錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第二部 漂流編

第31話 揺れの縁(えん)

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赤い欠片に触れた瞬間、
アキトの意識は“薄層”から一段だけ落ちた。

落ちた、というよりも、
掴んでいた足場が静かに抜け落ちたような感覚だった。

触れたのはほんの一瞬のはずなのに、
そのわずかな接触だけで、胸の穴の奥に冷たい風が吹き込んだ。

タケルの声は、すぐ近くで聞こえているはずなのに、
距離をもったまま空気を震わせる。

「兄さん……兄さん!」

呼ばれている。
確かに呼ばれているのに、自分の名前の輪郭が遠い。

アキトは、指先にまだ“光の微熱”だけが残っているのに気づいた。
その熱は、リタの拍の熱と同じだった。
塔の調整室で、リタが手を伸ばしたときに触れた温度——
あの記憶の、薄い残滓。

(これは……リタのものだ)

そう理解した瞬間、
視界の縁に影のような揺れが走った。

赤でも黒でもない、
“記憶の揺れ”だけが形を作ったような影。

耳元で、誰かが喉の奥で言葉を転がしている。

——まだ
——たり
——ない

その声は、深層の呼吸よりも古く、
薄層の囁きよりも弱く、
ただ“距離のない場所”から響いていた。

タケルの声が、影の揺れに割り込んでくる。

「兄さん!離せ!その光、手から……!」

アキトは気づいた。
自分の手が、離れていない。

指先はまだ、窪みの底の“欠片”に触れていた。

はじめは微熱のようだった光が、
いまは脈のたびに皮膚を刺す冷たさに変わりつつある。

タケルが腕を伸ばす。
掴もうとした手は、途中で強く震えて止まった。

「……触れない……!」

タケル自身が呼ばれているのだ。
赤い線は弟にだけ濃く見える。
その誘いは、タケルの手首を“拒絶するように吸い込む”。

アキトは、自分が前に出るしかないと知っていた。

「……大丈夫だ。離す」

そう言おうとしたのに、声が出ない。
喉全体が深層の圧に似た何かで押しつぶされている。

胸の奥で、別の声が応えた。

——違う
——離すな

それは、リタの声ではなかった。
祈り機の金属音とも違う。
もっと古く、もっと乾いた響き。

タケルが叫ぶ。

「兄さん!!手を……!」

アキトは力を込め、光から指を引き離した。
抜けた瞬間、胸の穴に冷たい風が雪崩れ込み、
身体が大きく揺れ、膝が床の灰に落ちた。

タケルが駆け寄り、背を支える。

「兄さん!兄さん、聞こえる!?」

アキトは息を吸い、
肺の奥に貼りついた見えない膜が破れるような痛みを感じた。

「……あぁ。聞こえる」

声はひどく掠れていたが、確かに自分の声だった。

窪みの中央では、赤い欠片がまだ弱く明滅していた。
だが、さっきまでより光は弱い。
まるで“触れられた部分”だけが摩耗したように。

タケルが言葉を失ったまま、窪みを見つめている。

「兄さん……いま、引きずられたよな。なぁ、あれ……本当に、リタの?」

アキトは答えようとしたが、
喉の奥で言葉がすぐに形を失った。

リタの拍とも違う。
祈り機の心臓とも違う。
塔の記録にもなかった。

だが、胸の穴は確かに触れられた。

(これは……リタの“すべて”ではない)

そして、おそらく。
リタだけのものでもない。

タケルが震える声で言った。

「兄さん。俺……呼ばれた時と同じ感じがした。
 でも、違った。もっと……優しいみたいで、でも怖い。
 深層よりも近くて、深層より遠い……変な感じ」

アキトはゆっくり立ち上がり、窪みを見た。

欠片は揺れながら、
どこかへ戻りたい、というよりも、

どこかへ“集まろうとしている”

そんな脈を打っている。

まるで、まだ何か足りないとでもいうように。

「タケル」

アキトは弟の肩に手を置いた。

「ここから……何か“来る”かもしれない」

「……来る?」

「欠片が呼んでる相手がいる。
 深層とは違う何かだ。
 たぶん、リタの記憶を拾った“別の場所”だ」

タケルの表情が強ばった。

「それって……追うってことか」

アキトは頷いた。

「リタを、もう一度失うためじゃない。
 リタが失った“順番”を、取り返すためだ」

言いながら、胸の穴が微かに疼いた。

欠片の光は弱い。
だが、導きは確かにそこにある。
タケルだけが聞き取れる、その“細い声”は。

アキトは窪みに向き直り、短く息を整えた。

「次は——」

言いかけた瞬間、
窪みの奥から“揺れ”がひとつ、跳ね上がった。

その揺れは、線となって周囲の壁を走り、
天井の祈り線の残骸に触れ、
薄層の奥へ消えていく。

タケルが叫んだ。

「兄さん!また動いた!今の……追える!」

アキトはタケルを見る。

弟の目は、怖れている。
でも同じくらい、決意の光があった。

アキトは頷いた。

「行くぞ。タケル。今度は俺が前だ。
 そして……お前は二度と、呼ばれても黙って行くな」

タケルは息を呑み、頷いた。

「もう、行かない。
 兄さんより先に……絶対に」

アキトは窪みから視線を外し、細い赤い線の方向へ歩き出した。

欠片が指し示すのは、
リタの帰るべき場所なのか、
それとも別の何かの口なのか。

まだ分からない。

だが進むしかなかった。

この旅は、
深層から始まり、
ここで終わりではない。

薄層のさらに奥、
誰も知らない“揺れの層”へ。

アキトとタケルは、
赤い線の光へと静かに歩みを進めた。

赤い線は、薄層の奥に向かって細くのびていた。
歩けば歩くほど、周囲の壁が静かになり、空気は徐々に軽くなる。
深層の圧迫感が遠のくにつれ、アキトは気づいた。

——この静けさは“無”ではない。
——必要な音だけを残した“選別された静けさ”だ。

タケルがぽつりと呟いた。

「兄さん……線が、増えてる」

見ると、最初は一本だった線が、二本、三本と枝分かれしている。
どれも淡い赤で、ひび割れの奥をゆっくりと脈動しながら進む。

アキトは眉を寄せた。

「……誘い方が雑だな」

タケルが不安そうに笑った。

「雑って……兄さん、そういう言い方する?」

「決められた道じゃない。
 “欠片を集めている側”も試してるんだ。
 どの線を追うか……俺たちの反応を」

タケルは視線を下げた。

「俺たちが試されてる……?」

アキトは頷いた。

「深層でもそうだった。呼び声が俺たちを選んだんじゃない。
 俺たちが“どう動くか”を見ていた」

タケルはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。

「じゃあ……どの線を選べばいい?」

「迷うなら、全部を見ろ。
 だが進むのはひとつだ。
 “リタなら選ばない線”を切り捨てる」

タケルは驚いたように瞬きをした。

「兄さん……今の、なんかリタみたいな言い方」

アキトは少し苦笑した。

「かもしれない。
 あいつは、いつも遠回りしない」

その笑みはすぐに消え、真剣な表情に戻る。

「タケル。線から“呼ばれる”感じは……どれが一番強い?」

タケルは目を閉じ、深く息を吸った。
耳の奥に沈んでいくような感覚に意識を集中させる。

「……一番右。
 ほかの線より……細いけど、真っ直ぐで、早い」

アキトは頷いた。

「行くぞ」

タケルは気圧されるように息を吸い込んだ。

「……兄さん、もしあれがリタじゃなかったら?」

「確かめるまで進む。
 違うなら、俺が止める」

「兄さんが?」

「お前じゃダメだ。呼ばれやすい」

言い切った瞬間、タケルは顔を伏せた。

「……ごめん」

「謝るな。お前のせいじゃない」

そのやり取りに、薄層の空気がわずかに震えた。
まるで壁そのものが、兄弟の会話を聞いているようだった。



右端の線を追っていくと、通路は徐々に狭くなり、
やがて、壁が斜めに折れたような急角度の裂け目にぶつかった。

タケルは喉を鳴らした。

「……入れる?」

「入れないなら帰ればいい。
 でも、お前は帰らないだろ」

タケルは唇を噛んだ。

「もちろん、行く」

アキトは頷き、裂け目の隙間に肩を滑り込ませた。

狭い。
息を吸うと胸が壁に触れ、吐けば背中に冷たい鉄の粉が落ちる。
だが赤い線は揺れることなく奥へ導いていた。

進むにつれ、空気は変わった。

先ほどまでの選別された静寂ではなく、
「吸われる気配」が漂い始める。

タケルが小さく震えた声で言う。

「兄さん……これ、深層のときと似てる。
 でも違う。胸じゃなくて——
 頭の奥が、引っ張られてる」

アキトは立ち止まり、弟を見た。

「その引かれ方……痛いか?」

タケルは首を振った。

「痛くない。
 でも……俺の“思い出の順番”が勝手に並べ替えられる感じがする」

アキトの胸が強く冷えた。

「タケル。
 今のお前は、何を一番最初に思い出す?」

タケルは目を閉じた。

しばらくして、瞼を震わせながら答えた。

「……兄さんが、俺の名前呼んだ声」

アキトは息を吐いた。
安堵ではない。
怖いほどの胸の痛みだった。

——まだ大丈夫。
——タケルは“ここ”にいる。

「……続けよう」



裂け目を抜けると、一気に空間が開けた。

そこは部屋……と呼ぶには歪すぎた。

天井は斜めに落ち、床は波打つように沈み、
壁は沈黙のまま呼吸している。

だが何よりも目を奪うものがあった。

部屋の中央に——
“影の柱”が立っていた。

高さは祈り機の三倍はある。
表面は揺れる黒のようで、実体があるのかも曖昧。
その中心だけが、淡い赤の“欠片の色”を吸い込んでいる。

タケルが声を失った。

「……あれ……何?」

アキトも言葉を失った。

影の柱は、脈を打っている。
欠片と同じ、乱れた脈。

それはまるで——
集め切れていない記憶が、ここに集まろうとしている。

そして柱の下には、
あの小さな欠片と同じ“光の粒”が、いくつも散っていた。

タケルが震えた声で言った。

「……兄さん。
 これ……全部、リタの?」

アキトはゆっくりと頭を振った。

「違う。
 これは……“誰かの記憶の残骸”だ。
 リタだけのものじゃない」

タケルは息を呑む。

「じゃあ……誰の?」

アキトは柱を見つめた。

影は揺れている。
呼吸するように膨らんだり、縮んだりしている。
そしてその度に、部屋全体の記憶がざわつく。

タケルが怯えた声で言った。

「兄さん……見られてる」

アキトも気づいた。

影の柱が、
——こちらを“知っている”揺れをした。

その揺れは、リタの揺れと似ていた。
だが、もっと荒く、もっと古く、
もっと多くの名前を知っているような揺れ。

アキトは一歩前に出た。

「タケル。離れて立て」

「兄さん?」

「これは……俺じゃないとダメだ」

アキトの胸の穴が疼く。
欠片に触れたときの、あの冷たい風が戻ってきた。

影の柱はアキトの方へわずかに傾いた。
呼ぶでもなく、怯むでもなく。
ただ——
「ようやく来た」とでもいうように。

タケルが叫ぶ。

「兄さん!ダメだ、近づくなって!!
 あれ、兄さんを——」

「……違う」

アキトは振り返らずに言った。

「俺は……あれを知ってる」

タケルが息を呑む。

「知ってるって……兄さん、この世界初めてなのに……!」

アキトは影を見つめた。

胸の穴が、静かに応えた。

——ここに
——戻ってきた

アキトは短く息を吸った。

「タケル。俺は……」

声が震えた。

「“あれの中に、いた”ことがある」

タケルは絶句した。

「兄さんは——」

その先を言おうとして、言葉が出ない。

アキトは影の柱を一歩見上げた。

「タケル。
 リタの欠片は……ここに集められている。
 だがこれは、リタを呼ぶためじゃない。
 俺を呼ぶためでもない。
 “ここにいた誰か”を、埋め戻すためのものだ」

タケルは呆然とした。

「兄さん……それって……」

影の柱が大きく脈打った。

赤い線が部屋中を走り、
欠片の光が一斉に明滅し——

アキトの胸の穴が激しく痛んだ。

タケルが叫ぶ。

「兄さん!!」

影の柱が、アキトに向かって揺れた。

その揺れは、深層の圧でも、薄層の囁きでもない。

——“帰還”の揺れだった。

アキトは動かなかった。

怖かったのではない。
理解してしまったからだ。

ここは——
リタが沈んだ場所ではなく。

“アキトが一度、沈んだ場所”だった。

タケルの叫びが、遠くなる。

影が伸びる。
赤い光が集まる。
記憶の揺れが重なる。

そして影は、アキトの胸に触れた。

薄層が震えた。

タケルが駆け寄ろうとして、足が止まる。
弟の身体もまた、呼び寄せられる。

アキトは振り返らずに言った。

「タケル——絶対に触るな」

影がさらに胸に沈む。

呼吸が奪われていく。

タケルの叫び声が裂けた。

「兄さああああん!!」

影の柱が音を失い、
世界が一度だけ欠けた。

薄層全体が沈黙し——

アキトの視界が、白く反転した。
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