。そしてわたしに眠りをもたらしてくるのだ。そのたびに、わたしは石関くんとデートをしてキスをする。
 キスのときに見えるあれは、決して慣れるわけではないけれど、うつと同じように、こなしていかなければならないものとして、石関くんと淡々と付き合い続けるのだ。


 石関くんもわたし同様、新鮮な水の中で泳ぎ始めていた。彼はお兄さんの知り合いのお店でバイトを始めたらしい。ダイニングバーだ。
 昼間はランチが食べられて、21時以降はお酒の飲めるお店になるので、未成年の石関くんが働くにはグレーゾーンなところなのだけれど、知り合いのよしみということで、それより前にあがる名目で雇われているようだった。

 バイトを始めたこともあるのか、わたしはあまり意識してみたことがなかったけれど、客観的に見ると、石関くんは高校に入って、ぐんっと大人っぽくなった。
 実際に女子から声をかけられることが増えたようだ。バイト先でも連絡先を聞かれることがある、と彼は言う。ただ、それを包み隠すことなくわたしに報告するあたりに、彼の真面目さがあるのかもしれない。
 そう寧々に話したら、ハルカに嫉妬してほしいだけじゃないかな、と言われてしまう。

「モテる自分みたいな演出じゃない?自分には男としての価値があると見せたい、みたいな」
 そんな下世話なことを寧々はあっさりと言うので、そういう発想もあるのか、と思うのだった。嫉妬させるよりも、こっそりと女の子にモテる方が合理的なのでは、と思うわたしの発想の方が下世話かもしれないけれど。

 石関くんはわたしと付き合っていることを隠すつもりはないようで、遊びも誘いもクラス内でしてくる。そのため、一度宣戦布告を受けることがあった。川瀬れいかというクラスメイトが、石関と付き合いたいから、別れてくれない?と単刀直入に迫ってきたことがあったのだ。

「別れるってどうやるの?」
 とわたしが聞けば、うんざりとした顔で「天然かよ」と言われる。わたしの本音で話していることを、川瀬さんはたぶん知らない。別れることができるなら、別れるかもしれない。
 もしも、石関くんとキスをしなくても大丈夫な身体になるならば。
しおりを挟む

処理中です...