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第三部 祈り編
第50話 落下する帰還
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床が抜けた瞬間、全てが凍りついた 。
音はなかった 。叫び声も、衝突音もない 。兄弟の身体は、白い世界から切り離され、ただ静かに深奥へと落ちていく 。
上下が反転するような感覚はない 。視界が回ることもない 。代わりに――重さだけが、ゆっくりと、しかし確実に彼らの肉体に戻ってくる 。それは、存在を証明されるような重さだった。
タケルは息を吸おうとして、失敗した 。肺が膨らまないのではない 。吸うという行為そのものが、自分の身体に遅れて伝わってくる 。
「……っ……」
喉が乾き、震え、声にならない 。落ちている 。理解はできる。だが、恐怖よりも先に、肉体が**「ここではない」**という戸惑いに支配されている 。
隣で、アキトの腕が伸びた 。落下しているはずなのに、その動きは鈍く、重い 。まるで粘度の高い水の中を動かしているような、強い抵抗がある 。
指先が触れた瞬間、タケルは強烈に引き寄せられた 。それは衝突ではない 。抱き寄せられた、という感覚とも違う 。
引力のような、彼らの**「向き」を定める**強大な力 。
「……大丈夫だ 。」
アキトの声は、はっきり聞こえた 。風切り音も、反響もない空間で 、その声だけが、正確な距離を保ってタケルの鼓膜に届く 。その声の芯の強さが、タケルを僅かに正気に引き戻した。
タケルは頷こうとして、自分の身体が思うように動かないことに気づく 。腕も、足も、「どこにあるのか」が曖昧だ 。意識が、肉体の輪郭に遅れて追いついてくる 。
白い空間が、遠ざかる 。
それは急に小さくなるのではなく、何層もの薄い膜のように剥がれ、薄れていく 。その奥に、細い線が、無数に重なり合って見えた 。
赤でも、白でもない 。くすんだ、曖昧な、だが生々しい色。
祈り線だ 。
都市の深層で見たものよりも、ずっと細く、頼りなく、脆そうに見える 。それでもそれは確かに存在し、彼らを待っていた 。
タケルの胸が、きゅうっと縮む 。
「……兄ちゃん……あれ…… 。」
アキトはすぐに答えなかった 。その視線は下――彼らが向かうべき行き先を、しっかりと捉えている 。
「……都市が、気づいた 。」
その言葉と同時に、祈り線が、獲物を捕らえるかのように、わずかに揺れた 。
一本、また一本と、兄弟の落下軌道に絡みついてくる 。絡みつく瞬間に、微かな軋み音が、空洞の空間に響いた。
触れた瞬間、タケルの視界に、別の感覚が堰を切ったように流れ込む 。
鉄の匂い。油の染みた床 。湿った空気 。遠くで鳴る、規則的な歯車の回転音 。それは、都市(塔)の内部の、紛れもない感触だった 。
だが、それは映像や音ではない 。色も、輪郭もない 。感覚だけが、断片的に、強すぎる圧力で戻ってくる 。
「……っ……!」
胸の奥が、急に熱くなる 。心臓が激しく脈動し、痛みすら覚える。
リタの声。笑い声。呼吸 。彼が捨ててきたはずの過去の全てが、順序も意味も失ったまま、圧倒的な情報量で押し寄せる 。まるで、頭の中身を無理やりかき混ぜられているようだ。
タケルは思わず、アキトの服を強く、強く掴んだ 。
「兄ちゃん……頭……ごちゃごちゃする……!割れそうだ……!」
指先に、確かな布の感触がある 。その具体的な**「現実」**だけが、彼を狂気から繋ぎ止める 。
アキトは、タケルの手を強く握り返す 。
「混ざってるだけだ 。まだ、お前の肉体に、記憶と意識が定着し切ってない 。」
祈り線が、さらに絡む 。ねじれたロープのように兄弟の全身を覆っていく。
今度は、アキトの側にも同じ感覚が流れ込んだ 。視界の端で、歯車の影が回る 。**止まった歯車。**動かないまま、音だけが残っている 。
アキトの喉が、わずかに鳴った 。
「……ここは……薄層と深層の**境界(ボーダー)**だ 。俺たちの意識が、物理世界に再構築されている最中だ 。」
それは説明ではなく 、状況を自らに確認する、独り言に近い 。
落下の速度が、変わる。速くなったのではない 。重さが、急激に増した 。重力に引かれる肉体が、確実に「下」を意識し始める 。
タケルは、増す重さに耐えるように歯を食いしばった 。
「……兄ちゃん……これじゃ走れないな…… 。」
声は、少し笑っていた 。自嘲でも、諦めでもない。現実への受け入れだった。
アキトは短く答える 。
「今は、な 。」
その言葉に、タケルはなぜか救われた気がした 。「走れない」という現実を否定されなかったからだ 。**「今」は無理でも、「いつか」**が可能になる、という未来の約束を聞いた気がした。
祈り線が、強く引く 。
今度は、はっきりと。落下が、特定の場所への収束に変わる 。
遠くで、重低音のような振動が響いた 。都市の心臓 。その鼓動が、全身を揺さぶる。
まだ見えない 。だが、確実に近づいている 。
タケルは、息を整えながら言った 。
「……兄ちゃん……俺……さ…… 。」
アキトは視線を外さずに答える 。
「何だ 。」
「さっき……外に行きかけた時……俺……すごく……軽かった 。」彼は白い世界での自由な浮遊感を思い出す。無責任で、楽な状態。
祈り線が、わずかに軋む 。
「……でも……今は……すごく重い 。体が、自分を取り戻そうとしてる 。」
アキトは、一瞬だけ目を伏せた 。その表情に安堵が走る。
「それが、お前が現実に、俺たちの場所に帰ってきてる証拠だ 。」
落下は、次第に激しい揺れへと変わる 。上下が、曖昧になる 。前後が、溶ける 。
記憶が、順番を失い、フラッシュバックする 。タケルの視界に、幼い頃の自分がよぎる 。
走っている 。理由も分からず、必死に 。**止まりたくなかった。**それだけが、今の記憶の断片と重なる 。
「……兄ちゃん 。」
声が、自然と強くなる 。揺れに負けないように。
「俺……また……ちゃんと走れるよな…… ?」
アキトは、迷わず、力強く言った 。
「走る 。」
その一言で、祈り線が、兄弟の周囲で強く脈動した 。まるで、その答えを待っていたかのように 。
視界の下方に、赤い光が見え始める 。白ではない 。冷たくもない 。それは、生きている都市の色 。
落下は、まだ終わらない 。
だが、もう――彼らが戻る方向は、確定していた 。
タケルは、アキトの手を握り直す 。
強く。自分の存在を確かめるように 。
「……兄ちゃん…… 。」
「何だ 。」
「……帰ってきたら……ちゃんと……自分の足で立てるかな…… 。」
アキトは、彼の手を少しだけ力を込めて握り返し、答えた 。
「立てる 。何度倒れても……何度でもまた、起きればいい 。」
祈り線が、兄弟を最後の膜のように包み込む 。
落下は、都市の内部への確実な帰還へと移行する 。
都市が、兄弟の帰還を――その存在を、強く受け入れ始めていた 。
音はなかった 。叫び声も、衝突音もない 。兄弟の身体は、白い世界から切り離され、ただ静かに深奥へと落ちていく 。
上下が反転するような感覚はない 。視界が回ることもない 。代わりに――重さだけが、ゆっくりと、しかし確実に彼らの肉体に戻ってくる 。それは、存在を証明されるような重さだった。
タケルは息を吸おうとして、失敗した 。肺が膨らまないのではない 。吸うという行為そのものが、自分の身体に遅れて伝わってくる 。
「……っ……」
喉が乾き、震え、声にならない 。落ちている 。理解はできる。だが、恐怖よりも先に、肉体が**「ここではない」**という戸惑いに支配されている 。
隣で、アキトの腕が伸びた 。落下しているはずなのに、その動きは鈍く、重い 。まるで粘度の高い水の中を動かしているような、強い抵抗がある 。
指先が触れた瞬間、タケルは強烈に引き寄せられた 。それは衝突ではない 。抱き寄せられた、という感覚とも違う 。
引力のような、彼らの**「向き」を定める**強大な力 。
「……大丈夫だ 。」
アキトの声は、はっきり聞こえた 。風切り音も、反響もない空間で 、その声だけが、正確な距離を保ってタケルの鼓膜に届く 。その声の芯の強さが、タケルを僅かに正気に引き戻した。
タケルは頷こうとして、自分の身体が思うように動かないことに気づく 。腕も、足も、「どこにあるのか」が曖昧だ 。意識が、肉体の輪郭に遅れて追いついてくる 。
白い空間が、遠ざかる 。
それは急に小さくなるのではなく、何層もの薄い膜のように剥がれ、薄れていく 。その奥に、細い線が、無数に重なり合って見えた 。
赤でも、白でもない 。くすんだ、曖昧な、だが生々しい色。
祈り線だ 。
都市の深層で見たものよりも、ずっと細く、頼りなく、脆そうに見える 。それでもそれは確かに存在し、彼らを待っていた 。
タケルの胸が、きゅうっと縮む 。
「……兄ちゃん……あれ…… 。」
アキトはすぐに答えなかった 。その視線は下――彼らが向かうべき行き先を、しっかりと捉えている 。
「……都市が、気づいた 。」
その言葉と同時に、祈り線が、獲物を捕らえるかのように、わずかに揺れた 。
一本、また一本と、兄弟の落下軌道に絡みついてくる 。絡みつく瞬間に、微かな軋み音が、空洞の空間に響いた。
触れた瞬間、タケルの視界に、別の感覚が堰を切ったように流れ込む 。
鉄の匂い。油の染みた床 。湿った空気 。遠くで鳴る、規則的な歯車の回転音 。それは、都市(塔)の内部の、紛れもない感触だった 。
だが、それは映像や音ではない 。色も、輪郭もない 。感覚だけが、断片的に、強すぎる圧力で戻ってくる 。
「……っ……!」
胸の奥が、急に熱くなる 。心臓が激しく脈動し、痛みすら覚える。
リタの声。笑い声。呼吸 。彼が捨ててきたはずの過去の全てが、順序も意味も失ったまま、圧倒的な情報量で押し寄せる 。まるで、頭の中身を無理やりかき混ぜられているようだ。
タケルは思わず、アキトの服を強く、強く掴んだ 。
「兄ちゃん……頭……ごちゃごちゃする……!割れそうだ……!」
指先に、確かな布の感触がある 。その具体的な**「現実」**だけが、彼を狂気から繋ぎ止める 。
アキトは、タケルの手を強く握り返す 。
「混ざってるだけだ 。まだ、お前の肉体に、記憶と意識が定着し切ってない 。」
祈り線が、さらに絡む 。ねじれたロープのように兄弟の全身を覆っていく。
今度は、アキトの側にも同じ感覚が流れ込んだ 。視界の端で、歯車の影が回る 。**止まった歯車。**動かないまま、音だけが残っている 。
アキトの喉が、わずかに鳴った 。
「……ここは……薄層と深層の**境界(ボーダー)**だ 。俺たちの意識が、物理世界に再構築されている最中だ 。」
それは説明ではなく 、状況を自らに確認する、独り言に近い 。
落下の速度が、変わる。速くなったのではない 。重さが、急激に増した 。重力に引かれる肉体が、確実に「下」を意識し始める 。
タケルは、増す重さに耐えるように歯を食いしばった 。
「……兄ちゃん……これじゃ走れないな…… 。」
声は、少し笑っていた 。自嘲でも、諦めでもない。現実への受け入れだった。
アキトは短く答える 。
「今は、な 。」
その言葉に、タケルはなぜか救われた気がした 。「走れない」という現実を否定されなかったからだ 。**「今」は無理でも、「いつか」**が可能になる、という未来の約束を聞いた気がした。
祈り線が、強く引く 。
今度は、はっきりと。落下が、特定の場所への収束に変わる 。
遠くで、重低音のような振動が響いた 。都市の心臓 。その鼓動が、全身を揺さぶる。
まだ見えない 。だが、確実に近づいている 。
タケルは、息を整えながら言った 。
「……兄ちゃん……俺……さ…… 。」
アキトは視線を外さずに答える 。
「何だ 。」
「さっき……外に行きかけた時……俺……すごく……軽かった 。」彼は白い世界での自由な浮遊感を思い出す。無責任で、楽な状態。
祈り線が、わずかに軋む 。
「……でも……今は……すごく重い 。体が、自分を取り戻そうとしてる 。」
アキトは、一瞬だけ目を伏せた 。その表情に安堵が走る。
「それが、お前が現実に、俺たちの場所に帰ってきてる証拠だ 。」
落下は、次第に激しい揺れへと変わる 。上下が、曖昧になる 。前後が、溶ける 。
記憶が、順番を失い、フラッシュバックする 。タケルの視界に、幼い頃の自分がよぎる 。
走っている 。理由も分からず、必死に 。**止まりたくなかった。**それだけが、今の記憶の断片と重なる 。
「……兄ちゃん 。」
声が、自然と強くなる 。揺れに負けないように。
「俺……また……ちゃんと走れるよな…… ?」
アキトは、迷わず、力強く言った 。
「走る 。」
その一言で、祈り線が、兄弟の周囲で強く脈動した 。まるで、その答えを待っていたかのように 。
視界の下方に、赤い光が見え始める 。白ではない 。冷たくもない 。それは、生きている都市の色 。
落下は、まだ終わらない 。
だが、もう――彼らが戻る方向は、確定していた 。
タケルは、アキトの手を握り直す 。
強く。自分の存在を確かめるように 。
「……兄ちゃん…… 。」
「何だ 。」
「……帰ってきたら……ちゃんと……自分の足で立てるかな…… 。」
アキトは、彼の手を少しだけ力を込めて握り返し、答えた 。
「立てる 。何度倒れても……何度でもまた、起きればいい 。」
祈り線が、兄弟を最後の膜のように包み込む 。
落下は、都市の内部への確実な帰還へと移行する 。
都市が、兄弟の帰還を――その存在を、強く受け入れ始めていた 。
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