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1巻
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目を開けていたら痛みで視界に火花が散ったことだろう。いや、瞼を閉じていても散っていた。
どしん、とどこかに着地したようだった。その振動が骨まで響いた。指も手首も動かせない。両足は足首を持ち上げられるようにして広がり、股間から引き抜けそうだった。
『今回こそは、逃がしはせぬぞ。ようやく、ようやく……! ああ、気が逸って身が、おっと、すまぬ、かけすぎた。生きておるか……? そうっとだな、あ、いや、男でもここだろう。おっと、すまぬ、手加減がこの形だと難しくて』
どどど!
熱く粘着力のある液体のようなものが、逆さ吊りにされたケリーの股間から被さってきた。上から狙い定めて桶をひっくり返されたような勢いだ。
(ぐふっ、ぐぅ……)
分厚いねっちょりしたものが口元を覆い、息が詰まる。
手で拭おうにも両腕は動かない。片方の腕は背中の下敷きのようになり、もう片方はひたすら手首を踏みつけられているような痛みを伝えてきている。なんとか首を左右に振って、呼吸を確保しようとする。
(……ぎゃあ、ああ!?)
鎖帷子を断ち切られ、衣服すら破れて露出した肌の上に、熱い粘液を広げるようにして何か巨大なものが這っていく。
(か、かみよ)
救いの存在として脳裏に閃いたのは風になびく麦畑。広がる大空。石造りの街並み。騎士の行列。
ケリーが祈った神は地上におわす至高の存在。
大地から地底へとくぐって、神の加護が薄らぎ愚かな土塊は崩れようとしている。
下水道の配道のような、蛇腹のような、とにかく長く重い物量に延々と敷かれてケリーは失神しかかった。
ゾルッゾル、ゾルッ。
振動と窒息のなか太腿の付け根から左右に裂かれたのかもしれなかった。真っぷたつにされる衝撃がひたすら体を貫いていく。
その痛みが飛びそうな意識を引き戻す。断片的で、混沌としていた。
(あ!? はぐぁ? あ、あ!?)
露出している皮膚も鋭い崖ですりおろされているかのような肌感覚を受けるのに、他の痛みに圧倒されて伝わってこない。
圧し潰され、引きちぎられ、四肢がまだ繋がっているかわからない。音と鼻をつく臭いで、べしょべしょと内臓を舐められているような想像が浮かんだ。
唾液まみれの巨大な動物の棘つきの舌で、ぐいぐいと胎内がまさぐられ、啜られ、犯されていく。
『ああ、ちょっと、難しくて、な。よしよし、痛覚は切っておいた。だから、大丈夫だ。うむ、これが腕か……いや足だな。繋げておこう。大丈夫だとも』
『繋ぐ、こっち』
『こっちだ。えいえい』
『ぎゃくだよ』
『おまえたち、遊ぶな』
ぴぎゃっと何かが潰された気配がして、ふっと四肢の付け根が意識できた。
少し焦りが伝わってくる脳内に響く人語は男のようだった。獣じみた雄の色音があった。
ひくっとケリーの眼球が剥き出しになった。
黒い何かが動いている。
光る粒が波打っている。
じゅるじゅると何かをしゃぶられている。
泡を噴いていた口端から、透明な唾液が垂れていく。
『ふむ、いまの名前は〈けりィ〉か。今世も素直ないい子のようだな。よいよい』
頭の奥から声がして、褒められながら、その奥を濡れた舌で撫でられる。繋がった四肢がびくびくと不随意に跳ねて、何かにぶつかる。
ケリーの青い瞳が、自分を覆う何者かを見ている。
記憶しようとする脳が働かない。判断力が最低地点まで墜落している。粘液で満たされる。耳と鼻と口から溢れて、呼吸が止まった。
だが永劫の時の中にいた。
願いは何かあるかと問われる。
肉体を意識しない中、ただ誇りとしていた騎士としての自分が、自分の中でひとり立っている。
――私は近衛騎士だ。近衛騎士とは王家を守護して戦う者だ。だから私の願いは、近衛騎士としてと、この国の貴族としても、王家と国と民の安寧を願っている。
青い瞳は見ている。
脳内に語りかけてくる地底の生き物を。
『〈けりィ〉、そなたの願いを叶えよう。肉体の契り、次に魂の契りを結ぼう。待たされた憤懣はあるが、ついにこうして我が手に戻ったそなたへの愛しさに気が昂ぶって鎮まらぬほどだ。そなたの今世の願いを叶えることによって楔としよう』
ケリーの臓腑を犯し、脳をいじくり、四肢をばらして繋げた神の御業を。
金色の睫毛がぴくっと震えた。
幕間 オリオの見た世界
オリオは、十八歳で成人したケリーが近衛騎士になると同時に男爵を叙爵されてのち、ケリーの親である侯爵から息子に仕えるよう命じられてから二年となる熟年の従卒であり従者だった。
若いころは領地争いなどの小規模な争いに参加したことはあるが、そろそろ五十歳ともなると血気盛んな覇気もない。公爵から面倒を見ろと命じられた三男坊も特に秀でたところもない代わりに特に悪癖もない若い主人だったので、オリオは穏やかな日々を送っていた。
「……う……」
意識を失うまえ、強く洞窟の壁にぶつかったらしいことだけはわかる。右側の肩と背中が動かそうとしただけで息が詰まるほど痛い。
はぁ、はぁ。なんとか息を整え、四肢を確認し周囲を探る。首だけ動かせる。
(ケリー様)
声が出ない。ここ数日嗅いだこともない匂いが洞窟内に満ちている。
癖の強い香水のような、奥深い湿気のような、慣れないまま心の中で顔をしかめる。
閉じた扉はただの彫刻という壁、洞窟の行き止まりにしか思えなかったのに、
(ない…………壁が……)
『祠』と呼んでいたかつての『扉』とその前に設えた祭壇。鐘や蝋燭、お供え物用の皿、松明。オリオが見渡す先にそれらはすべて消えていた。
洞窟の行き止まりが消え、奥に続いていた。
(広い……明るい……)
『祠』の先には、赤みを帯びた岩肌の、ほの明るい洞窟が視界いっぱいに広がっていた。
(ケリー様、祠が開きました……! 開通したんですよ……!)
そのことがじわじわと腑に落ちてくる。
これは勅命の第一歩を果たせたことになる。痛みを忘れ、明るい奥の世界に照らされたオリオは、いまだ地面に転がりながら笑みを浮かべた。
「……ケ……さ、ま……」
半鐘刻(三十分)以上じたばたしていると、どうにか身を起こせるほど痛みがましになってきた。オリオはとにかく首を巡らせて主人を探した。
洞窟壁際に祭壇の破片が落ちている。
『扉』は内側に開いたようで、地面に開閉痕があった。その痕のなかに、長大な何かが這ったとでもいうような、説明のつかない痕もある。オリオの経験の中では馬車を引いていた馬が脚を折って、横転した馬車が勢いのままに地面をえぐった痕がよく似ていたものだった。
慣れぬ匂いの中、はぁはぁと深く呼吸をして、片膝を立てた。冷えた汗の滲む肌が痛んでピリピリする。洞窟の奥からの空気は常温と変わらない。寒くもなく、暑くもない。
(ケリー様)
主人の姿も気配もない。
吹き飛ばされて洞窟の入口に転がっている可能性もあるが、オリオの勘が、そっちではないと告げている。
嫌な予感のほうが当たるのだ。この場合、洞窟の入口ではなく奥だ。
オリオより先に意識が戻った主人が、洞窟の奥に行ったのかもしれない。
日頃なら、倒れている従者を置いていく人柄ではないが、王命に意気込んでいたし任務失敗かと気を揉んでいたのだ。ひとりで先走ったかもしれない。
そう考えつつも、オリオはなにより、地面の痕跡が気になっていた。
主人が元気に先走ってくれていたほうがいい。
「ぐ……」
忠実な従者は、歯を食いしばって立ち上がり、腰の剣を手で無意識に触ってから奥へと向かった。
洞窟の奥へ進むほどに、壁に埋め込まれている石が赤く発光しているおかげで薄明るいことに気づいた。
(なんだこれは)
松明もないのだから明るいことは助かるが不気味だった。
見下ろせば、見えにくいが地面の痕跡はたしかにあって、ずっと長く、何かを引きずったようだ。
無意識に飲み込んだ唾の音に自分で驚いた。暑くないのに汗が出る。寒くないのに身が凍る。
(ケリー様。どこだ)
侯爵領をもつラルスランス家三男で、恵まれた容姿に実直な性格。後継に関わらない三男ゆえか鷹揚で、兄弟の中で一番可愛い性格をしていた。侯爵の縁故と、騎士一般に求められる剣術・槍術・弓術・馬術を熱心に習って近衛騎士の地位を得た。
オリオから見れば甘っちょろいところのあるお坊ちゃんにすぎないが、それがまた仕えがいのあるところだと思っていた。
(ケリー様は勇んでこの任務に赴いたが、俺はわかっていたぜ。なんかやばいってな)
王家があの手この手で繋ぎを付けようと奔走した闇神との交渉を、侯爵家出身とはいえ、まだ新人の近衛騎士ひとりに命じるのか。
『それだけ私に向いているということだろう』
懸念を話すと、ケリーはそう自分にも従者にも言い聞かせているようだった。
奥へ奥へ進みついに洞窟を出ると、平坦な赤茶色の地面が続いていた。草木はなく、赤い岩石がところどころ地面から顔を出している。
天井は夜空のような天上になっている。
(地底界にも太陽がある――あの話は本当だったんだな)
しばしオリオは茫然と地底界の空を見上げた。自然と、太陽があるからこそ、夜にはこうして夜空となることが飲み込めた。
背後を振り返ると赤黒い壁がそびえ立っている。切り立った崖なのかもしれない。左端ではこの壁が林のような黒い影に変わっていた。
周囲をぐるりと見回していたオリオは、はっと気づいて顔を正面に戻した。
灰色の石柱数本に円形の土台と屋根のある東屋のような簡易な建物があった。はじめて見る人工物だ。
洞窟内で目覚めた場所からこの出口まで四半鐘刻(十五分)以上はかかっているだろう。
そのあいだずっと探して、目を皿にして痕跡を追ってきた。その目的の人物らしき者が見えた。東屋の石床でぬらぬらした透明と白濁が混じる粘液らしきものに覆われていた。
それを主人かもしれないと、脳裏によぎったのはこの場所にいる可能性のある人族が自分と主人しかいなかったことと、服装だ。
主人の衣服を用意して着せて、鎖帷子の上に革鎧を装着するのを手伝ったのはオリオだ。
「……っ」
声も出ないまま、いまだ痺れの残る足を急がせて東屋に向かった。
石柱の灰色には、白と透明な宝石のような粒が散らしてあった。六本の柱の内、二本の側面が削れ、柱の根本に灰色の砂が固まってあった。その砂の中でも宝石が煌めいている。
倒れている人物の顔を覗き込んだ。
左側を下に横倒しになっている。しかし右の耳の形、額とこめかみからの顎の線。どれもが主人の造形だった。
頭から半透明な粘液がかかり、金髪が乱れ、束になって額に落ちていた。その前髪の下の瞼は伏せられている。
東屋の中の明かりは薄青かった。この石柱の灰色が青味がかっているからだろうか。
手を鼻の下に伸ばすと、呼吸を感じることができた。しかし顔色がわからない。
「ケリー様」
耳に顔を近づけてオリオは囁いた。
現在、地底の闇族の姿は見えない。いったい何があったかはっきりしないが、主人は倒されている。攻撃されているのだ。ここは敵地。
オリオの頭は主人をここから運び出すことだけの思考に切り替わった。
倒れている主人は鎖帷子ごと服がちぎれていた。鎖帷子の断面は左右から尋常ではない力で引っ張られたかのように欠片が変形していた。
防備を破られた薄青い明かりに照らされた青白い肌に切り傷はなかった。
だが、うっ血痕が残り、半透明な粘液には血が混じっているように見えた。命を奪うために暴力を振るわれたというよりも……
こんなふうに乱れきって倒れている男女をオリオは過去目撃したことがある。
盗賊に襲われた村の跡地、無法者たちが占領した館、貧民街の裏路地。
オリオは布巾で主人の顔から慎重に白濁の混じる半透明の粘液を除去し、鼻と口の気道を確保してから自分の上着を脱いで被せた。
「ケリー様、動かしますよ。大丈夫です、私しか知りません。大丈夫ですから」
聞こえていなくとも耳元に小さな声で語りかけ、節々の痛みを我慢して肩に担いだ。重量に目の前で火花が散った。
腹の底からの怒りを力に変えて、重い一歩を踏み出した。
第四話 籍だけの騎士
【晩秋 王都 侯爵屋敷】
王都の屋敷に戻ってからのケリーは、『闇の祠』での自失以来、快復するどころか、むしろ悪化して日々を過ごした。
一日の内で平静に受け答えができる時間は半鐘刻(三十分)あるかないか。
ケリーは気がつくと寝室の天井を見上げており、その視界の中に家族や家僕、近衛騎士の同僚、王城からの使者、医師や神官らしき衣服の者たちが時々入った。
母親は目の周囲を赤くはらして、よくケリーにすがって名を呼んでくれていた。
「ケリー……ケリー……」
片手が温かいものに包まれる。虚ろで何も期待されていない、ただ、そこにいるだけでいいというかのような、声だった。
口の中に何か入ってきていると思う時は、上半身を起こされてオリオに介助されていることが多かった。
「……オリオ……」
ごくっと嚥下して名を呼べば、オリオははっとした顔をして耳元で穏やかな声で囁く。
「おはようございます、ケリー様。すべて食べられてえらかったですよ。もう一口いかがでしょうか」
こうして優しい声をかけてくれる者は、数少ない。
錯乱した意識の中で聴覚だけが、妙に活き活きとしていた。いろんな言葉を耳から脳に運んできた。
先輩の近衛騎士たちが何人かやってきて、行儀よくしていたのは最初だけで、耳元でただぐちぐちと繰り返していた。
『任務の結果を報告せよ』
『まだ意識が朦朧としているのか、仮病ではないのか』
『これだから半人前は』
『優しい両親でうらやましいかぎりだ』
城の文官たちらしい者たちも来たようだった。
本当に来ていたのかわからない。
『従卒のオリオの証言によって『闇の祠』が開門したことは報告された』
『後日確認と地底への使者が立てられたが……。扉の開閉跡は残っていたが、また閉じられていたのだ』
『貴殿が『扉』を開けたというオリオの証言は事実と判断していいのだろうが……だが、肝心の交通ができない以上、成功とも言えない。アンシュリー卿は陛下の親書をどうされたのだろうか』
『アンシュリー卿? 陛下は、アンシュリー卿が快復次第、もう一度『祠』を訪ねてほしいとお命じなのだが……アンシュリー卿、聞こえておられるか?』
寝室の中で、ただカーテン越しに外の明るさで時間を知る。
朝か。夜か。
ああ、夜はだめだ。夜はやめてくれ。
そう思ったとたん大声が響き、扉が激しく叩かれ、最後にオリオの声がした。
荒々しい息遣いの中で、ケリー、ケリー、ケリー様と呼ぶ声が聞こえる。
『けりィ』
ぐちゃ。何かがちぎれて落ちた。
脳裏に入り込んだその会話の主は騎士でも文官でもなかった。
『アンシュリー卿……あなたは……闇神の息吹に触れられたのですか』
『地神と闇神はいにしえより諍いなどありませんが、神の御心は計り知れぬゆえ』
『護符を、聖水を……』
『お話を』
『お話を』
『どうぞお身柄を我が神殿に』
『闇神神殿の方々には控えていただきたい。卿は地神信徒ですぞ』
『卿が倒れられたのは勅命によって祠に赴いたがゆえでしょう! だとしたら我ら闇神に関連しているはずです』
『そうです、卿のあの症状も地底の風に触れたがゆえの一時的な障りでしょう』
『地上の者を地底の護符で癒せなどしない』
『すでに地神の護符でも聖水でも効果がなかったではありませんか!』
『それはそちらもご同様でしょうに!』
家の者の声がして、争う声は遠ざかっていった。
長い静かな夜。蝋燭だけを灯した寝室が見えた。
寝台脇にでもいるのか、侯爵でもある父の声が響いていた。
『私は陛下に申し上げたよ。我が息子を廃人同然にしておきながら、近衛騎士の籍まで剥奪するのですか、とね』
『おまえは地底との開通を成し遂げた。そんな体になってな。はるか昔に『扉』は閉じられ、『闇の祠』として祀られ禁忌とされたのは、おまえのような者が続出したからではないのかな』
『我が侯爵家の者をなんだと思っているのだ、王家は。使い捨てになぞなってたまるか』
『賠償金を要求した。まあ、減額を見越しての請求だ。減額の代わりおまえの近衛騎士の籍は今後何年おまえが療養しようとも残る。騎士としての年金も払われる。おまえは騎士として王家に奉仕したのだ、休むがいいさ。三男として、王家に大きな借りを作ってくれた』
『おまえの母上だけは、おまえがこうなって悲しんでいるけれどな。私はまだ快復の余地はあると思っている。おまえは小さいころから兄たちと違って妙なところで要領がよくて、思いもしないことをしでかしてきたから……きっと快復する』
*
ケリーは任務前の今年の秋まで王都の騎士寮に入寮している新人近衛騎士だった。
そして初の単独任務後三ヶ月の自宅療養を経て、籍だけ残し、侯爵の属爵である男爵領の、南部領地での療養が決まった。
それらは屋敷の寝室に籠っているうちにケリーのあずかり知らぬところで決まったことだった。
寝室から一歩も外に出られなかったケリーは父侯爵に命じられた家僕たちに布団ごと簀巻きにされると装飾のない箱型馬車に乗せられ、オリオをお供に出発していた。
「今後も経過は報せるように」
「はい、侯爵閣下」
出発前に、馬車の外で会話が聞こえた。それが最後に聞いた父の声だ。他に母や兄たちが見送っていてくれたのかどうかわからない。乗り込んできたオリオに問う気にもなれなかった。
自力で外に出ることができなかった。
「ああ……うぅ」
かろうじて出た声もこれだけ。
送り出されたのが再び開けろとせっつかれている『闇の祠』のある東北部ではなく、療養が目的の南部の男爵領というだけでも親からの温情だったと、のちになってケリーは感謝した。
第五話 怪異と討伐者
ラードリュー王国東北地方では去年の冬から怪異現象が多発している。
今年の春、東北地方の領主たちの要請によって、王国軍の騎馬隊に所属している王国騎士ブレット・エイマーズは出動となった。
各領地での治安は、基本的に領主が持つ騎士団や私兵が対処することになっているが、手に負えないとなれば王城に依頼して王国軍を派遣してもらうことになる。
ブレットは東北の地方領主の四男から王国軍に入軍して、剣の腕と実践経験を積み上げてきた騎士だ。
濃い金髪を短く刈って、四角い顔は日に焼けてそばかすが散っている。鋭い目つきの青い瞳は薄く、分厚い唇はいつもへの字に結ばれている。
今回の派遣地方に詳しいだろうと参加兵一覧に入れられた。
最終的に戦闘部隊の編制は、王国軍騎士三十人、従卒三十人、歩兵二百人、東北合同領軍七十人、輜重・兵站担当部隊六十人となった。
【春 王国東北地方】
野営地を夕日が照らしている。
春の陽気が残りまだ寒くないが、薪が多く集められていた。
「今回、王国軍にお配りする剣や武器は! 天神の神殿により祝福を授けられた武器である! ゆえに! この地方で出現しているという地底からの怪異は、この天の剣でもって討伐していただきたい。むしろ! この祝福されし剣でなくば効かぬといえましょう!」
ひとりの白い男が台に乗って気炎を上げる。
おぉ……!
整列している騎士や兵士たちから応えるように歓声が上がる。
「おい、あの男は?」
「討伐者サルバル・ドンス卿ですよ」
「とうばつ……なんだそりゃ」
馬から下りて騎士仲間たちと整列して演説を聞いていたブレットは、前にならんでいた年下の同僚に問いかけた。
「なんて言うんでしょう、天神の信仰者、信徒ですかね。爵位はお持ちじゃないですけど、伯爵のご子息ですよ。熱心な天神の信者で、今回の王国軍派遣についても神殿側から大きく働きかけてご自身も自主参加してきたらしいですよ。なんだか急に存在を主張してきた感じの人です」
「ふーむ」
なるほど、とブレットは思った。
地方領主たちからの出動依頼にしては、準備が早く、派遣人数が多く、装備や食料など、手配が潤沢だと思っていたのだ。天神神殿の梃入れがあったということなら納得がいく。
サルバル・ドンスは白っぽい金髪に、そろった前髪は短めで額が秀で、日に焼けていない真っ白の肌、白い鎧に白い外套を翻していた。年齢は二十代半ばあたりだろうか。背は高いが厚みはない。三白眼の青い目だけがギラギラしていて、まさしく狂信者じみている。
サルバルに代わって隊長が台にのぼって、軽く今後の予定を告げ、詳しくは各部隊長からの指示に従えということになり、解散した。
異変が発見されたのは三日後の夜明け。収穫の終わった畑を抜けた、岩山の裾野である荒原だった。斥候が放たれ、情報が集められて幹部たちの作戦会議中に、
「闇神様の眷属の可能性がある。使者を出すべきではないか」
「まずはお怒りを鎮めることが大切」
だと従軍している地上神殿の神官が助言をした。
地底の怪異は闇神の眷属だろうという、だとするとその元凶は地底蚯蚓や、地底土竜が過去の文献にあるため推察ができるのだとか。
神官の使者を通して怒りを鎮めることができるなら……という風向きをぶった切り、即座の殲滅! 討伐! と叫んだのは例のサルバル・ドンスであったらしい。
彼の苛烈なまでの攻勢すべきという意見をだれも覆せず、朝日が昇ってから『闇を断つ』という作戦が実戦されることになった。
どしん、とどこかに着地したようだった。その振動が骨まで響いた。指も手首も動かせない。両足は足首を持ち上げられるようにして広がり、股間から引き抜けそうだった。
『今回こそは、逃がしはせぬぞ。ようやく、ようやく……! ああ、気が逸って身が、おっと、すまぬ、かけすぎた。生きておるか……? そうっとだな、あ、いや、男でもここだろう。おっと、すまぬ、手加減がこの形だと難しくて』
どどど!
熱く粘着力のある液体のようなものが、逆さ吊りにされたケリーの股間から被さってきた。上から狙い定めて桶をひっくり返されたような勢いだ。
(ぐふっ、ぐぅ……)
分厚いねっちょりしたものが口元を覆い、息が詰まる。
手で拭おうにも両腕は動かない。片方の腕は背中の下敷きのようになり、もう片方はひたすら手首を踏みつけられているような痛みを伝えてきている。なんとか首を左右に振って、呼吸を確保しようとする。
(……ぎゃあ、ああ!?)
鎖帷子を断ち切られ、衣服すら破れて露出した肌の上に、熱い粘液を広げるようにして何か巨大なものが這っていく。
(か、かみよ)
救いの存在として脳裏に閃いたのは風になびく麦畑。広がる大空。石造りの街並み。騎士の行列。
ケリーが祈った神は地上におわす至高の存在。
大地から地底へとくぐって、神の加護が薄らぎ愚かな土塊は崩れようとしている。
下水道の配道のような、蛇腹のような、とにかく長く重い物量に延々と敷かれてケリーは失神しかかった。
ゾルッゾル、ゾルッ。
振動と窒息のなか太腿の付け根から左右に裂かれたのかもしれなかった。真っぷたつにされる衝撃がひたすら体を貫いていく。
その痛みが飛びそうな意識を引き戻す。断片的で、混沌としていた。
(あ!? はぐぁ? あ、あ!?)
露出している皮膚も鋭い崖ですりおろされているかのような肌感覚を受けるのに、他の痛みに圧倒されて伝わってこない。
圧し潰され、引きちぎられ、四肢がまだ繋がっているかわからない。音と鼻をつく臭いで、べしょべしょと内臓を舐められているような想像が浮かんだ。
唾液まみれの巨大な動物の棘つきの舌で、ぐいぐいと胎内がまさぐられ、啜られ、犯されていく。
『ああ、ちょっと、難しくて、な。よしよし、痛覚は切っておいた。だから、大丈夫だ。うむ、これが腕か……いや足だな。繋げておこう。大丈夫だとも』
『繋ぐ、こっち』
『こっちだ。えいえい』
『ぎゃくだよ』
『おまえたち、遊ぶな』
ぴぎゃっと何かが潰された気配がして、ふっと四肢の付け根が意識できた。
少し焦りが伝わってくる脳内に響く人語は男のようだった。獣じみた雄の色音があった。
ひくっとケリーの眼球が剥き出しになった。
黒い何かが動いている。
光る粒が波打っている。
じゅるじゅると何かをしゃぶられている。
泡を噴いていた口端から、透明な唾液が垂れていく。
『ふむ、いまの名前は〈けりィ〉か。今世も素直ないい子のようだな。よいよい』
頭の奥から声がして、褒められながら、その奥を濡れた舌で撫でられる。繋がった四肢がびくびくと不随意に跳ねて、何かにぶつかる。
ケリーの青い瞳が、自分を覆う何者かを見ている。
記憶しようとする脳が働かない。判断力が最低地点まで墜落している。粘液で満たされる。耳と鼻と口から溢れて、呼吸が止まった。
だが永劫の時の中にいた。
願いは何かあるかと問われる。
肉体を意識しない中、ただ誇りとしていた騎士としての自分が、自分の中でひとり立っている。
――私は近衛騎士だ。近衛騎士とは王家を守護して戦う者だ。だから私の願いは、近衛騎士としてと、この国の貴族としても、王家と国と民の安寧を願っている。
青い瞳は見ている。
脳内に語りかけてくる地底の生き物を。
『〈けりィ〉、そなたの願いを叶えよう。肉体の契り、次に魂の契りを結ぼう。待たされた憤懣はあるが、ついにこうして我が手に戻ったそなたへの愛しさに気が昂ぶって鎮まらぬほどだ。そなたの今世の願いを叶えることによって楔としよう』
ケリーの臓腑を犯し、脳をいじくり、四肢をばらして繋げた神の御業を。
金色の睫毛がぴくっと震えた。
幕間 オリオの見た世界
オリオは、十八歳で成人したケリーが近衛騎士になると同時に男爵を叙爵されてのち、ケリーの親である侯爵から息子に仕えるよう命じられてから二年となる熟年の従卒であり従者だった。
若いころは領地争いなどの小規模な争いに参加したことはあるが、そろそろ五十歳ともなると血気盛んな覇気もない。公爵から面倒を見ろと命じられた三男坊も特に秀でたところもない代わりに特に悪癖もない若い主人だったので、オリオは穏やかな日々を送っていた。
「……う……」
意識を失うまえ、強く洞窟の壁にぶつかったらしいことだけはわかる。右側の肩と背中が動かそうとしただけで息が詰まるほど痛い。
はぁ、はぁ。なんとか息を整え、四肢を確認し周囲を探る。首だけ動かせる。
(ケリー様)
声が出ない。ここ数日嗅いだこともない匂いが洞窟内に満ちている。
癖の強い香水のような、奥深い湿気のような、慣れないまま心の中で顔をしかめる。
閉じた扉はただの彫刻という壁、洞窟の行き止まりにしか思えなかったのに、
(ない…………壁が……)
『祠』と呼んでいたかつての『扉』とその前に設えた祭壇。鐘や蝋燭、お供え物用の皿、松明。オリオが見渡す先にそれらはすべて消えていた。
洞窟の行き止まりが消え、奥に続いていた。
(広い……明るい……)
『祠』の先には、赤みを帯びた岩肌の、ほの明るい洞窟が視界いっぱいに広がっていた。
(ケリー様、祠が開きました……! 開通したんですよ……!)
そのことがじわじわと腑に落ちてくる。
これは勅命の第一歩を果たせたことになる。痛みを忘れ、明るい奥の世界に照らされたオリオは、いまだ地面に転がりながら笑みを浮かべた。
「……ケ……さ、ま……」
半鐘刻(三十分)以上じたばたしていると、どうにか身を起こせるほど痛みがましになってきた。オリオはとにかく首を巡らせて主人を探した。
洞窟壁際に祭壇の破片が落ちている。
『扉』は内側に開いたようで、地面に開閉痕があった。その痕のなかに、長大な何かが這ったとでもいうような、説明のつかない痕もある。オリオの経験の中では馬車を引いていた馬が脚を折って、横転した馬車が勢いのままに地面をえぐった痕がよく似ていたものだった。
慣れぬ匂いの中、はぁはぁと深く呼吸をして、片膝を立てた。冷えた汗の滲む肌が痛んでピリピリする。洞窟の奥からの空気は常温と変わらない。寒くもなく、暑くもない。
(ケリー様)
主人の姿も気配もない。
吹き飛ばされて洞窟の入口に転がっている可能性もあるが、オリオの勘が、そっちではないと告げている。
嫌な予感のほうが当たるのだ。この場合、洞窟の入口ではなく奥だ。
オリオより先に意識が戻った主人が、洞窟の奥に行ったのかもしれない。
日頃なら、倒れている従者を置いていく人柄ではないが、王命に意気込んでいたし任務失敗かと気を揉んでいたのだ。ひとりで先走ったかもしれない。
そう考えつつも、オリオはなにより、地面の痕跡が気になっていた。
主人が元気に先走ってくれていたほうがいい。
「ぐ……」
忠実な従者は、歯を食いしばって立ち上がり、腰の剣を手で無意識に触ってから奥へと向かった。
洞窟の奥へ進むほどに、壁に埋め込まれている石が赤く発光しているおかげで薄明るいことに気づいた。
(なんだこれは)
松明もないのだから明るいことは助かるが不気味だった。
見下ろせば、見えにくいが地面の痕跡はたしかにあって、ずっと長く、何かを引きずったようだ。
無意識に飲み込んだ唾の音に自分で驚いた。暑くないのに汗が出る。寒くないのに身が凍る。
(ケリー様。どこだ)
侯爵領をもつラルスランス家三男で、恵まれた容姿に実直な性格。後継に関わらない三男ゆえか鷹揚で、兄弟の中で一番可愛い性格をしていた。侯爵の縁故と、騎士一般に求められる剣術・槍術・弓術・馬術を熱心に習って近衛騎士の地位を得た。
オリオから見れば甘っちょろいところのあるお坊ちゃんにすぎないが、それがまた仕えがいのあるところだと思っていた。
(ケリー様は勇んでこの任務に赴いたが、俺はわかっていたぜ。なんかやばいってな)
王家があの手この手で繋ぎを付けようと奔走した闇神との交渉を、侯爵家出身とはいえ、まだ新人の近衛騎士ひとりに命じるのか。
『それだけ私に向いているということだろう』
懸念を話すと、ケリーはそう自分にも従者にも言い聞かせているようだった。
奥へ奥へ進みついに洞窟を出ると、平坦な赤茶色の地面が続いていた。草木はなく、赤い岩石がところどころ地面から顔を出している。
天井は夜空のような天上になっている。
(地底界にも太陽がある――あの話は本当だったんだな)
しばしオリオは茫然と地底界の空を見上げた。自然と、太陽があるからこそ、夜にはこうして夜空となることが飲み込めた。
背後を振り返ると赤黒い壁がそびえ立っている。切り立った崖なのかもしれない。左端ではこの壁が林のような黒い影に変わっていた。
周囲をぐるりと見回していたオリオは、はっと気づいて顔を正面に戻した。
灰色の石柱数本に円形の土台と屋根のある東屋のような簡易な建物があった。はじめて見る人工物だ。
洞窟内で目覚めた場所からこの出口まで四半鐘刻(十五分)以上はかかっているだろう。
そのあいだずっと探して、目を皿にして痕跡を追ってきた。その目的の人物らしき者が見えた。東屋の石床でぬらぬらした透明と白濁が混じる粘液らしきものに覆われていた。
それを主人かもしれないと、脳裏によぎったのはこの場所にいる可能性のある人族が自分と主人しかいなかったことと、服装だ。
主人の衣服を用意して着せて、鎖帷子の上に革鎧を装着するのを手伝ったのはオリオだ。
「……っ」
声も出ないまま、いまだ痺れの残る足を急がせて東屋に向かった。
石柱の灰色には、白と透明な宝石のような粒が散らしてあった。六本の柱の内、二本の側面が削れ、柱の根本に灰色の砂が固まってあった。その砂の中でも宝石が煌めいている。
倒れている人物の顔を覗き込んだ。
左側を下に横倒しになっている。しかし右の耳の形、額とこめかみからの顎の線。どれもが主人の造形だった。
頭から半透明な粘液がかかり、金髪が乱れ、束になって額に落ちていた。その前髪の下の瞼は伏せられている。
東屋の中の明かりは薄青かった。この石柱の灰色が青味がかっているからだろうか。
手を鼻の下に伸ばすと、呼吸を感じることができた。しかし顔色がわからない。
「ケリー様」
耳に顔を近づけてオリオは囁いた。
現在、地底の闇族の姿は見えない。いったい何があったかはっきりしないが、主人は倒されている。攻撃されているのだ。ここは敵地。
オリオの頭は主人をここから運び出すことだけの思考に切り替わった。
倒れている主人は鎖帷子ごと服がちぎれていた。鎖帷子の断面は左右から尋常ではない力で引っ張られたかのように欠片が変形していた。
防備を破られた薄青い明かりに照らされた青白い肌に切り傷はなかった。
だが、うっ血痕が残り、半透明な粘液には血が混じっているように見えた。命を奪うために暴力を振るわれたというよりも……
こんなふうに乱れきって倒れている男女をオリオは過去目撃したことがある。
盗賊に襲われた村の跡地、無法者たちが占領した館、貧民街の裏路地。
オリオは布巾で主人の顔から慎重に白濁の混じる半透明の粘液を除去し、鼻と口の気道を確保してから自分の上着を脱いで被せた。
「ケリー様、動かしますよ。大丈夫です、私しか知りません。大丈夫ですから」
聞こえていなくとも耳元に小さな声で語りかけ、節々の痛みを我慢して肩に担いだ。重量に目の前で火花が散った。
腹の底からの怒りを力に変えて、重い一歩を踏み出した。
第四話 籍だけの騎士
【晩秋 王都 侯爵屋敷】
王都の屋敷に戻ってからのケリーは、『闇の祠』での自失以来、快復するどころか、むしろ悪化して日々を過ごした。
一日の内で平静に受け答えができる時間は半鐘刻(三十分)あるかないか。
ケリーは気がつくと寝室の天井を見上げており、その視界の中に家族や家僕、近衛騎士の同僚、王城からの使者、医師や神官らしき衣服の者たちが時々入った。
母親は目の周囲を赤くはらして、よくケリーにすがって名を呼んでくれていた。
「ケリー……ケリー……」
片手が温かいものに包まれる。虚ろで何も期待されていない、ただ、そこにいるだけでいいというかのような、声だった。
口の中に何か入ってきていると思う時は、上半身を起こされてオリオに介助されていることが多かった。
「……オリオ……」
ごくっと嚥下して名を呼べば、オリオははっとした顔をして耳元で穏やかな声で囁く。
「おはようございます、ケリー様。すべて食べられてえらかったですよ。もう一口いかがでしょうか」
こうして優しい声をかけてくれる者は、数少ない。
錯乱した意識の中で聴覚だけが、妙に活き活きとしていた。いろんな言葉を耳から脳に運んできた。
先輩の近衛騎士たちが何人かやってきて、行儀よくしていたのは最初だけで、耳元でただぐちぐちと繰り返していた。
『任務の結果を報告せよ』
『まだ意識が朦朧としているのか、仮病ではないのか』
『これだから半人前は』
『優しい両親でうらやましいかぎりだ』
城の文官たちらしい者たちも来たようだった。
本当に来ていたのかわからない。
『従卒のオリオの証言によって『闇の祠』が開門したことは報告された』
『後日確認と地底への使者が立てられたが……。扉の開閉跡は残っていたが、また閉じられていたのだ』
『貴殿が『扉』を開けたというオリオの証言は事実と判断していいのだろうが……だが、肝心の交通ができない以上、成功とも言えない。アンシュリー卿は陛下の親書をどうされたのだろうか』
『アンシュリー卿? 陛下は、アンシュリー卿が快復次第、もう一度『祠』を訪ねてほしいとお命じなのだが……アンシュリー卿、聞こえておられるか?』
寝室の中で、ただカーテン越しに外の明るさで時間を知る。
朝か。夜か。
ああ、夜はだめだ。夜はやめてくれ。
そう思ったとたん大声が響き、扉が激しく叩かれ、最後にオリオの声がした。
荒々しい息遣いの中で、ケリー、ケリー、ケリー様と呼ぶ声が聞こえる。
『けりィ』
ぐちゃ。何かがちぎれて落ちた。
脳裏に入り込んだその会話の主は騎士でも文官でもなかった。
『アンシュリー卿……あなたは……闇神の息吹に触れられたのですか』
『地神と闇神はいにしえより諍いなどありませんが、神の御心は計り知れぬゆえ』
『護符を、聖水を……』
『お話を』
『お話を』
『どうぞお身柄を我が神殿に』
『闇神神殿の方々には控えていただきたい。卿は地神信徒ですぞ』
『卿が倒れられたのは勅命によって祠に赴いたがゆえでしょう! だとしたら我ら闇神に関連しているはずです』
『そうです、卿のあの症状も地底の風に触れたがゆえの一時的な障りでしょう』
『地上の者を地底の護符で癒せなどしない』
『すでに地神の護符でも聖水でも効果がなかったではありませんか!』
『それはそちらもご同様でしょうに!』
家の者の声がして、争う声は遠ざかっていった。
長い静かな夜。蝋燭だけを灯した寝室が見えた。
寝台脇にでもいるのか、侯爵でもある父の声が響いていた。
『私は陛下に申し上げたよ。我が息子を廃人同然にしておきながら、近衛騎士の籍まで剥奪するのですか、とね』
『おまえは地底との開通を成し遂げた。そんな体になってな。はるか昔に『扉』は閉じられ、『闇の祠』として祀られ禁忌とされたのは、おまえのような者が続出したからではないのかな』
『我が侯爵家の者をなんだと思っているのだ、王家は。使い捨てになぞなってたまるか』
『賠償金を要求した。まあ、減額を見越しての請求だ。減額の代わりおまえの近衛騎士の籍は今後何年おまえが療養しようとも残る。騎士としての年金も払われる。おまえは騎士として王家に奉仕したのだ、休むがいいさ。三男として、王家に大きな借りを作ってくれた』
『おまえの母上だけは、おまえがこうなって悲しんでいるけれどな。私はまだ快復の余地はあると思っている。おまえは小さいころから兄たちと違って妙なところで要領がよくて、思いもしないことをしでかしてきたから……きっと快復する』
*
ケリーは任務前の今年の秋まで王都の騎士寮に入寮している新人近衛騎士だった。
そして初の単独任務後三ヶ月の自宅療養を経て、籍だけ残し、侯爵の属爵である男爵領の、南部領地での療養が決まった。
それらは屋敷の寝室に籠っているうちにケリーのあずかり知らぬところで決まったことだった。
寝室から一歩も外に出られなかったケリーは父侯爵に命じられた家僕たちに布団ごと簀巻きにされると装飾のない箱型馬車に乗せられ、オリオをお供に出発していた。
「今後も経過は報せるように」
「はい、侯爵閣下」
出発前に、馬車の外で会話が聞こえた。それが最後に聞いた父の声だ。他に母や兄たちが見送っていてくれたのかどうかわからない。乗り込んできたオリオに問う気にもなれなかった。
自力で外に出ることができなかった。
「ああ……うぅ」
かろうじて出た声もこれだけ。
送り出されたのが再び開けろとせっつかれている『闇の祠』のある東北部ではなく、療養が目的の南部の男爵領というだけでも親からの温情だったと、のちになってケリーは感謝した。
第五話 怪異と討伐者
ラードリュー王国東北地方では去年の冬から怪異現象が多発している。
今年の春、東北地方の領主たちの要請によって、王国軍の騎馬隊に所属している王国騎士ブレット・エイマーズは出動となった。
各領地での治安は、基本的に領主が持つ騎士団や私兵が対処することになっているが、手に負えないとなれば王城に依頼して王国軍を派遣してもらうことになる。
ブレットは東北の地方領主の四男から王国軍に入軍して、剣の腕と実践経験を積み上げてきた騎士だ。
濃い金髪を短く刈って、四角い顔は日に焼けてそばかすが散っている。鋭い目つきの青い瞳は薄く、分厚い唇はいつもへの字に結ばれている。
今回の派遣地方に詳しいだろうと参加兵一覧に入れられた。
最終的に戦闘部隊の編制は、王国軍騎士三十人、従卒三十人、歩兵二百人、東北合同領軍七十人、輜重・兵站担当部隊六十人となった。
【春 王国東北地方】
野営地を夕日が照らしている。
春の陽気が残りまだ寒くないが、薪が多く集められていた。
「今回、王国軍にお配りする剣や武器は! 天神の神殿により祝福を授けられた武器である! ゆえに! この地方で出現しているという地底からの怪異は、この天の剣でもって討伐していただきたい。むしろ! この祝福されし剣でなくば効かぬといえましょう!」
ひとりの白い男が台に乗って気炎を上げる。
おぉ……!
整列している騎士や兵士たちから応えるように歓声が上がる。
「おい、あの男は?」
「討伐者サルバル・ドンス卿ですよ」
「とうばつ……なんだそりゃ」
馬から下りて騎士仲間たちと整列して演説を聞いていたブレットは、前にならんでいた年下の同僚に問いかけた。
「なんて言うんでしょう、天神の信仰者、信徒ですかね。爵位はお持ちじゃないですけど、伯爵のご子息ですよ。熱心な天神の信者で、今回の王国軍派遣についても神殿側から大きく働きかけてご自身も自主参加してきたらしいですよ。なんだか急に存在を主張してきた感じの人です」
「ふーむ」
なるほど、とブレットは思った。
地方領主たちからの出動依頼にしては、準備が早く、派遣人数が多く、装備や食料など、手配が潤沢だと思っていたのだ。天神神殿の梃入れがあったということなら納得がいく。
サルバル・ドンスは白っぽい金髪に、そろった前髪は短めで額が秀で、日に焼けていない真っ白の肌、白い鎧に白い外套を翻していた。年齢は二十代半ばあたりだろうか。背は高いが厚みはない。三白眼の青い目だけがギラギラしていて、まさしく狂信者じみている。
サルバルに代わって隊長が台にのぼって、軽く今後の予定を告げ、詳しくは各部隊長からの指示に従えということになり、解散した。
異変が発見されたのは三日後の夜明け。収穫の終わった畑を抜けた、岩山の裾野である荒原だった。斥候が放たれ、情報が集められて幹部たちの作戦会議中に、
「闇神様の眷属の可能性がある。使者を出すべきではないか」
「まずはお怒りを鎮めることが大切」
だと従軍している地上神殿の神官が助言をした。
地底の怪異は闇神の眷属だろうという、だとするとその元凶は地底蚯蚓や、地底土竜が過去の文献にあるため推察ができるのだとか。
神官の使者を通して怒りを鎮めることができるなら……という風向きをぶった切り、即座の殲滅! 討伐! と叫んだのは例のサルバル・ドンスであったらしい。
彼の苛烈なまでの攻勢すべきという意見をだれも覆せず、朝日が昇ってから『闇を断つ』という作戦が実戦されることになった。
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