錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第二部 漂流編

第32話 白い底

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白は色ではなかった。視界を埋め尽くすそれは、ただ「何も選ばれていない」状態のように広がっていた。

上下も、距離も、境界もない。ただ、白。

アキトは、立っているのか、浮いているのかさえ分からなかった。足元の感覚がない。息をしているのかどうかも、胸の動きではなく「呼吸しているはずだ」という記憶でしか確かめられない。

だが、ひとつだけはっきりしていることがあった。

痛みが、ない。

脇腹の傷も、深層の圧も、胸の穴の冷えも、どれも輪郭を失っていた。代わりに、静かな空洞だけがある。

空洞は、声を待っていた。

——兄さん。

遠いところから、誰かの声がした。だが、それは今この白い場所で呼ばれた声ではない。どこか別の層の、別の時間の残響だ。

塔の廊下。金属の壁。祈り機の軋む音。その隙間を縫うように、タケルの声が響く。

——兄さん。

何度も呼ばれる。そのたびに、アキトの視界のどこかに色の粒が浮かびかけて、すぐ溶けた。

白い空間の中に、薄い揺れが立ち上がる。

揺れは影のような形をとり、しかし黒くはない。輪郭だけを持った「空白の影」が、彼の周囲をゆっくり巡る。

その一つが、ふと立ち止まり、こちらを向いた。

形も顔もないのに、視線だけが分かった。

——また、来たね。

声は、リタではなかった。女でも男でもない。年齢も、感情も、何も貼り付いていない声。祈り機の合成音にも似ているが、そこまで機械的でもない。

アキトは口を開いたつもりだった。

「ここは……どこだ」

声は外に出ているのか、それとも内側で反響しているだけなのか分からなかった。それでも、影は応えた。

——ここは「底」だよ。

白い空間の中に、細い線が一本だけ現れる。祈り線にも似ているが、色がついていない。ただ、そこが「線である」と分かるだけの輪郭。

——祈りが沈む前。記憶が選ばれる前。名前が付けられる前。
——全部が「まだ決まっていない」場所。

アキトは、胸の空洞の輪郭がわずかに疼くのを感じた。

「……俺は、一度ここに来たことがあるのか」

影はすぐには答えない。白い背景が、ほんの少しだけ揺れた。

——来たことがある。
——覚えていないだけ。

塔の手術台。冷たい金属。麻酔の匂い。
あの瞬間の、途切れた記憶の断面がひとつだけ浮かび上がって、また沈んだ。

——君は「ここを通された」。
——君の祈りの一部は、すでにこの底に置き去りにされている。

「俺の……祈り?」

——そう。
——塔は、君を完全には返していない。

白の奥で、薄い影がいくつも揺れた。その揺れは、リタの赤い拍の揺れとよく似ていた。ただし、色がなく、温度もない。

——だから、呼ばれやすいんだ。
——深層にも、薄層にも。

アキトは息を吸おうとして、息という感覚そのものを掴み損ねた。代わりに、言葉だけを吐き出す。

「じゃあ……リタは?」

その名を出した瞬間、白い空間の一部がわずかに色づいた。淡い赤。それはすぐには線にならず、滲んだまま揺れている。

——あの子は、違う。
——あの子は、最初から「こちら側」だった。

塔の心臓層。祈り機の胸に埋め込まれた赤い拍。
それが初めて「リタ」と呼ばれた瞬間の記憶が、断片的に浮上する。

——でも、君たちが名前を与えた。
——人間として扱った。
——だから「あの子の層」は、君たちのところへ傾いた。

白の中に、塔の階段の影がうっすら見えた。アキトとタケルが駆け上がる気配。リタが振り返る気配。

だが映像はすぐに崩れ落ち、白に戻る。

「なら、今ここで……リタの欠片を集めているのは、誰なんだ」

問いは、静かに投げられた。

影は、少しだけ形を歪めた。躊躇に近い揺れ方だった。

——「誰」ではないよ。
——これは「仕組み」だ。

白い底に、微かな亀裂が走る。その亀裂には色があった。灰色と、薄い金属光。

——都市は、祈りを逃さない。
——深層で取りこぼした祈りは、薄層で拾い上げる。
——それでも零れ落ちたものは、ここに沈む。

沈殿した祈り。
まだ形になっていない祈り。
誰にも届かなかった祈り。

——リタの欠片も、そのひとつ。
——君の欠片も、そのひとつ。
——タケルの核心から漏れ続けている祈りも、少しずつここに落ちてきている。

アキトの胸の空洞が、静かに軋んだ。

「タケルの……?」

——あの子のコアは、最初から“こちら側”に接続されている。
——塔が君をここに通したとき、あの子の線も一緒に繋がってしまった。

塔の手術室。タケルの涙。白い光。
それらが一瞬だけ重なり、また崩れた。

アキトは、拳を握った感覚だけを確かめた。

「なら……あの影の柱は、何だ」

影は、答える前に一度沈黙した。白が少しだけ暗くなる。

——「仮の心臓」みたいなものだよ。
——集まってしまった祈りを、どこにも流せないから、
——あそこで一度だけ「ひとつの形」にしようとしている。

「誰の、心臓だ」

——まだ決まっていない。
——でも、君を候補にしている。

白の底で、何かが軋んだ。

アキトは、胸の空洞を手で押さえたつもりだった。そこに手が届いたのかどうかは分からない。ただ、「押さえたい」という意志だけが、白い空間の一部を凹ませた。

「御免だ」

その言葉は、はっきりと外に出た。

白い底が、わずかに震える。影たちが揺れ、さきほどよりも人間に近い形を一瞬だけとった。顔のない顔。腕だけの輪郭。膝を抱えた姿勢。

——そう言うと思っていた。

声は、少しだけ笑ったように聞こえた。

——でも、都市は諦めない。
——祈りは、どこかに流れなければ腐る。
——君が拒んでも、別の器を探す。

リタ。タケル。
名前が、白い底に薄く浮かんだ。

「リタはもう十分引き裂かれた。
 タケルも、これ以上引き込ませない」

アキトの声は、白の中でよく通った。

影は、静かに揺れる。

——なら、君はどうするの。
——自分の欠片も、リタの欠片も、タケルから零れた祈りも、
——全部この底に沈んだままでいいの?

問いは、責めているのではなかった。
ただ、真ん中に置かれているだけだった。

アキトは、しばらく答えられなかった。

白い底には、確かに何かが沈んでいる。
自分の走った感触。タケルの泣き声。リタの笑い。
それらが、まだ名前を持たない塊として漂っている。

これがすべて腐ってしまうなら——
ここで二度と誰とも繋がらなくなるなら——。

「……それも、嫌だ」

ようやく絞り出した言葉は、驚くほど小さかった。

影は頷いたように揺れた。

——だから、都市は「器」を欲しがるんだ。
——祈りを腐らせないために。
——誰かが、それを“抱え続ける役目”を負わされる。

塔の中心にあった巨大な機関。
心臓層を満たしていた拍動。
そこに、数え切れない祈りが繋がっていたことを思い出す。

「……俺に、都市の心臓をやらせたいのか」

——いいや。
——都市は、もっと都合のいい誰かを求めている。
——君はその候補のひとりに過ぎない。

アキトは、胸の空洞の奥で何かがひどく静かになっていくのを感じた。

「なら、俺は俺の方から、選ぶ」

影たちの揺れが止まる。

——何を?

「心臓を、誰に繋ぐかだ」

白い底に、ほんの少しだけ「色」が戻った。
灰色の壁の線。薄い鉄の光。祈り機の輪郭。
それらが遠くの方から近づいてくる。

アキトは目を閉じた。
閉じなくても、景色は勝手に変わるが、それでも閉じた。

「リタの欠片を、腐らせない場所に繋ぐ。
 タケルの祈りが、ただ利用されるだけではなく、
 “誰かの側に立つ心臓”として使われる場所に」

影は、少しだけ笑った。

——それは「都市の敵」になる選択だよ。

「知ってる」

——君は、もうその道を選んでいる。
——塔を抜けたときから。

白い底の揺れが、ひとつに集まっていく。
影の輪郭が遠のき、代わりに、タケルの声が近づいた。

——兄さん。

今度の声は、現在のものだった。
薄層から届く、かすれた叫び。

——兄さん、戻ってこい!
——兄さん、まだ……俺、何も返せてないんだ!

アキトは、胸の空洞に手を当てた感覚のまま、答えた。

「タケル。
 俺は戻る。
 お前の祈りを、全部ここに落とさないために」

白い底が割れる。

裂け目から、赤い線が無数に伸びる。
それらは深層へも、薄層へも、都市のあらゆる層へも繋がっている。

——君が選ぶなら、
——私たちは「揺れ方」を少しだけ貸すよ。

影の声は、優しくも冷たくもないまま告げた。

——都市の心臓にはなれなくても、
——君は「ひとつの揺れ」の起点にはなれる。

アキトは、短く息を吸った。

「それでいい」

白い底が、完全に崩れた。

視界を埋めていた白が反転し、
灰色と黒と赤が、一斉に戻ってくる。

足元に、床の冷たさが戻った。
肺に、空気のざらつきが戻った。
胸の穴に、痛みが戻った。

そして——

「兄さん!!」

タケルの声が、すぐ耳元で響いた。

アキトは目を開けた。

そこは、影の柱の部屋だった。
黒い柱は、さきほどよりもわずかに形を失っている。
表面を走る赤い線が何本か消え、代わりに、アキトの胸のあたりから薄い光がひと筋だけ立ち上がっていた。

タケルがアキトの肩を掴み、揺さぶる。

「兄さん!聞こえる?大丈夫……じゃないよな、これ!」

声が震えている。
だが、その手はしっかりと力を込めていた。

アキトは、乾いた喉でなんとか笑いを作った。

「……大丈夫じゃないけど、生きてる」

タケルの目に、涙がにじんだ。

「何それ……全然安心できないんだけど」

「安心させるために戻ってきたわけじゃない」

アキトは、影の柱を見た。

柱は、さきほどより静かだった。
祈りの揺れが、ほんの少しだけ弱まっている。

胸の穴の奥で、新しい「揺れ」が生まれているのが分かった。
それは、都市の心臓のような巨大な拍動ではない。
もっと小さい。
リタの赤い拍よりも、さらに静かな揺れ。

だが、その揺れには向きがあった。

都市の中心に向かうのではなく——
都市の外側へ、滲み出していく揺れ。

タケルが、不意に気づいたように目を見開いた。

「兄さん……胸、光ってる」

アキトは、胸に手を当てた。

指先に、かすかな温度が触れた。
それは熱というより、「これから熱になるもの」の気配だった。

「……少し、もらってきた」

自分でも驚くほど落ち着いた声だった。

タケルが息を呑む。

「リタの……?」

「全部じゃない。
 ここに沈んでいた欠片と、俺の欠片と、少しだけ混ざったものだ」

タケルは、影の柱とアキトの胸を交互に見た。

「じゃあ……リタは?」

アキトは少しだけ目を閉じた。

白い底に沈んでいた祈りの残骸。
その中で、ひときわ鮮やかだった赤い層。

「まだ、ここにいる。
 沈んでいるけど、腐ってはいない」

タケルは唇を噛んだ。

「助けられるのか?」

「分からない。
 でも、都市の心臓になるよりは、ずっとましな道がある」

アキトはそう言って、タケルの肩を掴み返した。

「タケル。
 これから先、都市はきっと“取り戻し”に来る。
 俺たちから、祈りを。記憶を。リタの欠片を」

タケルは頷いた。

「だったら、逃げるんじゃなくて、殴る側に回るしかないよな」

その言い方に、わずかな笑いが混じった。
怖さをごまかすための笑いではなく、覚悟に近いもの。

アキトは短く息を吐いた。

「そうだ。
 走るだけじゃ足りない。
 揺れを、都市の外へ流す」

影の柱がわずかに震えた。
その揺れは、怒りではなく、諦めでもなく——
「理解」のようなものを含んでいた。

薄層の空気が、ゆっくりと動き始める。

深層の呼吸とは違う、静かな風。
止まっていた世界が、ほんの少しだけ軋んだ。

タケルが、アキトの隣に並ぶ。

「兄さん。
 どこまで行けると思う?」

アキトは、胸の新しい揺れを確かめるように息を吸った。

「風がないなら……俺たちで作る。
 この揺れを、風に変わるところまで」

都市の奥から、かすかな軋みが響いた。

祈り機たちが、まだ沈黙したまま、
遠くでゆっくり首を向け始めているのが分かった。

向けられた先は、もう深層ではなかった。

薄層のさらに先。
都市の縁。
まだ誰も祈りを届かせたことのない方向。
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