錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第三部 祈り編

第46話 選ばされる未来

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白い道を歩くたび、空の呼吸がほんの僅かに遅れた。
塔の内部で聞いてきた脈動のような熱はない。
ここにあるのは、まるで――
「呼吸のたびに、兄弟の反応を測り取ろうとする何か」の気配だった。

タケルは時折、肩を震わせながら辺りを見回した。

「兄ちゃん……さっきから……背中の皮膚だけ、誰かに触られてるみたいな……そんな感じがする……。」

アキトも同じものを感じていた。
だが言葉にすればタケルをさらに怯えさせるだけだと判断し、視線だけで周囲を探る。

床は白く乾いているように見えるのに、時折、水面のような柔らかな沈み込みを返してくる。
沈んだ部分はすぐに元へ戻るのではなく、
兄弟の足跡の“体温の痕”だけをしつこく舐め取るように消えていく。

見られている――というより、
触れられて確かめられている。

そんな感覚が全身を包んでいた。

タケルが喉をつまらせるように言った。

「兄ちゃん……呼ばれてるわけじゃないのに……
背中の骨の間を指で押されてるみたいだ……。
何かが……俺らの“形”を探してる……。」

アキトは一歩、タケルの前へ出た。

「離れるな。
ここは……塔の中とも違う。」

そう口にした瞬間だった。

空の呼吸が――止まった。

光も影も消えたわけではない。
ただ、空が一斉に息をひそめたように“動きを拒んだ”。

あまりにも静かで、耳の奥が反響し始める。

タケルの呼気が乱れた。

「兄ちゃん……空が息してない……。」

アキトはタケルの腕を掴み、身構えた。
塔の深層でさえ感じなかった、不気味な“間”が生まれている。

床がふっと沈んだ。
沈んだというより、兄弟を支えていた重さだけが先に落ちていく感覚。

次の瞬間、白い世界が“左右に裂けた”。

裂けるというより――
布の織り目がほどけるように、
静かに、音もなく二つの方向へ開いていく。

タケルが叫んだ。

「兄ちゃん!何か引っ張られてる……!」

足元の感触が消え、
身体は宙にあるのに、重さだけが下へ落ちる。
逆に意識だけは地面側へ吸い寄せられ、
ふたつの方向へ分断されそうになる。

アキトはタケルの手を強く掴んだ。

「離すな!!」

引き千切られそうな力がふたりを襲う。
しかし、手だけは決して離れなかった。

裂けた世界の“向こう側”から、光が滲み出す。

白い靄が薄く立ち上がり、
左右で異なる色を帯びはじめる。

タケルの呼吸が震えた。

「兄ちゃん……あれ……
俺の……見たことある景色じゃない……。」

アキトは一度だけ深く息を吸い、タケルをかばうように肩を寄せた。

裂け目が光を孕み、世界が“二つの未来のようなもの”を立ち上げる。

左の光――乾いた色。
右の光――黒ずんだ影。

兄弟の足元に、二つの“これから”が静かに降りてくる。

アキトが低く言った。

「タケル……準備しろ。
来るぞ。」

世界が、兄弟に選ばせようとする“未来”を提示しはじめる。

ここから先は、
痛みと楽さ、孤独と安息、
逃げ道と責任――
そのすべてがふたりを引き裂こうとする“本番”だった。

左側の光が濃くなる。
乾いた空気が、タケルの方へだけ流れこんだ。

タケルは立ちすくんだ。
胸の奥が湿気を失うように軽くなる。
痛みの残る部分が、すーっと薄まっていく感覚。

アキトが肩に手を置く。

「タケル。見すぎるな。」

だが、タケルの目は光に奪われていた。

白い部屋が現れる。
家具は整えられ、窓から柔らかい光が差し込んでいるが――
影が妙に薄い。
まるで“重さそのものが存在しない部屋”。

椅子に、タケル自身が座っていた。

タケルは声にならない音を漏らした。

「……俺だ……兄ちゃん……。
でも……何も悩んでない顔してる……。」

椅子のタケルは、指先を膝の上に置き、
淡々と呼吸している。
その呼吸には揺れがない。
疲れも怒りも焦りも、どこにもない。

アキトはわずかに眉をひそめた。

「タケル。あれは、おまえの“痛みを抜いた形”だ。」

タケルは否定しようとして、できなかった。

胸が軽い。
視界が明るい。
あの椅子に座っている“自分”は、タケルがずっと欲しかった“楽な状態”だった。

タケルの喉が震えた。

「兄ちゃん……。
もし……俺の中から……
リタの顔を見たときの痛みとか……
全部消えたら……
俺……ああなるのかな……?」

アキトはタケルの手を握った。

「タケル。
痛みを消したら……思い出まで薄くなる。」

そのとき、椅子のタケルがこちらを見た。

笑った。
だがその笑みは、皮膚だけで貼りつけたような薄さだった。

タケルの心臓が跳ねた。

「……違う……。
俺、あんな笑い方しない……。
兄ちゃんの名前呼ばれた時とか……
俺、もっと……色んな感情出てたはずだ……。」

椅子のタケルの瞳の奥は、完全に平坦だった。

その平坦さこそが――怖かった。

タケルは胸を押さえた。

「兄ちゃん……俺……ひとつだけ……
分かってしまったことがある……。」

アキトが横顔を見る。

「何だ。」

タケルは涙をこぼした。

「俺……“楽なほう”に引っ張られた。
ほんの一瞬だけ……。
痛いことがなくなるなら……
そっちのほうが……正しいんじゃないかって……
思ってしまった……。」

アキトはタケルの肩を抱いた。

「引っ張られても、戻ってこれた。」

タケルは首を振った。

「戻ってこれたのは……兄ちゃんが手を離さなかったからだよ……。
もし……あのまま一人だったら……
きっと俺、あの椅子に座ってた……。」

椅子のタケルはまだこちらを見ている。
その目には揺らぎがない。
“迷う”という概念そのものが削ぎ落とされている。

タケルの声がかすれた。

「兄ちゃん……気づいたんだ……。
俺……あの椅子に座ってる“俺”のほうが……
リタの死を忘れてる……
兄ちゃんの苦しさも……薄れてる……。」

アキトの胸が痛んだ。

タケルは続けた。

「楽になるって……
思い出を手放すことなんだ……。」

椅子のタケルがまた笑う。
薄い、軽い、風に飛ばされそうな笑み。

タケルは涙をぬぐい、かすれ声で呟いた。

「兄ちゃん。
俺……あんなふうに“軽い自分”には……なりたくない……。
痛かったけど……
リタを思い出せなくなるほうが……もっと怖い……。」

アキトは強く頷いた。

「タケル。
それが“おまえの答え”だ。」

タケルが震える指で、椅子のタケルを指差す。

「兄ちゃん……お願い……
あれを……“未来の俺”だって……信じたくない……。」

その瞬間、
タケルの“楽な未来”は揺らいだ。

椅子に座るタケルの輪郭がわずかに歪み、
部屋の影が消え、
光だけが残った。

タケルが息を呑んだ。

「……兄ちゃん……今……
あいつ、俺の言葉に……反応した……。」

アキトはタケルの肩に手を置く。

「おまえが“拒んだ”。
だから、揺らいだんだ。」

楽な未来は、タケルが向き合った瞬間、
その存在の薄さを露呈した。

床が微かに震える。

今度はアキトの番だ。

タケルの“楽な未来”が崩れはじめたのと同時に、
右側の影が深まった。

湿った金属の匂いがした。
塔の内部ではない。
もっと荒れていて、もっと冷たい。

アキトの背中を、見えない爪がそっとなぞった。

タケルが振り返る。

「兄ちゃん……そっち……なんか……黒く沈んでる……。」

アキトが一歩前へ出た。
白い床は変わらないはずなのに、
足の裏が冷たく、石より固く感じた。

影が揺れる。
輪郭を持たない通路が立ち上がり、
アキト自身の“声”が重ね録りされたように響いた。

怒りににじんだ声。
叫び。
何かを失った瞬間の息。
タケルの名前を呼ぶ声。

すべてアキト自身の声。

タケルがアキトの袖を掴んだ。

「兄ちゃん……あれ……
兄ちゃんが……一人で耐えてる未来……?」

アキトの喉が詰まる。
言葉が出ない。
ただ、胸の奥に鈍い痛みが走る。

錆びた通路の奥。
ひとりきりで歩く“アキトらしき影”。
周囲は扉が閉じたまま、
誰もいない街のように静かだった。

影のアキトは何かを守ろうとしているように見える。
だが、その手は誰にも届いていない。
握り締めた拳には力が入りすぎて爪痕ができている。

タケルが震え声で言った。

「兄ちゃん……そんなの……だめだ……。
兄ちゃんが……こんなふうに一人になったら……俺……。」

アキトはタケルの肩に手を置く。

「タケル。
見る必要はない。
これは……俺の中の……最悪の形だ。」

しかし、影のアキトは振り返った。

目がアキトの目と重なる。

その瞳には“反応”がなかった。
怒りも、悲しみも、守ろうとする熱もなく、
ただ“動力だけで歩いている殻”のようだった。

タケルがすすり泣く。

「兄ちゃん……行かないで……
そんな未来に……俺を置いていかないで……。」

アキトはタケルの頭に手を添えた。

「置いていくわけない。
俺はそんな未来、選ばない。」

そう言った瞬間――

影のアキトの足元が崩れた。

通路の両脇の壁がひび割れ、
空気が押し寄せて、影を薄くしていく。

拒まれた未来は、形を保てない。(←この一行のみ挿入)

だが、影のアキトは最後の瞬間まで
“タケルの名前を、声にならない形で呼んでいた”。

タケルが顔を歪める。

「兄ちゃん……あれ……
俺を探してる……?」

アキトの胸が締めつけられる。

声は出ない。
影は消えかけているのに、
“失った誰かを探そうとする姿勢だけ”が残っていた。

タケルが泣きながら言った。

「兄ちゃん……
そんな未来、絶対だめだよ……。
俺……兄ちゃんを一人にしたくない……。
俺……兄ちゃんより先に“楽なほう”選びかけたくせに……
兄ちゃんが一人で沈むのだけは……
耐えられない……。」

アキトの喉が震える。

タケルの手が自分の袖を握りしめている。
力が強い。
泣いているのに、離す気がまったくない。

アキトはゆっくりタケルを抱き寄せた。

「タケル。
おまえが握ってる限り……
俺は沈まない。」

その言葉が落ちた瞬間、
影のアキトが完全に崩れた。

空気に吸い込まれるように消えていく。

タケルが乱れた息を整えながら言った。

「兄ちゃん……
俺……もし兄ちゃんがあっちに落ちていったら……
俺も追いかけてた……
だから……兄ちゃんも俺のこと……
置いてかないで……。」

アキトはタケルの背に腕を回し、
短く、しかしはっきりと答えた。

「置いていかない。
二人で行く。
何があっても。」

空の呼吸がゆっくり再開した。
だが、その律動は先ほどより重く、深い。
まるで兄弟の選択を飲み込んで、
“次の段階へ移行する準備”をしているようだった。

タケルは涙の跡を拭き、
まだ震えが残る足で一歩前へ出た。

「兄ちゃん……
怖かったけど……
ここまで来れてるの、兄ちゃんがいたからだよ……。」

アキトも横に並ぶ。

「タケル。
俺だって、おまえがいなきゃ……とっくに折れてる。」

ふたりは顔を見合わせ、
わずかに笑みが混じった。

次の瞬間、
左右の“未来”だった景色が完全に消え、
白い通路だけが残った。

何事もなかったような静寂。
しかし、その静けさこそがこの世界の“観察の気配”を強くした。

タケルが言う。

「兄ちゃん……
行こう。
リタの……“本物”のところへ。」

アキトは頷き、歩き出す。

その足跡が沈むたび、
白い床がわずかに脈動した。
まるで――
“観測を続けながら、兄弟の答えを記録している”
そんな呼吸。

ふたりの影が並び、
白い道の奥へと静かに伸びていく。
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