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悪役令嬢、悟りを開く 〜断罪? 婚約破棄? そんなもの全て「空(くう)」ですわ。さようなら〜
しおりを挟む王宮の大広間は、異様な空気に包まれていました。 卒業記念の夜会だというのに。
主役であるはずの第一王子アルフォンスが、自らの婚約者である公爵令嬢セレスティア・フォン・クシャーンティを、大勢の前で糾弾しています。
「セレスティア! 君の数々のひどい行い、もう我慢ならない!」
アルフォンス王子の声が響きます。緋色のドレスで着飾った、銀髪の令嬢、セレスティアは顔を強張らせます。彼の隣には、守られるようにして、平民出身の特待生マリエッタ・サンサーラが泣きそうな表情で立っています。 集まった貴族たちは、この「断罪ショー」の成り行きを、固唾をのんで見守っていました。
(あぁやっぱりこうなるのね……)
セレスティアは、聞きなれた王子の声をぼんやりと聞いていました。 マリエッタを階段から突き落とした、教科書を破いた、王子への恋文を隠した。マリエッタが色々噂を流しているのは聞いていました。嘘と、ほんの少しの本当のことが混ざった、主役たるマリエッタが築き上げた舞台。セレスティアは自分が築き上げてきた日々をマリエッタに台無しにされそうなことに怒りを、愛する王子の隣に彼女がいることに嫉妬を感じていました。
その怒りと嫉妬に押されて、
「わたくしは…」
言い返そうとした、その瞬間。 セレスティアの頭の中に、まるで雷が落ちたかのような衝撃が走りました。
(違う。わたくしは…誰? お寺? お経? 前の人生…?)
視界が真っ白になり、知らないはずの記憶が洪水のように流れ込んできます。嗅いだこともない線香の匂いと、磨り減った経典のざらつき……セレスティアは思い出したのです。前世で一介の僧としてごく普通に暮らしていたことを。
(大広間……豪華な装飾……贅を尽くした食事……全ては……虚ろな……飾り……)
膨大な思考と知識が注がれ、セレスティアが頭をのけぞらせると、長く輝く銀髪がさらりと弧を描きます。その動きに合わせて、先程まで、体に満ちていた怒りや嫉妬が、バラリとセレスティアの心から剥がれ落ち、煙のように霧散します。
セレスティアの立ち姿に力がみなぎります。
その姿は衆生を救う、不空羂索観音のように強い意志を感じるものでした。
「どうした、セレスティア! 何も言い返せないだろう!」
何も知らないアルフォンス王子が、勝ち誇った笑みを浮かべながら胸を張ります。
セレスティアは、ゆっくりとゆっくりと目を開きました。
なんということでしょう。 セレスティアの目には世界がさきほどまでとはまったく違って見えたのです。
王子も、マリエッタも、怖かった周りの目も。 そのすべてが、驚くほど「どうでもよく」なっていました。 セレスティアは悟りました。すべては「空」なのだ、と。今のセレスティアの目にはきらびやかな大広間も贅を尽くしたごちそうも、すべては空虚に映ります。
「……ふふ」
セレスティアは、その場で両手を広げ、天を仰ぎました。
緋色のドレスが、天から打ち込まれた楔のようです。
「なっ、何がおかしい!」
「おかしい? いいえ、アルフォンス殿下。この世に、おかしいものなど、どこにもありませんわ」
「何…?」
「この世の物事は、あるがまま。ただ、そこにあるように見えているだけ。でも、本当は実体なんてないのです。ああ、なんて世界はすっきりしているのでしょう」
セレスティアは、晴れきった声で、天を仰ぎます。
彼女は、すべてを「理解」してしまったのです。この世の理を。この世の全てを。
「セレスティア!狂った演技で言い逃れできるとおもうのか!?」
苛立ちをつのらせたアルフォンス王子の声が、広間に響きます。
無理もありません。婚約破棄され、糾弾され、全ての未来を失おうという女性が、うっとりした顔で「世界はすっきりしている」などと言っているのですから。
「この世は全て移りゆくもの、狂も正も定かならぬものですわ」
セレスティアは優雅にお辞儀をします。深紅のドレスを軽くつまみ、膝を軽く曲げた所作は見事で礼儀にかなったものですが、王子は言いようのない不気味さを感じます。
「ふざけるな! 君はマリエッタを迫害した! その『罪』は消えないぞ!」
「『罪』、ですって?」
セレスティアは首をかしげます。
「殿下。『いじめた』ことは『起きたこと』ですわね。でも、それを『罪』と呼んでいるのは、殿下の『心』と『思い込み』に過ぎません」
「この期に及んで、言い訳をするのか?!」
「もちろん、私は『いじめて』などおりません。わたくしはマリエッタ様に『触れた』というだけのこと。そこに『悪い心』があったと決めつけるから、『罪』が生まれるのです。すべては『心』が生み出す『思い込み』ですわ」
ポカン、と。 アルフォンス王子だけでなく、マリエッタも、周りの貴族たちも、口を開けてセレスティアを見ています。 ただ一人、壁際に控えていたセレスティアの従者ジル・アシュラだけが、真っ青な顔で、(あぁついに目覚められてしまった!)震えていました。
「セレスティア様…?」
王子の影に隠れていたマリエッタが、おずおずと口を開きました。
「私、貴女が謝罪すれば、許してあげてもよくってよ」
自らの嘘を悪びれる様子もなく、マリエッタは謝罪を迫ります。
「まあ、マリエッタ様、ご寛大ですわね……ですが。」
セレスティアは、まるで聖母のように優しい笑みを彼女に向けました。
「『怒り』も『許し』も、貴女の『心』が決めること。貴女が『許す』と思えば『許し』になり、『怒る』と思えば『怒り』になる。どちらも素晴らしい心の働きですわ。でも、わたくしは、もうそういう感情の争いから降りましたの」
「は…はぁ…?」
マリエッタは、自分をいじめたはずの相手から、予想外の哲学的な言葉を返され、すっかり混乱してしまいました。
「黙れ!セレスティア! そんな屁理屈でごまかそうとしても無駄だ!」
アルフォンス王子が叫びます。彼は、この妙な問答の空気に焦りを感じ始めていました。
「いかに詭弁を弄そうとも、君の『嫉妬』が、マリエッタを苦しめたのは明白だ!」
王子は尚も糾弾します。
「『嫉妬』。懐かしい響きですわね」
セレスティアはそっと目を閉じます。 目を閉じたその姿は妖艶であり、半跏思惟菩薩像のように穏やかでもありました。
「確かに、ほんの数分前の『わたくし』は、『嫉妬』という感情に燃えていました。殿下を『自分だけのものにしたい』という『強い欲望』ですわね。ですが」
彼女は目を開き、アルフォンス王子を真っ直ぐに見つめました。
「それもまた『空』。もう、わたくしには必要のない感情です。殿下も、マリエッタ様と『愛』という名の『こだわり』で結ばれるとよろしいでしょう。それもまた、縁ですわ」
「な……」
セレスティアの突き放した言葉にアルフォンス王子は言葉を失い、下唇を噛みました。王子はセレスティアが 泣きわめき、許しを請うと思っていたのです。 許しを請えば、寛大な処置をとって、自らの評判を高めることができるだろうという計算があったのです。ですが、ここまで言い切られてしまっては、それもできません。王子は振り上げたこぶしを降ろせません。王子の神経は焦燥し、その美しい肌の上に、じとりとした冷や汗が流れます。
「……もうよい」
アルフォンス王子は、疲れ切ったように言いました。さきほどまでの余裕ある姿は鳴りを潜め、調子が狂わされています。ですが、王子の威厳を保つため、意を決して宣言をします。
「セレスティア・フォン・クシャーンティ! 君との婚約は、今この瞬間、破棄する!」
「喜んで応じさせていただきます」
間髪を入れずセレスティアが満面の笑みで答えを返します。
「そして! 君のこれまでの行いと、王家に対する無礼な態度を考え、君を――」
ゴクリ、と皆が唾を飲む音がしました。処刑か。国から追い出すのか。それとも修道院に閉じ込めるのか。皆が残酷な未来を思い浮かべる中、セレスティアだけが、穏やかな顔で判決を待っていました。
「――国外追放とする!王宮に入ることは二度とまかりならん!!」
処刑に次ぐ、厳しい処断です。この厳しい断罪に人々はざわめきます。
ですが、当のセレスティアは動じることもなく、穏やかな笑みを浮かべ、意外な返答をします。
「私の出家を後押しいただき。ありがとうございます。この絢爛たる世界も、所詮は色即是空。わたくしは、虚ろな栄華を捨て、真実の光を求めます。」
ドレスの裾を持ち、おじぎをするセレスティアの姿は吉祥天立像のように、凛として美しいものでした。
そして、セレスティアは、自分の首を飾っていた大粒のダイヤモンドのネックレスにそっと手を添えました。
「この輝く石も、私の『執着』。今の私は身一つ、袈裟一つで十分です」
そう言うと、セレスティアはためらうことなくネックレスを引きちぎります。大粒の、国内でも有数の宝石たちが床に落ち、カチンカチンと音を立てて散らばります。「な、なんてことを!」 貴族たちが悲鳴を上げます。
さらに、大きな青い宝石をあしらった婚約指輪を取り外し、王子の前で床にコトリと置きます。
「これは貴方との『縁』、これもまた今の私には不要なもの」
セレスティアの爽やかな決別の言葉に、王子は置いていかれたような気持ちになります。
「セ…セレスティア!もうここには戻ってこれぬのだぞ!私に会うことも二度と叶わぬ!」
王子はしらずしらず、動じないセレスティアの気持ちを振り向かせようと必死です。
「今生で会えなくとも、彼岸にてお会いできましょう。倶会一処でございますわ」
そう答えるセレスティアの顔は、浄土のように晴れやかに澄み切っていました。
「では、皆様、ごきげんよう。これより私、セレスティアは一介の修行者、光を求めて歩みます」
セレスティアは、すっかり軽くなった体で、くるりと王子に背を向けました。
そして、豪奢な食事が並ぶテーブルから素朴な木皿を2つ取り上げ、大広間の大きな扉に向かって、まっすぐに歩き出しました。彼女は、振り向きもせず、緋色のドレスを翻しながら、ただ歩き続けます。 それは高位の大僧正のような気高い姿。その足取りには、一切の迷いも怒りも悲しみもありませんでした。ただサイの角のごとく進むのです。
集まった貴族たちが、おずおずと道を開けます。誰も目覚めたセレスティアにふれることはできません。
深紅の大扉を開け、大広間から出たセレスティアはくるりと振り返って、凛と宣言します。
「色即是空、空即是色……婚約破棄も断罪もすべては全て『空』ですわ――皆様、さようなら」
ギィと音を立てて重い扉が閉まります。残されたのは床には散らばったダイヤモンドと置かれたブローチ。そして困惑する人々。
沈黙の困惑のあと、最初に我に返ったのは、アルフォンス王子でもマリエッタでもなく、壁際の従者ジル・アシュラでした。
「お、お嬢様ァァァァァァァァァ!!!」
ジルの絶叫が、夜会の音楽の代わりに響き渡りました。
「こんな場でお目覚めになるとは!!このジル!お待ちしておりました!お供をさせてください!」
ジルは慌ててセレスティアを追いかけます。ジルは前世でもセレスティアの従者だったのです。
ドタバタとジルが通用口から出ていくと、大広間には混乱が広がり始めました。 「セレスティア様がおかしくなってしまわれた…」 「いや、あれは…新手の抗議か?」 「王子、完全に言い負かされてなかったか…?」 「マリエッタ様、顔が真っ青よ…」
アルフォンス王子は、足元の婚約指輪を見つめました。
「…空、だと?」
断罪によって彼が手に入れたはずの「勝利」はどこにいったのでしょうか。まるで砂のように指の間からこぼれ落ちていったようでした。それはまさに、セレスティアが言った「空」そのものでした。
◇ ◆ ◇ ◆
王宮の長い廊下を、ジルは必死に走っていました。
「お嬢様!お嬢様!このジルもお供に!」
王宮の出口、月明かりが差し込むテラスで、セレスティアは立ち止まっていました。
彼女の長い銀髪は、月夜にきらめき、夜風になびいています。
「ハァ…ハァ…お嬢様!」 ジルがようやく追いつき、膝に手をつきます。
「ジル…お前も修行の旅についてきますか?昔のように」
セレスティアはジルが自分の弟子であり従者だったことを思い出していたのです。
月の光がセレスティアの微笑みを清らかに照らします。
「もちろんでございます!お嬢様!」
ジルは感極まって涙を浮かべます。
「お嬢様はやめなさい。それもまた俗世のつながりにすぎません」
「ではセレス様。このジル、お目覚めの時を長らく待っておりました。しかし、お目覚めすぎではございませぬか?」
「見性とは過不及なきこと。本有の仏性に頓悟するのみですわ。悟りとは、過不足ないちょうど良い状態。曇った鏡を拭うようなものよ。輝く鏡はいつもそこにあるのです」
「ははっ!修行不足ゆえの軽口でございました。セレス様、このジル、地の果てまでご一緒いたします」
セレスティアは素朴な作りの木皿を2つ取り出しました。
「セレス様、その木皿は?」
「托鉢の器にと、いただいてきました。一つは私の、もう一つは貴方のために」
木皿をジルが受け取ります。セレスティアはジルが追いかけてくることを分かっていたのです。
「ありがとうございます!お嬢様!」
「お嬢様はやめなさい。この世は空即是色、空即是色なのですから」
銀盆のような月夜の下、優しげに微笑むセレスティアはまさに阿弥陀如来像のようでした。
(了)
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