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婚約破棄?私が仕込んだんですけどね?鉱毒まみれの廃坑で震えて眠りなさい
しおりを挟む「ベアトリクス・バレンタイン!貴様との婚約を、今日この場で破棄する!」
ブライト侯爵家が主催する夜会。
カイル・ブライトの傲岸な声がシャンデリアの光を揺らし、華やかなドレスを纏った貴族たちの視線を集める。
カイルが、宝石で飾り立てられた指で、私を指さす。豪奢で空虚な色とりどりの煌めき。
あまりに大仰に胸を張るので、きらびやかな金刺繍のジャケットがはちきれそうだ。
私は、手にしていた黒い扇をゆっくりと閉じる。
背すじを駆け上がる歓喜を表に出さぬように。
私が仕込んだ通りの婚約破棄。
今まで何一つ、好ましく思えるところのなかったあなただけど、この一瞬だけは、その底抜けの愚かしさが愛しい。
用意した言葉を丁寧に紡ぐ。
「こんな場で、一方的に婚約破棄……ですか?婚約契約の書面はどうなさいますの?」
私の声が、沈黙の広間に澄んで響きわたる。
カイルが声を荒げる。
「不要だ!ここにいる貴族の皆様が証人だ。本日は司教様もいらっしゃる。不出来な女との縁を切るには十分すぎるだろう!」
突然名を挙げられた壁際の老司教が、当惑して目を丸くする。
(司教様も驚くわよね。こんなことになるのでは)
人の良さそうな司教を見やり、もう一度問いを重ねる。
「カイル……婚約は家同士の契約です。貴方のお父様……ダミアン・ブライト侯爵閣下は、ご了承されているのですか?」
「当然だ!父上も、お前のように可愛げのない女より、リリィ・アシュレイ公爵令嬢との縁談を喜んでおられる!」
カイルの背後から、華やかなプラチナブロンドの少女、リリィが寄り添うように現れた。その傍らには、リリィの兄にして、若き公爵ヴィンセント・アシュレイ。彼はその平静な瞳で、この混乱を見つめている。
舞台はすべて整えられた。
私は扇を僅かに開きなおし、口元を隠し、確認を重ねる。
「では、改めて。これにて婚約破棄は正式に成立したということでよろしいですね?」
「その通りだ!二度と俺の前に現れるな!」
「わかりました。せめて、なぜ婚約破棄をするのか、その『理由』を伺っても?」
私の了承を見て、カイルはここぞとばかりに私の悪事をあげつらい始める。
「身に覚えがないとは言わせんぞ!貴様がリリィに対して行ってきた数々の嫌がらせ!悪意ある噂話を流し、彼女を孤立させ、挙句の果てには階段から突き落とそうとしたそうじゃないか!嫉妬に狂った醜い女め!」
広間にざわめきがさざなみのように広がる。
その不穏さをかき分けるように、ヒールを鳴らして歩み寄る。
胸を張るカイルと可愛らしく寄り添うリリィ・アシュレイ公爵令嬢のふたりの前に立つ。
私は優しい声で、リリィに問うた。
「リリィ?私はそのように愚かしいことをしましたでしょうか?」
「ハッ!白々しい!リリィを脅そうとしても無駄だ!お前の悪事は――」
カイルの反論を遮ったのは、他ならぬリリィ・アシュレイ嬢だった。
「いいえ……そのようなことは一度もございませんわ。カイル様は、私がお話ししたことを悪く受け止めてしまったようです。ご迷惑をおかけして申し訳ございません、ベアトリクスお姉様」
――ベアトリクスお姉様
親愛の情がたっぷりと込められたその呼び声に、カイルの自信満々の笑みが凍りついた。
「何を言っているんだ?リリィ!お前はあれほど、ベアトリクスが怖いと……!」
「とんでもございません。ベアトリクスお姉様は、未熟な私を厳しく導いてくださる、尊敬すべきお方ですわ」
声色こそ可憐な響きだが、言葉には真実を感じさせる確かな芯があった。
思いがけない展開に会場のざわつきが一段大きくなる。
どよめきに負けないように、私はわずかに声を張る。
「ずいぶんとお話が食い違っているようですが……いずれにせよ、私は何の咎もなく、天秤にかけられていたようですね……カイル様は、格が上のアシュレイ公爵家に目移りがした……ということでしょうか?」
「リ……リリィ!何を言っているんだ!?お前は私のことを愛していると……!」
動揺したカイルがリリィの手を取ろうとするが、彼女は蝶のようにひらりと身をかわし、カイルの手が空を切る。うるんだ上目遣いで、リリィは答える。
「……カイル様。貴方の面子を潰すわけにはいかないと思い、お話をお聞きしておりましたが……大好きなベアトリクスお姉様を陥れてまで結婚したいなんて、一度も申し上げたことはありませんわ」
「違うだろう!リリィ!ベアトリクスは君を……!」
混乱するカイルの言を絶つように、リリィは拒絶の言葉を告げる。
「カイル様が、敬愛するベアトリクスお姉様を傷つけるような方ですと、わたくしも考え直さなくてはなりませんわ……」
伏し目がちに潤む目は、乙女の堅牢な盾。カイルはなすすべもなく、池の魚のようにパクパクと口を動かすだけだった。
「な……っ……あ……いや……」
「カイル様、申し訳ございません。カイル様のお気持ちに応えることはできません」
か弱いながらも、はっきりとした拒絶を受けて、カイルはアシュレイ公爵に助けを求める。
「アシュレイ公爵!婚約には貴方も同意したのでは?!鉱山の割譲契約も結婚を前提に済ませたはずだ!」
それまで氷像のように沈黙していたアシュレイ公爵が、一歩前へ出た。
とぎすまされた刃のような青い瞳の視線だけで、周囲の空気が張り詰める。
「……おっしゃるとおり、割譲契約は署名済みですが……婚約は別でしょう。私は家長ではあるが、兄として妹の意向を尊重したい」
侯爵の答えは、どこまでも平静だった。けれど、その答えの後、ヴィンセントの視線が、一瞬だけ私を捉えた。その瞳の奥に、密やかな熱が確かにあった。
私は、呆然と立ち尽くすカイルの前に歩み出た。床を打つヒールの音に、広間の緊張が高まる。
広間の中央で背筋を正して立ち、広げた扇を胸元に当て、皆に聞こえるように宣言する。
「私、ベアトリクス・バレンタインは、ブライト侯爵家が長子カイル・ブライト様より言い渡されました婚約破棄、謹んで承りたく存じます」
決然と響く声に、人々の嘆息が広がる。
聴衆は、突然の無礼で一方的な婚約破棄に見事に応えたことに、感心しているかのようだった。
だが、私にとって大事な瞬間はこれからだ。
私はゆっくりとカイルに歩み寄る。獲物を狙う獅子のように堂々と。プラチナブロンドの夜会巻きをまとめあげた銀のかんざしが冷酷な牙のように光る。
カイルの困惑した瞳に、私の黒い扇が揺れて映る。
そして、淑女らしく、緋色の唇を隠しつつ、甘い毒の囁きを、彼の耳元に落とす。
「残念でしたわね。この婚約破棄、すべて私が仕込ませていただきました」
「……え?」
カイルの思考が完全に凍りつく。
傲岸な表情は消え去り、ひきつった顔をしているが、それでも、この男は何も理解していない。この婚約破棄の舞台こそが、私が丁寧に用意した処刑の場であることに。
私が十三歳の夏、私とカイルの婚約が決まった。
新興のブライト子爵家が持つ物流の覇権と、彼らが金では買えぬ我がバレンタイン侯爵家の伝統の取引。
自らの婚姻が、政治的商談であることに、不満はなかった。貴族の結婚とはそういうものだ。
けれど、初めて対面したカイルが私に放った言葉は、私の幼いながらの決意を曇らせるには十分だった。
「ふん、俺の妻となるにはマシな見た目だ。俺を退屈させないようにな」
年下の十二歳の少年とも思えない、傲慢な視線。
こんな男が自分の婚約者であるとは思いたくなかった。
とはいえまだお互い子供。成長する可能性はある。
自分に言い聞かせつづけたその言葉は常に裏切られ続けてきた。
私が学園の卒業を間近に控えた十八の冬、ダミアン・ブライト卿は、その辣腕でついに侯爵の地位を手に入れた。その一方で、カイルの驕慢さはその富と比例するように肥大していた。その放蕩ぶりは目に余るものだった。
「カイル様。貴方の名義で、用途不明の支払いがいくつかございます。ご説明を」
ブライト邸の一室で、書類を手に、静かに問いかけた。カイルはお行儀悪くソファでふんぞり返り、泥のついた靴を黒檀のテーブルに乗せている。
「おいおい、また数字の話か?ベアトリクス、お前は本当に可愛げがないな」
この男は私の苦言にまるで耳を貸さない。それこそ虫の羽音程度にしか感じていないだろう。
「女の仕事は、上等なドレスに身を包み、愛らしく刺繍に励み、茶会で無害な噂話に花を咲かせることだろう?家政のマネごとをすることじゃない」
カイルはふんぞり返ったまま、苛立ったように足を組み替える。
「……私は貴方の将来の伴侶として、当然の務めを果たそうとしているだけです」
「伴侶?勘違いするな」
カイルは鼻で笑い、私を指差した。
「お前は俺の所有物に過ぎない。俺の輝かしい経歴を彩る一輪の花だ。花は黙って美しく咲け」
あきれて言葉も出ない。どうしてこれほどまでに他者を軽んじられるのだろうか。
「大体だな。俺の才覚をもってすれば、事業なんていくらでも伸ばせる。見ろ、これこそが俺の商才だ」
指にはめられた不自然なほど大きく赤い宝石の指輪を私に見せつける。
「これを見ろ。俺の特別なつてで入手した、幻の『ベルドラの薔薇』だ。こんな大きなルビー見たこともないだろう。これ一つで城が買える」
まず間違いなく、ルビーではなく、ただのガラス玉だ。大方、怪しい宝石商に丸めこまれたのだろう。そもそもべルドラ鉱山は――いや、細かいことを言っても理解すまい――目を伏せて、単刀直入に告げる。
「カイル様。そのような大きなルビーはございません。おそらく偽物だと思います。鑑定はされましたか?もし偽物であれば、我が家の信用に関わる大損失ですわ」
カイルは、これみよがしにため息をつく。
「お前は数字ばかり追いかけて、美を愛でる心というものがない。審美の心があれば、おのずと真偽などわかるものさ。まぁ、可愛げのないお前には無理な話か」
うっとりと赤いガラクタを眺め、悦に入る愚かな男 。その歪で軽薄な笑顔を見つめているうちに、私の心の中で、何かが冷たく弾けた。
――ああ、もう我慢ならない。
この男は、穀物蔵に巣食うネズミだ。
ブライト家の財産もバレンタイン家の伝統も、私の人生も、この底なしの愚かさに汚され、食われてしまう。
「分かりましたわ、カイル様。貴方の類まれなる商才には、心から敬服いたしました」
私はわざと心にもないことを言って、立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
口に浮かぶ決意を隠すために。
この男を速やかに、そして確実に私の未来から取り除かなければならない。
助力が必要だった。自邸へ戻り、旧知の先輩へと手紙を書いた。ヴィンセント・グラン・アシュレイ公爵。若くして家督を継いだアシュレイ公爵は、学園の先輩で、私が知る、最も賢く、権力のある人物だ。
アシュレイ公爵家の執務室。ヴィンセント・グラン・アシュレイは、書類の山から見覚えのある紋章を見つけると、すぐさま手に取った。
バレンタイン侯爵家の紋章が刻まれた深紅の封蝋だ。白い布紙に記された流麗で迷いのない筆跡。
差出人の名は、ベアトリクス・バレンタイン。
(卒業以来、彼女から連絡が来たのは初めて……社交の誘いか……あるいは……)
期待と不安に手を震わせながら、紅い蠟をパキリと割る。
中から現れた手紙に目を通すにつれ、彼は眉間にしわを寄せ、低くうなった。
「ヴィンセントお兄様?珍しく険しいお顔……何か良くない知らせでも?」
妹リリィが扉の隙間から覗き込んで、おずおずと問う。
「……リリィか。ベアトリクス・バレンタイン嬢から、助力を乞う手紙が届いた」
「まぁ!あのお姉様が、他人に助けを求めるなんて!」
学園でベアトリクスを実の姉のように慕うリリィは瞳を輝かせながら、執務机に近づく。
「カイル・ブライトとの婚約を……完全に断ち切りたいそうだ」
ヴィンセントは窓の向こうの暗い雲を見やり、苦々しく言葉を吐き捨てた。
「あのお方ですか……社交界でも評判がよろしくない方ですね……」
「そうだ。両家の事情で二人は許嫁だった」
「リリィはベアトリクスお姉様のためなら、何でもいたします。お兄様。どうかお姉さまに最大限の助力をお願いします」
リリィは可憐な瞳で、決然と言い放った。
「言われるまでもない。ベアトリクスがあの馬鹿息子に縛り付けられているのは、私も腹に据えかねていた」
ヴィンセントがペンを強く握りしめる。ペンが軋む音に、リリィは思わず息を呑んだ。
(お兄様が、こんなにも感情を露わにされるなんて……)
窓の外では、暗い雲が波打ちはじめていた。
大理石の床に引かれた深紅の絨毯。
その緋色の上で、カイルは舞台に取り残された人形のように立ち尽くす。
私の「全ては仕組まれていた」という言葉に、呆然として、声も出せていない。
広場の面々に聞こえるように、声を張る。
「カイル様。何やらアシュレイ家と密約があったようですわね?」
カイルはようやく反応し、顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「だっ……黙れ!ベアトリクス!これは密約じゃない!アシュレイ公爵家は婚約の持参金代わりに『ベルドラ鉱山』を我が家に割譲する!これは俺の、俺だけの功績だ!」
「あら?あの、ベルドラ鉱山を、ですか?」
私はわざとらしく扇で口元を覆った。
カイルは不気味に光る大粒の毒々しい赤い宝石を抱いた指輪を見せびらかす。
「そうだ!無知なお前でも知っているだろう!『ベルドラの薔薇』を産出した名門鉱山そのものをだ!俺はそれを俺の才覚で手に入れた。もはやバレンタイン家の助力など必要ない!」
私は冷ややかに見つめ、淡々と問いかけた。
「カイル様、失礼ですが、ベルドラ鉱山へ実際に足を運ばれたことはあって?」
「は?あるわけがないだろう!」
「左様でございますか。ベルドラ鉱山は、疾うの昔に廃坑になっています。現在は周囲に鉱毒が流れ出し、誰も住んでおりません、頭の痛い『不毛の地』。アシュレイ家の皆様も、さぞや処分に苦労されていたのではないかしら?アシュレイ閣下?」
それまで沈黙を守っていたヴィンセント・アシュレイ公爵が、深いため息と共に頷いた。
「恥ずかしながら、その通りです。バレンタイン嬢。あそこは我が家の最大の負債でした。しかしカイル殿は、リリィを娶る条件として、自らあの土地をブライト家で引き取ると申し出てくれた。長年の悩みから解放してくださったカイル殿は、実に寛大なお方だ」
ヴィンセントの言葉に、カイルの顔が、赤から土気色へと変わっていく。
「う……嘘だ!嘘に決まっている!俺の手には本物の『ベルドラの薔薇』があるじゃないか!」
カイルは、右手の大きな指輪を震えながら天にかざす。
「ですから、それは偽物の可能性が極めて高いと、最初に忠告申し上げたはずですわ」
私の言葉を裏付けるように、広間のそこかしこから失笑が広がる。無理もない。少しでも宝飾に詳しいなら笑いたくもなるような話なのだから。
「クソッ!」
カイルはこれ以上ないくらい顔をゆがめながら、指からリングをむしり取ってたたきつける。
禍々しい血の色の宝石が、コッ……と軽い音を立てて赤い絨毯に溶け込む。
「あぁっ……!クソッ!」
カイルは膝から崩れ落ち、絨毯を握りこぶしで叩きつける。
「騒々しいな」
その衝動的な行動を咎めるように、広間の大扉が重々しい音を立てながら開き、廊下の明かりが、男の影を床に落とす。
この館の主――ダミアン・ブライト侯爵。一代で爵位をかけ上がり、その苛烈な手腕から「黒豹」と畏怖される老紳士だ。カイルは臆面もなく父に助けを求める。
「父上!助けてください!こいつらが我が家を陥れようと!ベアトリクスとアシュレイ公爵が我が家を陥れようとしているのです!」
「カイル、見苦しいぞ」
「父上!?」
「『我が家』ではない。お前、個人の責任だ」
ダミアン侯爵は、息子に目もやらず、私とアシュレイ公爵に向き直って深々と頭を下げる。
「ベアトリクス・バレンタイン嬢。ヴィンセント・アシュレイ公爵。そしてリリィ・アシュレイ嬢。……愚息が多大なご迷惑をおかけした。このダミアン・ブライト、心よりお詫びを申し上げる」
会場に衝撃が走る。あの「黒豹」が、一介の令嬢と若き公爵に対し、頭を下げたのだ。
ダミアン侯爵は再び、床に這いつくばる息子を睨む。
「カイルよ、我が家の信頼を失墜させ、富を浪費し、あまつさえバレンタイン侯爵家の至宝たるベアトリクス嬢を傷つけたお前に、この家を継がせるわけにはいかん」
「な、何を仰るのですか、父上!」
「今この瞬間をもって、お前を廃嫡する。せめてもの情として、分家させてやる。お前が手に入れたベルドラ鉱山をくれてやる。そこで泥水でもすすってやり直せ」
「……は?」
カイルの口から、魂が抜けたような間の抜けた声が漏れる。
婚約者も、地位も、名誉も、贅沢な生活も、優れている自分というプライドも。
すべてが消え失せた。
「カイルよ。ベアトリクス嬢はお前には過ぎた女性だった」
ダミアンが私を見つめる視線には、畏敬の念がこめられていた。
「彼女は、私に素晴らしい取引を申し出てくれた。お前の廃嫡と引き換えに、バレンタイン家のみならずアシュレイ家が、我が家の後ろ盾をしてくれるとな」
「そんな……父上はこの婚約破棄に喜んでおられたではありませんか!」
「ふむ……ベアトリクス嬢がこの愚かな老人に、己の間違いを正す機会を与えてくれたのだ。喜びもしよう?我が家は次男に継がせる。早々に出ていくが良い」
「あ、あああ……っ!」
自分は父からも、誰からも認められていなかった。
その残酷な真実を叩きつけられ、カイルは絶叫した。
「お集まりの皆様!折角の夜会を騒がせて済まなかった!このダミアン・ブライト、ブライト家家長としてお詫び申し上げる……だが、この老いぼれのけじめの証人となっていただければありがたい!」
黒豹の大音声の謝罪に感嘆のどよめきが上がる。
「ベアトリクス嬢、あなたには感謝の言葉もない。改めて愚息の不始末をお詫びする」
「とんでもございません。私の申し出に賛同いただきありがとうございます」
ダミアンは私に深々と礼をして、広間を後にした。
床に這いつくばり、涙を流すカイルに一瞥もくれることもなく。
父が去ってなお、カイルは醜態を撒き散らすことしかできなかった。
「お、お前ら……!寄ってたかって俺をハメたな!?ふざけるな、こんな婚約破棄、認めん!無効だ、無効に決まっている!」
床に這いつくばり、泣き叫びながら、わめくカイル。その無様な姿に同情を寄せる者など一人もいなかった。
「あらあら?婚約破棄は貴方が言い出したことではありませんか?ここにいる皆様、そしてこちらにいらっしゃる司教様が証人でしょう?」
私は冷ややかに告げる。
「くっ、司教殿!こんな婚約破棄無効ですよね?!こいつらは俺をだましたんだ!」
セシル司教は必死にすがるカイルを無視するかのように、軽い調子で私に語りかける。
「いやはや。『面白いものが見れる』と、貴女からお誘いいただき、足を運びましたが、まさかこれほどとは。王都で評判の喜劇でもこの一幕には劣りましょう」
司教は、膝を折り、這いつくばるカイルに目線を合わせ優しく諭す。
「カイル殿、神は常に人々の行いを見ております。これもまた貴方の行いの報いでしょうな。どうか、心を入れ替えて生きてください」
カイルは完全に打ちのめされたように、無言で立ち上がり、幽鬼のようにとぼとぼと歩きながら、大広間を後にする。
その背には失笑と侮蔑の視線が注がれていた。
カイルの退場を見届けると、私は司教に礼を捧げる。
「司教様、遠路はるばるありがとうございました。おかげで、全ての事が運びました」
「このセシル。婚約破棄に立ち会ったことしっかと証言させていただきますぞ」
終わった。 この半年、張り詰めていた。
私はついに、私の人生を、取り戻したのだ。
完璧な勝利に気が緩み、ふと力が抜けてヒールが揺らいだ――その時。
温かく、それでいて逃げ場を塞ぐような力強い熱が、私の肩を抱きとめた。
「司教。もう一つ、お願いがあります」
突然、耳朶を震わせる芳醇な声。
振り向いた先には、ヴィンセントの熱い視線があった。
「なんでしょう、アシュレイ公爵閣下」
「私とベアトリクス・バレンタインの、新たな婚約の証人になっていただけませんか?」
「…………は、ひゃ?」
淑女にあるまじき間の抜けた声を出してしまった。
頭の中をひしめいていた権謀術数の文字列が、一瞬で消し飛ぶ。
私の頭の中は真っ白になった。
「ヴィ、ヴィンセント様……? 何を、仰って……」
戸惑う私の前で、王国の若き至宝であるヴィンセント・アシュレイ公爵が、衆目の場で、膝をついた。
男が無二の愛を乞う、あのかしずきの姿勢で。
「この場が求婚にふさわしくないことは承知している。だが、君が自由を手に入れたこの瞬間を見逃すほど、私はお人好しではないんだ」
彼の瞳には、打算ではない、野性的で剥き出しの熱情が宿っていた。
その熱に、私は射すくめられたように動けなくなる。
「ベアトリクス・バレンタイン。私は、あなたに結婚を申し込む。我が魂の伴侶として」
「あ…………っ……えっ……嘘……っ」
あまりのことに取り乱してしまう。計算外だ。
こんなこと、一文字も予定になかった。
冷静な断罪を貫いてきた白い頬が赤く火照る。
心の臓の鼓動が耳を叩く。
「おめでとうございます!ベアトリクスお姉様!
本当の『お姉様』になってくださるのね!リリィは嬉しいです!」
リリィ様が花のような笑顔で私の肩に抱きつき、広間は、祝福の拍手に包まれた。
逃げ道はない。
最強の公爵兄妹に包囲され、私は完敗を悟った。
「ずるいですわ、ヴィンセント様……こんな、大勢の前で。断れるはずがないと……分かっていて」
震える指先で赤らむ顔を覆いながら、恨み言を口にした。かすかにうわずった自分の声が恥ずかしい。でも、無意識に指の隙間から彼の優しい笑顔を探してしまっている。
「策士の君の裏をかいて、そんな可愛い顔を引き出せたのなら、このヴィンセント一生の誉れだよ」
ヴィンセント様はいたずらっぽくはにかむと、顔を覆う私の手首をそっと手に取り、裏返し、その手のひらに、誓いのキスを落とした。
完璧な勝利の向こう側の、甘い敗北。
私の真新しい書簡紙は、極上の甘い幸福で、いっぱいに塗りつぶされることになりそうだった。
(完)
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