錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第三部 祈り編

第44話 アキトの拒絶

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白い柱の群れの中で、音のない時間が続いていた。

さっきまでタケルの胸の奥をなぞっていた冷たい気配は、一旦は引いたように見えた。だが、引き際まで滑らかすぎて、むしろ「まだ終わっていない」と告げているようだった。

タケルはアキトの服をつかんだまま、静かに震えていた。
空の明滅は再び一定のリズムに戻っている。
風も、押すだけの力に戻っている。
変わったのは、ふたりの呼吸だけだった。

白い柱の一本が、ふいに内部から光を溜め込んだ。

乳白色の輝きが濃くなり、やがて薄い膜のように表面へ滲み出す。
次の瞬間、その内側に影が揺れた。

タケルが肩を跳ねさせる。

「兄ちゃん……また街の映像か……?」

アキトは無言で柱に向き直った。
さっき見せられた京橋機関街の断片が脳裏を過る。
だが、今度は違っていた。

白い柱の表面に浮かび上がったのは、歪んだ通路でも祈り機でもなかった。
人だった。

鉄の通路を走る足音。
薄暗い階層を駆け抜ける背中。
転び、立ち上がり、また走る姿。
塔の中で、見知らぬ誰かが命がけで走っていた。

音はないのに、息の苦しさや足の痛みだけが伝わってくる。
映像が次々に切り替わる。

階段を駆け上がる者。
落下していく者。
祈り機に取り込まれる者。
扉の前で座り込み、動かなくなる者。

アキトの喉がひりついた。

「……塔で死んでいった奴ら……。」

言葉が漏れた瞬間、別の柱が光を帯びた。

今度の映像には、薄く赤い線が絡んでいる。
心臓層より上か、下か、それすら分からない階層。
知らない顔ばかりだが、表情だけははっきり見える。

走るのを諦めて、祈り機にしがみついた者。
誰かを背負ったまま、最後まで足を止めなかった者。
叫んでいるのに、声が聞こえない唇。
笑っているのか、泣いているのか判別できない目。

タケルが呟く。

「……全部……見られてたんだな……。」

アキトは答えなかった。
胸の奥で、何かがきしむ音がしたような気がした。

別の柱が光る。
また別の柱。
白い森全体に、塔の中の断片が咲いていくようだった。

京橋機関街だけではない。
別の都市。
別の塔。
面影の似た構造物。
そのどれもで、人間たちが走り、倒れ、消えていく。

観客はいない。
拍手も歓声もない。
ただ「見ている何か」がいて、その目に映ったすべてがここに並べられている。

胸の奥に、冷たい意味が滑り込んできた。

——これは、おまえたちの世界が自分で選んだ結果だ。

言葉ではない。
けれど、そう理解する以外の受け取り方ができない感触だった。

タケルがアキトを見上げる。

「……今、何か……伝わってこなかったか……?」

アキトは歯を食いしばった。

「伝えようとしてるんだろうな。
俺たちの世界が、こうなる道を選んだって……。」

タケルの表情が揺れる。
柱の中で、またひとり、知らない誰かが倒れた。

次の瞬間、光が切り替わる。
今度の映像には、見覚えのある区画が映っていた。

「……京橋だ……。」

まだ塔の影が濃く覆う前の京橋機関街。
歯車の回る音と油の匂いが、映像だけなのに鼻の奥に蘇る。
人々が行き交い、祈り機はただの背景だった頃。

子どもの笑い声。
誰かが差し出す手。
床に落ちたボルトを拾う小さな背中。

タケルが息を飲んだ。

「兄ちゃん……これ、昔の京橋だよな……。
リタがまだ……」

言いかけて、言葉を飲み込む。
映像の端に、小柄な少女の姿が一瞬だけ映った気がした。
だが、光がすぐに書き換えられ、形はほどけてしまう。

別の意味が胸に割り込んでくる。

——見ていた。
——ずっと。
——塔が生まれる前も、崩れたあとも。

世界の外側の何かが、京橋の、塔の、人の、リタの、その前後までも、
ひとつの連続した「記録」としてここに並べている。

アキトの胸の熱が、急速に冷たくなっていった。

「……それで、“おまえたちの選択だ”って顔をして見せてくるのか……。」

細く呟いたつもりだった。
けれど、空気の中をそのまま震わせてしまったらしい。
白い柱たちの光が、一斉にかすかに揺れた。

タケルが不安そうにアキトを見上げる。

「兄ちゃん……?」

その瞬間、別の種類の意味がアキトの胸に流れ込んだ。

——これは、あなたたちの文明が、自ら積み上げてきた結果です。

塔も、祈りも、崩壊も。
すべて「自分たちが」選び、歩んできた道の延長線上だ、と。
そう告げられたように感じた。

アキトは短く笑った。
自分でも驚くほど乾いた笑いだった。

「文明、ね……。
そんなたいそうな意識、誰も持ってなかったと思うけどな。」

タケルが目を丸くする。

アキトの目は、白い柱を睨んでいた。
塔の中でも、深層でも、ここまで露骨に何かを憎んだことはなかった。

「選んだのは誰だ。
上の階で祈り機を増やすことを決めた奴か?
走れない奴を置いていった連中か?
それとも、走るしかなかった俺たち全員か。」

答えは返ってこない。
その代わりに、柱の映像が切り替わった。

今度映ったのは、塔の中で座り込んだまま動かない人々だった。
走ることを諦めた者。
祈り機のそばで蹲る者。
誰かの名前を呼びながら、動けなくなった者。

光の中に、意味が落ちてくる。

——彼らも、選びました。

アキトの中で何かがはっきりと切れた。

「選んでない。」

声が出た。
驚くほどはっきりした声だった。

タケルが息を呑む。
柱の光がかすかにまた揺れた。

アキトは一歩前へ出た。

「選んでない。
走れない子どもも、足を怪我した奴も、歳を取った人も、
誰かに置いていかれた奴も、誰かを置いていったまま苦しんで死んだ奴も……。
あいつらは“文明の選択”なんかしてない。」

言葉にした瞬間、胸の奥の熱が、いっそうはっきりと形を持った。

「走るしかなかった。
止まるしかなかった。
それだけだ。
おまえがどう呼ぼうと、あいつらはただ、生きようとして、死んだだけだ。」

返事の代わりに、タケルの胸の奥へ、静かな冷たさが触れた。

『……彼らは、走らないことも選べた。』

タケルが息を詰まらせる。
さっきまで自分に向けられていた囁きが、今度は別の形で戻ってきたことを理解した。

——走らなければ、塔に呑まれるだけだった。
——それを「選択」と呼ぶのか。

アキトは歯を食いしばる。

「おまえは楽な言葉を知ってるだけだ。
“結果”ってひとつにまとめれば、どんな顔も同じに見えるからな。」

柱の光が少しだけ強くなった。
意味が押し寄せてくる。

——私たちは、判断していません。
——ただ、記録し、分類し、保存しています。

アキトは笑った。
今度の笑いは、熱を含んでいた。

「それを“判断しない”って言うのか。
並べて、均して、“文明の選択”って名前を貼るのが、おまえにとっての中立か。」

タケルが袖を掴む手に力を込めた。

「兄ちゃん……やめたほうが……」

「やめない。」

アキトははっきりと言った。
逃げるわけにはいかなかった。

塔の中で、誰も彼もが「仕方なかった」の一言で飲み込まれていくのを見た。
それを、誰かが遠くから眺めて、「文明の選択」と呼んでいるらしい。

その言い方が、我慢ならなかった。

「おまえの目には、全部同じに見えるんだろう。
走ったやつも、倒れたやつも、祈ったやつも、祈れなかったやつも。
ログだとか、データだとか、そういう名前で並べて満足なんだろう。」

タケルが顔を上げる。
柱の映像の中で、また一人、知らない誰かが倒れた。

胸の奥へ、新たな意味が落ちてくる。

——それでも、結果は変わりません。
——塔は人を呑み込み、都市は崩れました。
——あなたたちの世界が、そういう構造を選んだのです。

タケルの唇が震える。

「兄ちゃん……もしかしたら……整理されたほうが楽なんじゃないか……。
こうやって見せられて、“全部そうだったんだ”ってまとめられたほうが……。
俺たちも、楽になれるんじゃないか……。」

その言葉は、タケル自身にとっても毒だった。
言い終えた瞬間、眉を寄せて苦しそうに目を閉じる。

アキトの頭が一瞬真っ白になった。

タケルの言葉は理解できる。
楽になりたい。
整理されたい。
分からない痛みをひとつの箱に詰めて、「仕方なかった」とラベルを貼ってしまいたい。

塔の中で何度も脳裏をよぎった誘惑だった。

だが——

「楽にされるくらいなら……」

声が喉を突き破って出た。

タケルがはっとして顔を上げる。

アキトは白い柱を睨んだまま、続けた。

「楽にされるくらいなら、俺はずっと迷っていたい。
分からないまま、苦しいまま、何度でも考え直して……。
それでも走りたい。」

静寂が落ちた。

空の明滅が、一瞬だけ止まったように見えた。
風も、押す力を忘れたかのように凪いだ。

タケルの胸の奥へ、さっきとは違う冷たさが触れる。

——それは非効率です。
——痛みを減らすことはできます。
——あなたの弟は、それを望んでいます。

タケルの喉から、無意識の声が漏れかける。
アキトはすぐさまその肩を掴んだ。

「タケル。
おまえが楽になりたいのは分かる。
俺だってそうだ。
でも、“楽にされる”のと、“自分で楽になる道を選ぶ”のは違う。」

タケルの目が揺れる。

「……俺、自分で選べるのかな……。」

「選ぶんだよ。」

それがどれほど無茶な要求か、アキト自身が一番よく知っていた。
塔の中で、状況に押し流されることしかできなかった瞬間がどれだけあったか。

それでも、言わずにはいられなかった。

白い柱の光が、ゆっくりと揺れる。

——あなたたちが迷い続ける間も、
——塔は人を呑み込み、都市は崩れました。

それは正しい。
だからこそ、腹が立った。

アキトは低く言った。

「分かってる。
でもな……おまえに全部まとめて“結果”って呼ばれるくらいなら、
俺たちは最後まで足を動かしていたい。」

タケルの目に、わずかに光が戻る。

「兄ちゃん……。」

「どれだけ観ていようが、
おまえに、あいつらの顔を一行でまとめさせたくない。」

映像の中で、塔の階段を必死で駆け上がる誰かがいた。
顔は知らない。
名前も知らない。
だが、その足の運びだけは、自分たちのものと同じように見えた。

タケルが、小さく息を吸う。

「……兄ちゃん。
俺……楽になりたいって気持ちは、消えないと思う。
でも……“全部ひとまとめにされるのは嫌だ”って、今は思った。」

その言葉に、アキトの胸が少しだけ軽くなる。

白い都市のどこかで、観測している何かが反応した気配がした。
空の呼吸がまた一定のリズムに戻り、風が、押す力を取り戻す。

だが、タケルの影はもう揺れていなかった。

観測都市の中枢は、ふたりを計り直している。
それでも——
アキトの拒絶と、タケルの揺れながらの選択は、
簡単には「結果」の列へ収まろうとしなかった。
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