錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第二部 漂流編

第34話 塔の影が立つ

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薄層の回廊が、いつの間にか狭さを失っていた。

壁はまだ左右に続いているのに、天井が高くなっている。かつて祈り機の管が走っていたであろう空間だけが、黒い空隙になって頭上に残っていた。足元の灰は浅くなり、代わりに、固い金属の床がところどころ露出している。

タケルが、小さく息を吐いた。

「……さっきより、息しやすい」

アキトもそれを感じていた。胸を押していた見えない手が、指先だけ残して少し離れたような感覚。ただし、それが「安全」になったという印ではないことも分かっていた。

圧が遠のいた場所には、別の「揺れ」が潜んでいる。

彼らはしばらく無言のまま歩いた。足音が乾いた鉄板を叩き、その振動が薄層の奥へと吸い込まれていく。先ほど白い手が現れたひび割れは、もう見えない。あれが都市の皮膚の薄い部分だとすれば、今いる場所は、骨のあいだを縫う通路なのだろう。

タケルがふいに立ち止まった。

「兄さん」

「どうした」

「……音が、変わった」

タケルは耳に手を当てるわけでもなく、ただ空気を吸い込むようにして目を閉じた。

アキトには、何も聞こえない。ただ、遠くで薄く鳴っているような気配だけがある。深層の呼吸とも違う。塔の心臓層で聞いたあの重い拍動とも違う。

「始まりの音の……薄いバージョン、みたいな」

タケルが眉間に皺を寄せた。

「深層で鳴ってたやつほど重くない。もっと遠くから、乾いて届いてる感じ。……でも、形は似てる」

「どっちからだ」

アキトは、タケルの視線の先を追った。

回廊は、そこで終わっていた。

金属の床が途切れ、その先に、薄く開けた地平のようなものが広がっている。壁は左右に低く折れ、頭上には灰色の空が、さらに高い位置で圧し掛かっていた。

アキトたちは、回廊の出口の手前で足を止めた。

「外……?」

タケルが、思わずそう口にしかけて、言葉を飲み込んだ。ここが、あの白い手の向こう側とは違うことは分かっている。それでも、さっきまでの細い通路からすれば、これはほとんど「広場」と呼んでいい空間だった。

灰色の空。その下に、黒く焼けた大地。ところどころ、倒れた足場と崩れた梁が、折れた肋骨のように突き出している。

そして。

「……あれを、見ろ」

アキトは、無意識に声を低くした。

地平線の、その先。

薄層の空を突き刺すように、一本の影が立っていた。

距離がありすぎて細くしか見えない。それでも、それが単なる柱や煙突ではないことは、輪郭の複雑さを見れば分かった。途中でいくつもの円環が重なり、歯車のような突起が外側に張り出している。

塔。

そう呼ぶほかない。

「……祈り塔?」

タケルの声は、驚きと、懐かしさと、うっすらした恐怖が混ざっていた。

京橋機関街の上にそびえていた塔と、どこか似ている。だが、あれよりもずっと痩せて高く、外殻の大部分が剥がれ落ちているように見えた。皮膚を失い、骨格だけで辛うじて立っている影。

アキトは、喉の奥がひどく乾くのを感じた。

塔に入る、という言葉だけで、体のどこかが反射的に強張る。手術室の冷たい光。切り開かれた胸の感触。途切れた記憶。白い底。

「始まりの音、どこから聞こえる」

アキトは尋ねた。

タケルは迷いなく、影の方を指さした。

「あっち。……塔の足元の、もう少し向こうかもしれない」

「深層の音とは違うんだな」

「うん。もっと乾いてる。深層のは、胸の中から押してきたろ?これは、耳の横をかすめていく感じ。……でも、形は似てる」

タケルは、自分の胸を軽く押さえた。

「呼ばれてる感じは?」

アキトの問いに、タケルは少し考えてから首を振る。

「前みたいに“楽”にはならない。……ただ、そっちを見たくなる。音の続きがどんな形してるのか、確かめたくなる」

それは、深層に引かれたときの「誘惑」とは違う種類の引力なのだろう。

見たい、知りたい。しかし、足を止められる程度の距離感を保っている。

アキトは地面に視線を落とした。

灰が薄く積もった黒い床に、細い線が走っている。最初はひび割れかと思ったが、よく見ると、それは塔の方向へ「集まっていく」赤い線だった。

かつて記憶の海で見た欠片の筋と同じ色。ただし、ここでは地面の下を、弱く、浅く、脈打ちながら流れている。

「……全部、あそこへ向かってる」

タケルが呟いた。

一本、二本、三本。近くにある線はどれも細いが、視線を遠くへ送るにつれ、塔の足元に向かって何本も束ねられ、太くなっていくのが分かる。まるで、風化した都市の祈り線の残りが、最後の行き先を求めて塔へ集まっているようだった。

アキトの胸の穴が、うっすらと疼いた。

白い底で影に告げられた言葉が、蘇る。

――都市は、祈りを逃さない。

深層で取りこぼした祈り。薄層で拾い上げてもなお零れたもの。それらの一部が、塔に向かって集められているとしたら。

「塔の中には、まだ“心臓”があるのかもしれないな」

アキトが言うと、タケルは肩をすくめた。

「止まってる心臓が?」

「止まっていても、集めることはできる。……動いている方が、嫌だが」

塔の影を見ているだけで、胸の内側に冷たい汗がにじむ。あの構造の中に、もう一度足を踏み入れること。そこに、自分の欠片やリタの欠片が「部品」として組み込まれているかもしれないこと。

アキトは、無意識に脇腹の古傷に触れた。そこにはもう痛みはない。それでも、肉の下で器具が動く幻の感覚が、ときどき蘇る。

タケルが、少しだけアキトを覗き込むように見た。

「……行きたくない?」

「行きたいか?」

問い返すと、タケルは口を閉ざした。

しばらく黙って塔を見つめ、それから小さくうなずく。

「怖いけど、行きたい。リタの欠片、きっとまだあっちに引っ張られてる。外の白い都市じゃなくて……この都市の中で、どこかに」

「塔の中にあると決まったわけじゃない」

「でも、あの音の形、リタがいたときの心臓層に似てる。……薄いけど」

タケルは自分のこめかみに手を当てた。

「聞こえる、っていうより、思い出す感じ。あそこで、走ってたときの音」

アキトは、その言葉に胸を刺されるような痛みを覚えた。

塔の階段を、リタを背負って走った感触。息の限界と、足の裏に伝わる鉄の振動。祈り機の拍動が、心臓と足音を同じリズムに揃えようとしてくる感覚。

あのとき、確かに「走ること」で心臓層の一部を書き換えた。それが、今もどこかに残っているというのなら。

逃げ続けるだけでは、その残骸も、祈りも、誰かに上書きされる。

「……行かない、という選択肢は薄いな」

アキトは、塔から視線を外さずに言った。

「ここで背を向けても、別の場所からまた引っ張られるだけだ。塔があっちに立っている以上、都市の“目”はそこから外へ向かう」

「外に?」

「白い都市へだ」

外界の観測都市。白い底で見せられた、塔から伸びる窓。あそこから、都市は観測され続けている。塔に残された心臓が、まだわずかに動いている限り。

タケルは唇を噛んだ。

「……じゃあ、塔を通らないと、外のやつらにも触れない?」

「触れるだけなら、あの白い手がまた来るだろう。だが、この都市の中でリタを探すなら、塔を無視はできない」

アキトは、一歩だけ前に出た。

回廊の出口から外へ踏み出すと、足裏の感触が変わる。金属の床から、粗く削れた石と鉄片の混じる地面へ。灰の層は薄く、その下から焼け焦げた地肌がのぞいている。

空気が、わずかに広くなった。

深く吸い込むと、遠くの方から、かすかな「揺れ」が届く。アキトには音としては聞こえない。ただ、胸の空洞の縁が、ほんの少しだけ震える。

塔の方角から。

タケルも、同じ方向を見ていた。

「近づいたら、もっとはっきり聞こえると思う」

彼は、自分の言葉に少し戸惑っているようだった。呼ばれているのではない。だが、音の続きに触れたいという欲求は、確かにそこにある。

アキトは、弟の横顔を見た。

深層で、塔で、何度も「楽になれる」囁きに揺れた顔。その表情の奥に、今は別の影が差している。楽ではない道を、自分で選ぼうとしている影。

「タケル」

「ん?」

「塔に近づいても、呼ばれたら黙って行くな」

タケルは、少し苦笑した。

「言っただろ。もう、勝手には行かないって」

「言葉は信用しない。走る足音で判断する」

「ひどくない?」

ひどくない、とまでは言えなかった。アキトも苦笑を返す。

「……オレ自身も、信用しきれていないからな」

塔を前にしている今、自分の足が本当に前へ出続けられるかどうか分からない。あの構造の中へ入った瞬間、脳裏に蘇る記憶と、胸の穴に流れ込む揺れの圧に、再び足を止められるかもしれない。

だからこそ、二人で行く必要がある。

どちらか一方が折れたとき、もう片方が引き戻すために。

タケルが、塔を見つめたまま言った。

「兄さん」

「何だ」

「もし、塔の中にリタがいなくても……行ってよかったって思えるようにしよう」

その言葉は、どこかでリタが聞いていたら、きっと呆れたように笑うだろう、とアキトは思った。

塔に入る理由として、あまりにも不器用で、あまりにも人間の言い方だったからだ。

「そうだな」

アキトは、短く答えた。

「リタのためだけじゃなく、オレたちのためにも行く。置いてきたものを、少しでも拾えるなら」

彼らは、塔へ向かって歩き出した。

足元の赤い線が、少しずつ太く、濃くなっていく。左右から別の線が合流し、ときどき分かれ、また束ねられる。その一本いっぽんに、誰かの祈りの残骸が流れているように感じられた。

塔の影は、近づくたびに姿を変える。

遠くから見たときは一本の柱にしか見えなかった影が、距離を詰めるごとに、崩れかけた外殻や、張り巡らされた古い橋、ぶら下がった鎖の輪郭を現していく。

タケルがふと立ち止まり、振り返った。

薄層の回廊の出口は、もう霞んで見えない。灰の向こうに、さっきまでいた細い通路の口が、黒い点のように沈んでいた。

「……戻れって言われたら、戻りたくなる距離だな」

「戻れって誰に言われる」

「外の白い手とか、都市の声とか、リタとか」

タケルは言ってから、自分で首を振った。

「いや。リタは言わないか。あの子、いつも自分が前に出ようとしたし」

アキトは、その言葉に小さく頷いた。

塔の中枢で、タケルを背負って走ることを選んだ少女。祈り機の命令を、自分の意志で上書きしようとした拍動。それを思い出すと、胸の空洞に、一瞬だけ温度が戻る。

塔の影が、またひとつ大きくなった。

そのシルエットは、都市の残骸の中で、唯一「まだ立とうとしている」構造物だった。錆びついた歯車も、折れた梁も、剥がれた外殻も、すべてが今にも崩れ落ちそうなのに、それでもなお天に向かって伸びようとしている。

「塔は、まだ終わってない」

タケルがぽつりと言った。

「終わらせるために行くのか、それとも動かすために行くのか分からないけど」

「どっちでもないかもしれない」

アキトは、塔を見上げながら答えた。

「終わらせないでも、動かさないでもいい。ただ、オレたちの足音を刻みに行く」

その言葉に、タケルは笑った。

「走る気、あるじゃん」

「走りたくはない。……でも、走るしかない場所があることぐらいは、知っている」

塔の影が、薄層の空にくっきりと立ち上がる。

その足元へ向かって、赤い線と、兄弟の足音とが、静かに集まり始めていた。
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