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 本当なら、もっと早くに行くべきだった。でも、行くべきときは今のような気がした。
 墓地に並ぶ墓石を眺めながら、こんなにもたくさんの人たちがこの世から消えたと考えると不思議に思う。本当に、消えたのだろうかと。翔と同じように、死後どこへ向かっていいのかわからないでいる人もいるのではないだろうか、と。
 桃香の墓の前に、懐かしい姿があった。桃香の母だ。

「夏芽ちゃん、来てくれたのね」

 いつも優しくしてくれた桃香の母は、今でもあの頃と同じだった。顔の皺があれからの時間を物語っている。私はここへ来るのに、本当にずいぶんと時間がかかってしまった。

「夏芽ちゃんが来てくれたよ」

 墓石にそっと手を乗せて、桃香の母が優しく声をかけている。

「私、ずっと謝りたかったんです」
「誰に?」

 桃香は母親似だ。微笑んだその顔に、桃香を思い出した。

「桃香と、桃香のお母さんにも」
「どうして?」

 私は手に持っていた花束をそっと桃香の墓石の前に置いた。綺麗に掃除されている。桃香は今でも変わらずみんなに愛され続けているのだ。

「あの日、私桃香と喧嘩別れしちゃったんです。私が馬鹿でした。大人げなくて。桃香は何も悪くないのに」

 桃香の母は、何も言わずただ黙って聞いてくれていた。

「もし、あの時、喧嘩なんてしなかったら。桃香は今も生きていたんじゃないかって、ずっと考えていました。だからお葬式の時、桃香と喧嘩して別れたと誰にも言えませんでした」

 今までずっと言えなかった言葉が、一気に涙と一緒に溢れ出た。
 私は頬を伝う涙を何度も手の甲で拭いながら、桃香の母を見た。
 怖い。桃香の母に責められるような気がして。でも、顔を逸らせなかった。桃香の母も泣いていたからだ。

「ごめんなさい」

 桃香がこの世を去ってから、ずっと、ずっと言いたかったたった一言。ごめんね、と素直に言う機会さえ、なくなってしまっていた。直接桃香に謝るなんて、もう絶対にできない。あの日、雨が降る中、桃香を置き去りにしたまま私たちは二度と会えない。それが初めからわかっていたのなら。

「今までずっと苦しかったね、夏芽ちゃん」

 桃香の母は泣きながら私を自分の胸の中へ抱き寄せた。温かくて、優しくて、いい匂いがする。花の香りのようだ。

「話してくれて、ありがとう」

 私は迷子になった幼い子どもが母親と再会できたときのように、わーっと声を堪えきれずに泣いた。桃香の母の温かい手が私の頭を撫でる。

「そんなこと、桃香はもうきっと怒っていないわ。夏芽ちゃんが大好きだったから」

 本当の桃香の気持ちは、もう誰にもわからない。桃香があの日どう思っていたのか、謝るのにこんなにも時間がかかる私をまだ親友と思っていてくれているのか。
 だけど、桃香ならきっと笑って言いそうだ。私たちずっと親友だって約束したじゃん、と。私に対して怒ったり責めたりする桃香の姿なんて、少しも想像できなかった。だから、ずっと怖くて言えなかったのだろう。もし想像もできない言葉を言われたらどうしようかと、ただただ怖かった。今更、桃香からどんな言葉だって言ってもらえないのに。

「本当に、今までずっと黙っていてごめんなさい」

 桃香の母は「ありがとう」とまた私を抱き寄せて、赤ちゃんをあやすように身体を揺すった。

「さぁ、泣き止まなくちゃ。いつまでも泣いていたら、桃香が心配するでしょう」

 そうですね、と私は涙でぐちゃぐちゃになった顔を桃香の母の胸から引き剥がした。みっともない。もう二十八にもなる大人が。

「夏芽ちゃんが元気そうで本当によかったわ。また、桃香に会いに来てやってね」
「はい」

 私は桃香に「また来るね」と挨拶をして、涙を拭いながら車へ向かった。
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