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1年前(キスの変化)

儀式のゆくえ

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 石関くんはやましいことがないから、隠そうとしないのかもしれない。
 わたしはあわよくばあの恐ろしい幻覚から逃れたいとばかり思っている。
 だからルアンのことを石関くんに話したことはない。
 同じ旅行サークルの子がいる、とだけ話してはいたけれど。
「ハルカ!」
 と出合い頭にハグやキスをされていることは話していなかった。
 もし、浮気だと問い詰められたら、そうだよね、と認めざるを得ない。ただ、ルアンからすれば不特定多数へのコミュニケーションのひとつでしかないのだろうと思う。

 ある日、たまたまバイトが休みだった石関くんがわたしのバイト先に遊びに来たことがあった。わたしが受付をして、注文を取りにいき、あがりの時間を教えて一緒に帰る約束をする。

 その日はたまたまルアンがわたしと交替で入る日だった。
 着替えた後で、石関くんと連れ立って店から出ていくわたしを見つけ「ハルカァ」と言いハグをしてくる。
それから石関くんを見て「アモール?」と聞いてくるので、わたしは「シン(そう)」と言った。
石関くんは怪訝そうに見ていたけれど、サークルにいた?とルアンのことを尋ねる。そうだね、と答えて、ルアンには「アマニャン(明日)」と言った。明日もルアンとはシフトがかぶっていたのだ。
 「チャオ、じゃあねぇ」とルアンは言い、店に入っていく。そよ風のように去っていくルアンを見て、なんていう奴だっけ?と石関くんは聞いてきた。
「ルアン・ジョゼ・オリベイラ・カミロ」とわたしは聞いたままのことをいう。
オリベイラが第1姓で、カミロが第2姓みたい、と補足しておく。わたしも聞きかじりの知識でしかないけれど。ふうん、と石関くん。

 ルアンのことに関してはそれほど興味がないのかと思いきや、その後、寄ったカラオケ店で、やっぱりラテン系だと挨拶でキスもするもん?と聞いてくるのだった。
 頬にはね、とわたしは返す。石関くんは、気のない返事で答えるものの、全く気にしていないというわけではないみたいだ。

「キスしていい?」
 と言ってきて、唇を奪われる。
 ゾワゾワッと背中を駆けめぐる感覚には少し慣れてきているようだ。
ただ慣れてきているとはいっても、好ましいわけじゃないけれど。石関くんがあきらかにルアンのことを意識しているのはわかった。
「野宮はオレと他の子がキスしていたとしたら、気にならないの?」と率直なことを聞いてくるのだ。
「気になるよ」と答えるけれど、気になるからどうなんだろう、とも思う。だって、わたしが石関くんを束縛する権利なんてどこにもない。
「でも、野宮はヤキモチ焼いてる感じしないしな」と石関くんはいう。
「石関くんはヤキモチ焼かれて束縛される方が嬉しいの?」とわたしは聞く。

 すると、そんな真っすぐに聞かれるとは思わなかった、と石関くんはいうのだ。
「オレは嬉しいけど。他の子に手を触れさせないでってレベルのヤキモチも全然いい」
 わたしは正直驚いてしまう。そんな風に思っていたとは知らなかったからだ。

 女の子に誘われる話をわたしにするのも、ヤキモチを焼いてほしいからなの?とわたしは聞いてみる。寧々の言ったようなことが本当だとは思わないのだけれど。まあ、気にはしてほしいから、かな。モテる彼氏の方がいいんじゃないかって。
「モテる彼氏のメリットってなに?」
 とわたしが聞けば、人気のある相手と付き合っているっていうステータスみたいな?と返ってくる。石関くんの発想が新鮮すぎて、理解が追いつかないのだった。

 でも、逆に野宮がモテるのは、割と危機感覚えるけど。執着がなさそうだから。そんな風に言う。
 石関くんとの関係に執着して、彼を束縛する自分を想像してみた。

 行動を監視して、指摘する。
 自分たちは付き合っているのだ、と関係性に執着する自分の心を想像すると、それだけで窒息しそうになる。
「執着するのも、才能なのかもしれないね」とわたしは言う。石関くんは少ししょんぼりしたようにして、そうだな、と言うのだった。

 大きな変化はなにもなく、わたしは日々淡々と、授業の予習復習を行い、バイトに行く。そんな生活を送っていたけれど、ある日寧々に指摘されて気づいたことがある。
 川瀬さんが石関くんと親しそうに話すことが増えたのだった。寧々いわく、川瀬さんは石関くんと同じバイト先でバイトを始めたらしい。
 川瀬さんは石関くんの腕に手を絡めたり、手の指に自分の指を絡め、貝殻繋ぎにしてみたり、人目をはばからないでスキンシップをする。
「あれ、どう思う?」と寧々は聞いてきた。わたし自身としては、石関くんと別れた覚えはなかったけれど、川瀬さんは石関くんと付き合いたいと言っていた。
 この思いに応えるかどうかは、石関くん次第だと思う。石関くんが川瀬さんと仲良くしていたとしても、わたしがどうこう言うことじゃない気がする、とわたしは寧々に言う。

「ハルカって淡泊すぎて、逆に変態だね」と言われてしまった。
 石関くん次第だ、と思うわたしの考え方は、異様だと、川瀬さん自身にも言われてしまう。川瀬さん自身は、石関くん次第ではなくて、わたしの存在がとにかく気になり、要するに目障りのようだった。

「ねぇ、野宮さんさあ、別れる気ないの?石関も野宮さんから別れるって言ってくれないと別れられないんじゃないかな」とそんな風に直に言われることもあった。
 石関くんが別れたいっていうなら、そうしようと思う、とわたしは言う。その答えは、川瀬さんのお気に召さないよ うだった。
「やらせてもあげないし、別れてもあげないってヤバくない?」
 川瀬さんのいう「あげる」「あげない」。
 それはわたしが主体になっている言葉だ。
 川瀬さんの言葉では、やらせてあげるのも、別れてあげるのも、石関くんではないし、もちろん、川瀬さんでもない。わたしの行動は、誰かに指示されて変えられるものじゃないはずだ。それに、やらせることも別れることも、どちらもひとりではできないことだとも思う。

「ヤバいかもしれないけど、それはわたしと石関くんの問題だと思う。川瀬さんは、それとは別に石関くんと仲良くすることができるはずだよ」とわたしは言うしかない。
 結局「本命の余裕って感じ。感じ悪い」と一蹴されるのだけれど。わたしの心にひとつのシミができる。「やらせてあげること」が付き合っているときには必要なことなのだろうか、ということだ。石関くんのキスの先には、それがあるのだろうか。と思った。



「付き合うのは儀式だね」
 とルアンは言う。
「キスするなら付き合う、セックスするなら付き合う、日本では儀式が多いよね」
 ルアン自身は日本で恋人を作ることはやぶさかではないらしいけれど、この儀式が難点なのだという。
 そして「ハルカは儀式でリョータと結ばれているんだから、その特権を利用しない手はないよね」と明るくまとめる。

 ルアンからすれば、付き合う相手がいることは特権らしい。
けれど、川瀬さんとの会話のあとから、石関くんとの間がギクシャクしてきているのを感じていた。ひょっとしたら、決定的になっただけであって、前兆はあったのかもしれない。
 石関くんは教室でわたしと話すのを避けるようになったし、川瀬さんとは一層親しそうにするようになった。端から見えれば、ふたりが付き合っていて、わたしは石関くんと別れたのだと思えるだろう。

 ルアンからすれば儀式的な付き合うかどうかの境目も、実際には曖昧なものだと思う。

 付き合いのスタートは明確な場合でも、別れるときにハッキリと別れを口にするかどうかなんて分からない。
 世の中には自然消滅という名の別れだって、山ほどあるはずだ。
 別れの儀式なんてものはない。

 ひょっとしたら、わたしたちは別れてしまったのかもしれない。


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