錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第三部 祈り編

第49話 帰還の決断

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白い通路は、何事もなかったかのように続いていた。

左右に裂け、兄弟に未来を突きつけていた像は完全に消え、
床も、空も、ただ均質な白に戻っている。

だが、静けさの質が違った。

音が消えたのではない。
最初から、音が存在していない。

タケルは、歩きながら何度も足の裏を意識した。
踏み出すたびに、白い床はわずかに沈み、
遅れて戻る。

それはもう、
誘う柔らかさではなかった。

「……兄ちゃん。」

声は低く、掠れている。
喉の奥に、まだ涙の熱が残っていた。

アキトは前を向いたまま答える。

「何だ。」

「さっきの……
俺……戻ったよな……?」

言い終わる前から、
その問いが自分を縛っているのが分かった。

アキトは、歩調を落とした。
完全に止まることはしない。
あくまで、並んだまま。

「戻った。」

「……本当に?」

アキトは一度だけ立ち止まり、
白い空を背にして振り返る。

「今、ここに立ってる。」

それだけだった。

だが、タケルには十分だった。
胸の奥に残っていた、
“軽すぎる感覚”が、少しずつ沈んでいく。

重さが戻る。
痛みも戻る。

それが、なぜか――安心だった。

再び歩き出す。

しばらくすると、
白い空の明暗の切り替わりが、わずかに速くなった。

呼吸のリズムが変わっている。

観測が、再開された。

タケルは、背中の皮膚がひくりと引きつるのを感じた。
見られている、というより、
測られている。

「……兄ちゃん。」

今度は、はっきり言った。

「見られてる。」

アキトは否定しない。

「最初からだ。」

違いは一つだけ。

今は、
「どうなるか」を見る段階ではない。

「どちらを選ぶか」を
突きつけてきている。

白い通路の先が、ゆっくりと開いた。

奥行きが生まれ、距離が測れるようになる。
遠近感が、はっきりする。

その中央に、縦に走る光の層が立ち上がった。

塔の祈り線とは違う。
だが、どこか似ている。

機械的で、
感情を持たないのに、
確実に“反応”する何か。

タケルの胸が、きゅっと締まった。

「……これ……
外に続いてる……。」

光の向こう側は見えない。
ただ、風がない。
温度がない。

空気が、存在していないように感じる。

「……行けば……
また“整理”される……?」

アキトは、即答した。

「される。」

タケルは、思わず笑ってしまった。

「……だよな……。」

笑いは、すぐに消える。

「……楽に……?」

「なる。」

迷いのない答え。

それが、余計に怖かった。

タケルは、光を見つめたまま言った。

「……でも……
戻れなくなる……よな……。」

アキトは、ほんの一瞬だけ間を置いた。

「戻らない、って選択になる。」

白い空の呼吸が、強まった。

光の層が、兄弟のほうへ近づく。
歩かなくても、距離が縮む。

タケルは、反射的に一歩下がる。

「……兄ちゃん……。」

声が震える。

「……あっち……
リタに……近い……のかな……。」

アキトは、ゆっくり首を横に振った。

「“近い形”は作られる。」

タケルの喉が鳴る。

「でも……?」

「本体じゃない。」

その言葉で、
胸の奥に、何かが沈んだ。

光の向こうに、
さっき見た“楽な自分”が浮かびかける。

迷いのない顔。
痛みのない表情。

その隣に、
リタの輪郭が重なろうとする。

「……兄ちゃん……。」

タケルは、深く息を吸った。

肺の奥が痛む。
それが、現実だと分かる。

「俺……
行きたくない……。」

言葉が、白い通路に落ちる。

空の呼吸が、乱れた。

光の層が、はっきりと揺らぐ。

アキトは、間を置かずに続けた。

「俺たちは、都市に戻る。」

断定だった。

迷いも、逃げもない。

「……戻れるの……?」

タケルの声は、かすれている。

「戻る道は、ある。」

「……なんで、分かる……?」

アキトは、タケルの目を正面から見た。

「ここが、
“戻るか、溶けるか”
を選ばせる場所だからだ。」

白い床が、わずかに脈動した。

まるで、その言葉を
記録しているかのように。

タケルは、胸に手を当てる。

痛みがある。
重さがある。

リタのことを思うと、
息が詰まる。

それでも。

「……兄ちゃん……。」

タケルは、震えながら言った。

「俺……
リタを……
“保存”された形じゃなくて……
あの街で……
生きてたリタとして……
覚えてたい……。」

その瞬間、
光の層が、はっきりと後退した。

拒絶。

観測対象が、
想定外の選択をした。

白い空が、低く唸るような圧を放つ。

アキトは一歩、前に出た。

「聞いてるだろ。」

誰に向けた言葉でもない。
だが、確実に“届く位置”へ向けた声。

「リタの本体は、
都市の心臓層に残ってる。」

タケルが息を呑む。

「俺たちは、そっちへ行く。」

白い世界が、歪んだ。

光の層が細くなり、
代わりに、足元の白が深さを持ち始める。

下へ。

落下の予感。

タケルは反射的に、
アキトの袖を掴んだ。

「……兄ちゃん……。」

アキトは、その手を強く握り返す。

「行くぞ。」

「……どこへ……?」

「帰る。」

次の瞬間、
床が完全に抜けた。

浮遊感。

白い空が遠ざかる。

落ちていく。
だが、恐怖より先に、
胸の奥に奇妙な確信があった。

これは、逃げじゃない。

選択だ。

タケルは、落下の中で叫んだ。

「兄ちゃん!!
俺……ちゃんと……
戻るって……
選んだよな!!」

アキトの声が、即座に返る。

「選んだ!」

闇が、白に混じる。

祈り線の残響が、
遠くで応える。

都市が、
兄弟の帰還を感知した。

落下は続く。

だが、その先には――
再び、走る場所がある。
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