錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第二部 漂流編

第37話 塔の内部で

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塔の口をくぐった瞬間、
空気が変わった。

冷たさとも湿り気とも違う。
息を吸うと“砂を含んだ風”のように喉がざらつく。
だが、粉塵は感じない。

アキトはすぐに理解した。

(これは……空気じゃない。祈りの滓だ。)

塔が長い時間をかけて吐き出し、
空気に混じらず床に沈殿しきらなかった“祈りの粉”。

タケルがわずかに咳き込み、
手で胸を押さえた。

「……重い。息が重い。」

「祈りが混じってる空気だ。慣れろ。」

アキト自身の胸の穴も、
この空気に反応してざわついていた。

塔の内部は、外の廃墟とはまるで別の空間だった。

天井から床まで、
無数の“管”が走り、
その表面に祈り線が巻きつき、
線の奥で淡い光が脈を打っている。

タケルが小さな声で言った。

「……まだ動いてる。」

アキトも目を細める。

死んだ都市の残骸とは違う。
塔だけが、生きている。

いや、生きてしまっている。

祈り手を失っても、
都市が倒れても、
塔は止まらずに祈りの流れを待ち続けている。
待ち続けて、飢えて、
自分の内部だけで“自己脈動”を起こしている。

タケルは恐る恐る、
近くの管へ手を伸ばした。

「触っても、いい……?」

「やめろ。」

アキトは即座に腕を掴んだ。

「塔の内部は深層に近い。触れば、連れていかれる。」

タケルは息を呑んだ。

祈り線は色を失って灰色なのに、
近づくたびに皮膚がざわつく。
耳の奥に薄い音が生まれ、
骨の内側に静電気のような震えが走る。

塔内部の脈動が、
タケルだけではなくアキトの胸の穴にも入り込んでくる。

(主機――まだ動いている。)

祈りを吸い、
祈りを束ね、
都市から都市へと送っていた“塔の心臓”。

それが、まだ息をしている。

タケルが、管の根元にある“跡”に気づいた。

「兄さん……これ、見て。」

アキトも覗き込み、低く唸った。

床の金属が、
無数の足跡でえぐれていた。

深いもの、浅いもの、濃淡が混ざり――
途中で途切れている跡もある。

「外の巡礼路と違う。これは……」

アキトは言葉を選んだ。

「ここまで来た人間は、戻っていない。」

タケルは凍りついた。

「……塔が、吸ったの?」

「祈りが足りなくなるたびに、ここへ祈り手が送られたんだろう。
 祈り機だけじゃ足りなかった。人間そのものの“重さ”が必要だった。」

タケルの肩が震える。

「ここ……怖い。兄さん。怖い。」

アキトは弟の背に手を置いた。

「怖がっていい。恐怖は囁きを拒む防壁になる。」

しかしその直後――

タケルの呼吸が一瞬止まった。

「……兄さん、また来た……」

アキトの心臓が跳ねる。

「言うな。聞くな。」

だがタケルは首を振った。

「声っていうより……気配。
 “置いていけ”って……また、言ってる……。」

巡礼路で聞いた囁き。
ここではさらに濃く、
タケルの耳ではなく“胸の奥”に響く声になっていた。

塔内部の囁きは、外界の白い手よりも弱い。
深層の圧倒的な声よりもさらに薄い。
だが、その弱さが危険だった。

“疲れた人間ほど吸い込まれる声”。

タケルは胸に手を押し当て、
震えながら呟いた。

「兄さん……ここで、全部終わらせていいよって……」

アキトはタケルの腕を掴んで引き寄せた。

「タケル。よく聞け。
 塔の声を聞くな。塔の優しさは罠だ。」

タケルは唇を噛んだ。

「……分かってる。でも、優しい……。」

アキトは低く断言した。

「優しさで殺してくるのが一番危ない。」

タケルは息を震わせて頷いた。

塔の内部は、徐々に傾斜を帯びはじめる。
床がゆるやかに下へ向かって沈み、
中心の巨大な縦穴へと収束していく。

タケルが穴を見下ろし、息を呑んだ。

「……暗い。」

アキトは目を凝らす。

底は見えない。
だが確かに――赤い光が薄く瞬いている。

タケルの胸の奥が反応し、
微かな赤が灯った。

「兄さん……欠片が、動いてる。」

アキトも感じていた。

胸の穴が、
塔心臓の拍動と同期しはじめている。

(まるで……塔の“心臓”が呼吸している。)

塔の心臓は死んでいない。
リタの残響も――消えていない。

タケルがアキトの袖を掴む。

「兄さん……」

「分かってる。」

塔内部の脈動と、
欠片の残り火。

そして――

塔の奥から、
かすかな光が走った。

タケルが震える声を上げる。

「また来た……!」

白い影。

薄層で見た白い手とは違う。
もっと細く、神経のように素早い。

塔の“内部神経”が
何かを探るように駆け抜けていく。

アキトはその動きの微細さに
身体ごと粟立った。

(塔が……測っている。)

タケルの強さ、弱さ、祈りの量。
アキトの欠片の残響。
二人の“価値”を見ている。

タケルの足元から、
薄い声が立ち上る。

(――ここに置いていけ)

タケルの表情が溶ける。

アキトは叫んだ。

「タケル!! 戻れ!」

タケルの瞳が揺れ、
焦点が一瞬消えた。

「ごめん……兄さん……
 少し……楽になりたかった……」

アキトはタケルの肩を強く掴み、
自分の声を叩きつけた。

「タケル!! オレの後ろに来い!!」

タケルは息を呑み、
アキトの胸元にしがみついた。

アキトは言った。

「俺の声を聞け。
 囁きよりも、痛みよりも、
 “オレの足音”だけを追え。」

タケルは震えながら頷いた。

「……兄さんが走れって言う前に、言う。
 俺、まだ走れる。」

アキトは小さく笑った。

「ならいい。」

塔の縦穴から、
赤い光が少しだけ強まった。

塔全体が、
“動く準備”をしていた。

タケルが小さく言った。

「兄さん……聞こえる?」

アキトは目を閉じた。

胸の穴の奥で、
痛みではない、
温度が灯る。

少女の声が――
うっすらと混じる。

「……リタ……?」

タケルは確信の目をしていた。

「兄さん。リタ、呼んでる。」

アキトは息を吸った。

怖さでも、痛みでもない。
もっと深い何かが胸を掴む。

「行くぞ、タケル。」

「うん。」

塔の心臓が動き出す前に――
二人は、自分の足で“心臓層”へ降りていかねばならない。

黒い穴の前で、
アキトは言った。

「タケル。
 帰り道は、まだ残っている。
 走れば戻れる。」

タケルが笑った。

「兄さんがいるから、戻れる。」

二人は縦穴へ向かって踏み出した。

塔の脈動は、
もはや二人を止められないほど強まっていた。

深い闇の底で、
赤い光が、二人を待っていた。
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