前々世から決めていた 今世では花嫁が男だったけど全然気にしない

みやしろちうこ

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1巻

1-3

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 夜更けに作戦案が部隊長から説明され、慌ただしく支度が整えられる中、ブレットはまた同僚たちに作戦会議の最中の話を聞いていた。
 闇の深い時刻に、サルバルの闇神の眷属に対しての強い殺意を聞いて、背筋がぞくぞくした。

(なんなんだ、あの野郎)

 天神はそんなに闇神を毛嫌いしているというのか。
 むしろ天神は鷹揚で無関心ではなかったか。
 今回の作戦、自分の意図する方向へ導いていこうとする姿勢があからさますぎて、ブレットにはサルバルに対して嫌悪感しか湧かなかった。
 その方向へいいように走らされている幹部たちに対しても同様に。


 生臭いのに、どこか花の蜜のような匂いがしていた。
 しかしその匂いも、土を掘り起こした時の湿った匂いが覆い尽くしていく。
 夜明けと共に号令が発せられた。

「前方百歩に異常あり!」
「歩兵、槍を投擲とうてきせよ」
「投擲!」
「命中」
「前方右三十歩!」
「接敵ぃぃぃ!」

 最初に震動がきた。石橋が大風できしむようなありえない音が王国軍の耳を揺らした。


 ……ンギ、ゴゴ、ギィィィィ……!


 しばらくブレットは何も聞こえなかった。視界は広がっている。夜明けの薄明るい光源でも彼の青い瞳にはよく見える。
 無音の世界で地中から土砂を隆起させた蚯蚓のようなそれは、大人四人が輪になったほどの太さがあった。その毛皮のない地中生物は天神の祝福を受けた武器で傷つけられ、赤黒い体液を飛ばした。生臭い匂いが非常に現実的で口内が苦くなる。
 身悶えする地中生物は、その場で激しく身をくねらせ、逃げ遅れた兵士を六人弾き飛ばした。

「……ぁぁわあぁぁぁー……!」

 ブレットの聴力が戻ってきた。
 またがっていた馬を制御して、地中から地面へ、這うように転がり出てきた岩石を跳び越えた。はぁはぁと自身の呼吸音が聞こえる。馬の鼻息も荒い。鎧の中が暑く、末端は冷えて寒いほどだった。

「うおりゃぁッ!」

 蚯蚓のような胴体の下を駆け、片手剣を突き上げて砂埃と体液の雨の中を走り抜けていく。


 ギィィィィ……!


 また耳が音を拾えなくなった。兵士への命令を知らせる笛や鐘の音も聞こえない。顔を巡らせば旗の指示は『攻撃』のままだ。
 視界はどんどん光源を得て明瞭となってきた。
 巨大地中生物に対峙たいじしているのは、戦闘前にそろっていた王国軍騎馬三十、従卒三十、歩兵二百、合同領軍七十人から、すでに武器を失ったり、倒れ伏している者も多い。
 ブレットは必死で、撤退の鐘が鳴らないかと耳を澄ませた。左右を見れば、自分ののろまだが頑丈な従卒がちゃんと付いてきている姿が見えた。
 微かに口端に笑みを浮かべ、背中に冷や汗を流す。
 騎馬は長時間の戦闘に向かない。
 一度走れば円を描くようにして接敵して一撃、離脱を繰り返す。
 巨大な敵から一旦離れると、地中生物が隆起させた地面は幅四十歩から七十歩はあるように見えた。

(やはり、蚯蚓か!?)

 ブレットは畑を耕す手の平大の蚯蚓しか知らない。
 離れた位置にいる神官たちが何かを唱えている切れ切れの声が聞こえる。ド、ド、ド、ドと走る蹄の音とブレットの肢体を上下させる躍動が馬体から伝わってくる。
 巨大生物の目も鼻もわからない萎んだ野菜みたいな先端が、方向転換をしようとしている。
 その岩石ほどある頭が避けようとしている先に白い形があった。サルバル・ドンスだ。白い鎧に白い外套の、人を煽る信徒野郎だ。
 なんとこんな前線で神官ふたりがサルバル・ドンスの背後にぴったりくっついている。一人前いちにんまえに槍を構えていた。
 神殿にも私兵がいるから、その手のやつらなのかもしれない。
 強烈な光。

「ぎゃぁ……!」
「ぐあ!」
「目が」

 周囲にいた騎士や従卒たちの声が響く。
 ブレット自身もいつの間にか痛みに叫んでいた。なんとか手綱を握ったままでいるが、馬も激しく体を跳ねさせ身悶えしている。ブレットは必死に馬上で体を丸めた。同じように狂乱している仲間の武器を事故で受けないためだ。
 脳裏ではひたすら神に祈った。神よ神よ我を守りたまえ。

「どうどう、どうどう」

 跳ねる馬に声をかけ、首筋を撫でてやる。その状態で運ばれるまま移動し、なんとか馬が落ち着いてきたのがわかる。そのあいだも馬越しに震動が伝わってくる。

「どうどう、どうどう」

 馬の耳に向かってひたすら声をかける。ブレット以外の喧噪けんそうも聞き取ろうと耳を澄ませる。状況を知りたい。
 目より先に耳が回復し、そのあと『帰還』の鐘が聞き取れた。まるで負け戦のように兵士たちがぽつぽつと帰っていく。怪我した仲間に肩を貸して歩く背中は敗残兵そのものだった。
 ブレットは内心舌打ちした。
 午前中の戦いは終わった。
 あんな巨大な生物を撤退させたことが信じられない。
 耳も目もひたすら痛めつけられた気がする。
 けっして王国軍は負けていない。しかし決定打はあの白い男――サルバル・ドンスが放った何かだったのだろうということぐらいは、しぶしぶ受け入れていた。


「貴卿たちよ、あれらの敵は地底の眷属。眷属は例えていえば神の寝返り。指先の遊び。ほんのささいな仕草にすぎない。このあとは闇族の影が放たれる。人型の影に触れると短い死を夢見るだろう」

 サルバル・ドンスは、戦闘の合間の休憩時にまた演説していた。
 彼の背後には天神神殿の神官がふたり立っており、囲いのあるランプを下げている。
 薄い葡萄酒を飲んでいたブレットは、今度はいったい何を言い出しやがった!? と声の主に目をやった。

「あのお方は預言者か……!?」

 近くで地面に直接座って葡萄酒を瓶からあおっていた同僚がぽろっと言う。
 たしかに事前に配られた武器はあの巨大生物に効いて、一時撤退させることができた。しかし、第二波が同じ生物ではなく、人型の影だというのだ。

(あいつは天神神殿の関係者なんだろ。だったら神殿の歴史書にでも書いてあったんだろ)

 そうでなければ、預言者がこんな若い優男やさおとこだなんて認められない。


 次の日は朝日が昇ってきてからサルバルが言った通りに、人型の影が地面から生えるように十体出現した。巨大生物より脅威を感じることはなかった。昨日の戦闘でブレットたちの感覚は麻痺してしまっていたのだろう。それでもブレットは慎重に対処した。初撃は控え、周りの様子をまず見たのだ。
 そこからは昨日と同じように天神に祝福された武器で騎士と兵士たちが立ち向かう。

「たぁ!」
「おらぁ!」

 武器越しにやたら手足の長い黒いゆらゆらに触れたとたん、槍を突き入れた歩兵が、体をのけぞらせながらびくんと震わせ、深呼吸を五回するくらい固まってゆっくりと倒れていく。
 人型の影に厚みはなく、足下に影もない。
 人型に切り抜いた黒い紙人形のようだった。

「死んだのか!?」
「息はある!」
「後ろへ連れてけ!」

 歩兵ふたりが倒れた仲間を両脇からつかんで引きずっていく。
 そんな歩兵が午前中に続出した。

「ぎゃあああ」

 ある歩兵は人型の影に突き刺した武器を手放して頭を抱えて絶叫した。

(なんだありゃあ!?)

 今日の敵は絶対的な物量の差ではないらしい。
 歩兵たちが攻撃を躊躇すると、影たちから近づいてきて手を伸ばしてくる。避けそこなって触れられた歩兵は、武器で攻撃した者同様に硬直してから倒れるか、絶叫して倒れた。

(こりゃ、安易に攻撃できねえぞ)

 馬の進路を敵から逸らし回避していく。兜越しに聞こえてくる風の音はびゅうびゅうと鈍く響く。
 前方を走っていた同僚が影に槍を突いて、ゆっくりと後方へ飛んでいった。

(馬鹿が!)

 落馬した同僚を踏まないよう避ける。馬の脚が乱れ、馬蹄音が不揃いになる。

(ちくしょう、また神官どもの手がなきゃ無理なのかよ、あのドンス野郎がしゃしゃり出てくるってわけか)

 この戦い、神殿の縁故関係のある者でなければ名を挙げられないというわけだ。
 事実、神官たちの祈祷の合唱と、サルバル・ドンスの攻撃によって三十体に増えていた人型の影たちが後退していく。
 ブレットはふいに意識が途絶えた。
 それは短い死であった。
 ほんの瞬きのあいだに阿鼻叫喚あびきょうかんを全身に浴びた。
 幼いころに神殿学校で学んだ、神に見放された世界に突き落とされたかのようだった。
 ブレットが気づくとその日の午後になっていた。人型の影は午前中に後退して地面の影に返ってから、午後は出現していないという。今日の死人はなし。怪我人は複数いるが、昨日ほどではない。
 ひとまずブレットは自分が死なずにすんだことに安堵した。
 自分も馬も従卒も無事だった。自分の財産は守られた。
 ただ、あの短い死を経験した者たちは青白い顔をして、中には怖気づいてしまう者も出た。

「俺はもう嫌だ。あの影の中には死人がいるんだ。やつらが俺ら生者を引きずり込もうとしてきやがるんだ。俺は近づきたくねえ」

 ブレットだってそうしたい。
 しかし騎士という地位にある以上、見栄があった。
 寝かされていた天幕の外であのいまいましい年下の狂信者が、ひとり元気よくまた気炎を上げている。

(うるせえ)

 神殿に梃入れされた年下の男が自分より活躍し、重要人物になっていく姿を見せつけられるのはひたすらむかむかした。
 致命的な死傷者数こそ出さなかった。地中生物も人型の影も、倒せはしないけれど後退させることはできる。以上のことから、前線の拠点造りをして防衛線を構築することになり、この遠征は長期化していった。



   幕間 オリオの後始末


【晩秋 闇の祠 地上世界】
 あの日のオリオの働きは万金に値しただろう。
 再び赤く光る洞窟をさかのぼり、気を失っている重くて、ぬるぬると滑る主人を担いだまま、永遠かと思えるほどに長く感じた地底から地上の道を帰っていった。
『扉』は閉じられておらず、どちらの世界からの風かわからないまま、白髪の多くなった髪が揺れた。
 洞窟から出ると地上の世界では星が沈み、東の地平線が薄っすら見える時刻だった。
 晩秋であるこの季節、もっとも冷え込む時間帯である。

(なるべくここから離れたいが……)

 洞窟内から吹き飛ばされた野営の道具類が入口付近に転がっていた。二頭の馬も繋がれたままだった。人間の気配に気づいて鼻息を荒くし、いなないた。
 オリオは冷たい汗をびっしょりかきながら、乱れた息で馬に近づこうとし、やや考えて洞窟の入口から死角になる樹木の陰に主人を下ろした。
 ケリーの口から声とも息ともつかぬ音が発せられたようだが、意味をなしていない。
 オリオは飛び散っている荷物を集めにいった。
 視線を這わせ、そこではじめて薄明かりの中で地面から落ち葉が消えていることに気づく。

(どれほどの風がこの地でとどろいたのか。騒音を聞きつけてだれか来るだろうか)

 来るとしても日が昇ってから、近辺の小作人たちが様子を見に来るくらいだろう。
 こちらが騎士で貴族だと知れば、深入りは避けるはずだ。
 意固地に探ってくるようであれば、いくらかつかませてもいいし、口を開けぬようにしてもいい。
 思案しつつオリオは毛布の上にケリーを移動し、改めて身体をできる限り清拭した。うっ血している肌には傷薬用軟膏なんこうを塗り、新しい衣類に着替えさせる。破れた鎖帷子は袋に詰め、革鎧も専用の鞄に保管する。鞘ごと剣も回収した。
 二頭の馬たちを世話してなだめる。
 そこまでして、視界がだんだん明るくなっていることに気づいて顔を上げた。
 薄明かりが天上から枝の隙間を縫って斜めに差し込んできている。まだ光に力はないが、オリオの青い瞳には賜物のように映った。
 今回地底に恨みが残った。それと比べて地上を照らす太陽からの恵みはどうだろう。
 オリオは人族としてもちろん地上の地神を信仰している。
 しかし今朝はいつになく、天上に住まう天神に感謝を捧げたくなった。地神神殿の神官によると、太陽と天神は同一ではないらしいがよくわからない。

「……あぁ……!?」

 小さな叫び声が聞こえて、オリオはすぐに声の方向に走った。
 ケリーは四つん這いになって、寝かせていた樹木の根本から離れようとしていた。だが、四肢に力が入らないのか、すぐに崩れ伏してしまっていた。

「ケリー様、オリオです……! ここは洞窟の外です。地上です」

 オリオはそばに膝をついて、小声で呼びかけた。混乱状態の騎士にうかつに触れてはいけない。武器を握っていなくとも体術がある。

「お、オリオ。ちじょう……ここは、やつは、あれは」

 肘をついてなんとか顔を上げたケリーは青白く憔悴しょうすいした顔をしていた。明朗で真面目な二十歳の近衛騎士が、一晩でげっそりと変貌していた。
 ふわふわして輝くようだった金髪さえ、どこか白っぽくなり、眼窩がんかは落ちくぼみ、青い輝く瞳は灰色がかって見えた。
 着替えさせていたときには気づかなかった主人のやつれ具合に、オリオは胸を突かれた。

(俺の責任だ)

 従者として、侯爵から世話を任された者として、この任務の唯一の同行者として、とっさにそう感じた。

「地上です。まずは、そうですね……森から出て川沿いに……動けますか」

 ケリーは震えながら両肘をついて上体を起こし、肩を上下させながら息をしていた。灰色がかって見える目がきょときょと落ち着かない。戦闘後の狂った兵士みたいに、弱っているのに錯乱している。

「水を飲みますか。馬に乗れそうですか」

 どの単語がケリーの心に届くのかわからず、選択肢を挙げていく。

「み、みず……っ」

 野営場所に残していた水の瓶から木製の杯に注いで渡す。

「水です」

 顎を濡らしながら杯半分を飲んだケリーは、地面に両手をついてぜーぜーとさらに荒い息をついた。袖でぐっと口を拭う。

「う、馬だ。は、はな、ここを、はな、離れたい……。すぐに、離れたい」

 いまだ息を乱しながらも、はっきりと要求する。

「わかりました、ケリー様。触りますよ? 肩を貸して立たせます。私はオリオです」
「オリオ……」

 ゆっくり肩に触れた。
 上腕をつかみ、上半身を起こす。白いシャツに水を零したケリーが、ふらふらと顔を上げる。

「オリオ?」

 やっと目と目が合った。
 洞窟内で何があったか詳細が知りたくもあったが、ここでは問わない。

「はい、オリオです。ここを離れましょう。馬に乗れますか」

 本人はうなずいたが、肩を貸して立たせ、主人の馬に騎乗させたものの、そうとう危なっかしいものとなった。真っ直ぐに座っていられない。前に後ろにとふらふらしている。

(やっぱりこの地の領主に助けを求めたほうがいいか? でもな、ヤドン子爵は下種げすの類だ。このケリー様の状態を知られたら、とんでもない借りを作ることになる)

 オリオは森の中の道を進み、しばらくして二頭の馬を止めてケリーを一旦下ろし、馬に載せていた荷物を移動させた。
 主人の馬にふたり乗りして、自分の馬には荷物持ちをさせるのだ。
 その作業を木の根元に座って見ていただけのケリーに、何か食べるか尋ねると首を横に振ったので、再び水を注いだ杯を渡した。オリオ自身は干し肉をかじりながら作業をした。


『闇の祠』のある陰鬱な森を抜けたころには夕刻になっていた。
 川辺の木に天幕を斜めに張って寝床を設営する。水筒と鍋に水を入れ、ケリーが石を配置させたかまどに鍋を載せる。
 ふたりしてのろのろと集めた枯れ木を竈にくべていく。
 この森の周囲にはごくたまに黒い狼の群れが出るらしい。
 ふたりが万全の状態であれば狼の群れにも対処できるが、現状、疲労困憊ひろうこんぱいだった。
 オリオは落ちくぼんでいる目をこすり、乾燥野菜と乾燥茸を入れた麦のスープを作った。ケリーは天幕の下で毛布にくるまって寝ている。
 見張りを交替とかつぶやいていたが、ケリーに任せるくらいなら自分がうとうとしながら警戒していたほうが安全だろうとオリオは思った。
 どろどろに煮込み、冷ましたスープをケリーに飲ませた。起こしたくなかったが、腹に何か入れておかないと快復が遅くなる。半覚醒の主人に飲食させるにはこつがいる。
 オリオは自分の胸にケリーの背中をもたれさせ、木製の器を口元まで持っていった。声をかけ、飲み込む間隔を空けて器を傾ける。
 九割摂取させて器を地面に置く。

「では、交替の時間になったら起こしますから、ゆっくり寝てください」
「ああ、起こせ……」

 そう言うと、目をしょぼつかせたケリーは大きな息を吐いて再び毛布を被った。
 オリオは焚火のそばに戻り、自分の食事を終え、急激に襲ってくる眠気と戦いながら火を絶やさず夜通し見張りをこなした。一晩寝ないくらいで人は死なない。

(朝、ケリー様の体調が今よりよければ湯で体を拭いてもらおうか。それから出発しても、明日中にはこの領地から出られるだろう。キカント領まで行けば宿に泊まれる)

 そんな算段をしながらパチパチと弾ける焚火の音や晩秋の虫の音を聞くともなしに聞いていたオリオは、はっと意識を戻した。

「――……めろ……ぉ、お、……ぐぇ、ぁ……あぁ」

 声のほうを向くと、毛布の塊が動いている。顔を下にしてケリーは拳を握り、両足でにじり、敷いている毛布からはみ出そうとしていた。
 苦悶の声はくぐもり、がくがくと上半身が上下したかと思うと、急に前進して落ち葉の中に吐いた。
 苦し気な吐しゃの音がやがて止まると、オリオは杯に注いだ水を持って立ち上がった。

「オリオです」

 そう名乗って、足音をわざと立て、三歩近づく。
 うなされて目覚めたばかりの騎士や兵士に予告なく接近、接触するのも、これまた危険な行為だ。こういう場合も先例通り、戦闘技を日々修練している者たちが無意識に攻撃してくる可能性が高い。

「ケリー様、お水です。口をゆすぎませんか」

 だんだん荒い呼吸が治まってきたようで、こちらを振り返らず、ケリーが問いかけてきた。

「オリ、オ……?」

 寝床から這い出し、焚火の明かりからは、足底と金髪の頭しか見えていない。

「はい、オリオです。口の中、苦いでしょう。お水、ありますよ。動けますか」
「はぁ、ああ、水、ああ、水か。うん、ほしい、ああ、ここ……地上か?」
「地上です。これから王都へ帰還する途中で、野営しております。お水、そちらまでお持ちしましょうか」
「いや、待て、いま、起きる」

 のろのろとしたケリーの口元を拭き、水でうがいをさせ、冷や汗まみれの体を湯で拭いて、オリオは一連の世話を忍耐強くこなした。
 二十歳ではなく、まだ七歳くらいの子供の面倒をみている気分だった。
 結局、ケリーの眠りは浅く、オリオと同じようにうとうとしてははっとして目覚めるということを繰り返しながら朝を待った。
 朝食の野菜スープも、ケリーは器の半分しか受け付けなかった。
 その様子を見て、オリオは今日も一頭でふたり乗りし、もう一頭に荷物を載せることにした。
 そのうち食欲が戻るかと思われたケリーだったが、宿の食事も、王都に帰還して屋敷で用意された食事もほとんど食べられずじまいだった。
 ケリーの食欲不振や不眠、せん妄を起こす症状はよくなるどころか悪化していく。
 任務を果たせず、騎士としての体を維持できない。それが近衛騎士としていかに致命的だったか。そんな状態のケリーであったが、主人を生存させて戻ったオリオに、侯爵夫人だけはこっそりと部屋に呼んで感謝を伝えてきた。オリオはその後も主人の従者としてどこまでも従っていった。




 第二章 国王の相談役


   第六話 八年後の王都の噂


【初夏 アンシュリー男爵領】
 ケリーは王国南部にある男爵領での療養を続けていた。
 地元の農家が届けてくる小麦粉による、できたての輪投げパン、丸パン、棒パン、白パンなどが毎朝寝室まで運ばれてくる。
 新鮮な野菜。摘みたての果物。搾りたての牛乳がケリーの眼前にならぶ。
 茫然としていたケリーの青い瞳は、じょじょに大地からの恵みに向けられるようになっていった。
 夜が怖いのはいまも変わらない。
 医師の往診、薬師の薬湯、気持ちを落ち着ける香りに、夜通し明かりをつけ、寝室にだれかがいなければ眠ることができないままではあった。
 それでも八年もの時を経て、食事量が増え、眠れる時間が延びたことでケリーの若い肉体は精神とともに快復してきた。

「おはようございます、ケリー様。よくお眠りでしたよ。今朝はお庭の見える露台で朝食をいかがでしょうか」

 不寝番ふしんばんだったガイに替わって、オリオが朝の挨拶に二階の寝室を訪れた。

「……ああ、おはよう。そうだな。……なんだか、すっきりしている」

 午前中の清々すがすがしい空気が窓から入ってくる。揺れる白いカーテンを眺めながらケリーは上体を起こし、寝間着を脱いだ。
 灰色のズボンに白いシャツ。黄土色の厚みのあるカーデガンを羽織って、ケリーは二階の露台から庭を見渡した。
 丘に建てられた男爵領主館からは、街が一望できる。
 大きな街ではない。畑のほうが広いし、林と森、遠くに山、青空が広がるばかりの田舎である。
 しかしそれがよかった。
 ケリーの四肢を拘束してちぎり取るような地底の怪異とはまるきり縁のない風景。
 地上の神の恵み深き大地と、地上の神の友たる天上の神による日の光。
 輪投げパンは、中央に穴の空いた形のパンで、どっしりもちもちとした食感がある。甘さはなく、領地の特産物であるベリー系の豊富なジャムや、チーズクリームなどを好みで塗る。
 殻を剥いたゆで卵はつるつるで、ナイフで半分に切ると、黄身と白身が目に鮮やかだ。
 ケリーはそっとその半分を齧った。
 このところずっと食事が美味しい。
 パンを焼く匂いを嗅ぐと、唾液が湧いてくる。いままで自分の中にあるはずなのに見つからなかった食欲がようやく見つかったかというほど、空腹を感じる。


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