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第三部 祈り編
第51話 心臓層の目覚め
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落下が終わる前に、赤い光が先に届いた。
熱でも火でもない。
都市の奥に沈んでいるはずの色が、暗闇の中で脈を打っている。
祈り線が絡んだまま、兄弟の身体を引く。
引かれているのに、落ちている。
「……来るぞ」
アキトの声は短い。
その声に返事をする余裕は、タケルにはなかった。
次の瞬間、重さが一気に戻った。
空気が肺に入る。
同時に、全身の関節が自分の位置を思い出す。
受け止められた。
床がある。
硬い。
だが石でも鉄でもない。
冷たいのに、どこか湿っている。
足の裏に、微かな震えが伝わってくる。
ふたりは膝をついたまま、しばらく動けなかった。
息を吸うたび、胸の奥が痛む。
戻ってきた痛みだ。
それが、現実だった。
タケルが顔を上げる。
目の前に広がっていたのは、空間ではなかった。
層だ。
都市の中心に折り畳まれた、巨大な内臓。
膨大な祈り線が、天井から床へ垂れ、床から天井へ逆流し、途中で絡まり、ほどけ、また結ばれている。
一本一本は細いのに、集まると壁になる。
呼吸のたびに、光の濃淡が変わる。
そして、その光の海の上に、止まった歯車が山になっていた。
大小さまざまな歯車。
欠けた歯、潰れた軸、曲がった爪。
それらが積み上がり、崩れ、また積み上がる。
誰かが捨てたのではない。
ここへ集められた、という重みがある。
タケルは喉を鳴らした。
「……ここが……」
言いかけて、言葉が落ちる。
名前をつけた瞬間に、何かがそれを記録してしまう気がした。
アキトは、立ち上がろうとして一度ふらついた。
だが転ばない。
歯車の山の手前で踏みとどまり、祈り線の揺れを見つめる。
祈り線は、塔の中で見たものよりも密だった。
塔の内部は、通路や階層がまだ人間の形をしていた。
ここは違う。
人間の通れる形にする必要がない場所だ。
都市の中心。
都市の心臓。
タケルも立ち上がった。
膝が笑う。
手が震える。
でも立てる。
自分の足で。
祈り線の光が一瞬だけ強くなる。
その光の中に、音が混じった。
耳で聞く音ではない。
頭の奥の硬い部分に触れてくる、記録の摩擦。
誰かの息。
誰かの足音。
誰かの叫び。
誰かの祈り。
断片が、順番を持たないまま流れ込んでくる。
タケルは反射的に耳を押さえた。
「……っ……また……来る……」
アキトがすぐにタケルの肩を掴む。
「見るな。掴まれる」
掴まれる、という言い方が正確だった。
ここでは記憶は思い出ではない。
触れれば、触れ返される。
タケルは肩をすくめ、息を整える。
歯車の山の隙間から、淡い光が漏れているのが見えた。
祈り線の光とは質が違う。
白い世界の光とも違う。
赤と白の中間。
灰のように薄い光。
「……あれ……何……」
タケルが言う前に、アキトの視線がそこへ吸い寄せられていた。
アキトの顔が、わずかに硬くなる。
「……差し込んでる」
タケルは首を傾げる。
「何が」
アキトは言葉を探さない。
代わりに、ゆっくりと指を上げた。
祈り線の密な天井。
そのさらに上、見えないはずの場所から、細い筋が一本だけ降りている。
光の筋。
まっすぐ。
揺れない。
祈り線の光は呼吸する。
歯車の山は沈黙する。
だが、その筋だけは、一定のまま落ちている。
タケルは背中が冷たくなった。
「……これ……外の……」
アキトは頷かない。
否定もしない。
「見てる」
短い言葉。
それだけで意味が通った。
白い世界は、こちらを観測している。
ここまで。
都市の最奥まで。
タケルは歯を食いしばった。
落下してきた時間が、身体の中で形を変えて怒りに近いものになる。
「……こんなとこまで……」
声が震える。
怖さと、屈辱と、悔しさ。
アキトはタケルの前に立つ。
背を向けるのではない。
横に立つのでもない。
少しだけ前。
盾の位置だ。
「黙れ、って言われてるわけじゃない」
タケルがアキトを見る。
「じゃあ、何」
アキトは歯車の山を見つめたまま言った。
「選ばせる。ここでも」
タケルは一瞬、息が止まる。
また選択。
また分岐。
だが今は違う。
白い世界が見せた未来ではない。
都市の中心で、実際に触れられるものがある。
祈り線の光が、ふたりの足元で微かに集まる。
線が集まっても、道にはならない。
ここはレーンではない。
まだ走る場所ではない。
ただ、集まる。
タケルは、その集まり方に見覚えがあった。
塔の深いところで、似た揺れを見た。
あのとき、声が聞こえた。
あの声に似たものが、ここにもある。
似せた声。
似せた優しさ。
引き戻すための形。
タケルは唇を噛む。
「……また……」
言いかけて、飲み込む。
言葉にしたら、こちらから縫い付けてしまう。
アキトがタケルの表情の変化だけを見て、低く言う。
「来てるな」
タケルは頷いた。
「……近い」
近い、というのは距離ではない。
祈り線の光が、胸の内側へ触れてくる感覚。
息の仕方を変えられそうになる感覚。
タケルは自分の胸を押さえた。
心臓が早い。
それでも止まらない。
アキトは歯車の山の脇に一歩踏み出す。
踏み出した瞬間、祈り線が少しだけ避ける。
避ける、というより、流れが変わる。
歯車の山の奥に、空洞があった。
巨大な空洞。
中が暗いのに、赤い光の反射だけが漂っている。
タケルが遅れてついていく。
足元の床は硬い。
だが時々、内側から脈が伝わる。
踏むたびに、都市が生きていることを思い知らされる。
空洞の手前で、ふたりは止まった。
そこには、扉がない。
門もない。
ただ、密度が変わっている。
空気が、重い。
祈り線が、密すぎて、向こう側の光が濁って見える。
タケルは小さく息を吐く。
「……ここ……」
アキトは答えない。
目が、祈り線の奥の一点に固定されている。
タケルも、その一点を見る。
赤い光の中に、影がある。
人の形ではない。
だが、輪郭だけが、人の形の名残を持っている。
近い。
まだ触れない。
でも、ここまで来た。
タケルの喉が震えた。
「……リタ……?」
声に出した瞬間、祈り線がわずかに脈動した。
胸の奥に、痛みが走る。
名前が、鍵になる。
アキトがすぐにタケルの手首を掴み、静かに引く。
「まだだ」
強くはない。
だが逆らえない確信がある。
タケルは唇を噛み、頷く。
アキトは祈り線の密な層を見上げる。
そこに差し込む細い光の筋。
観測の筋。
そして、歯車の山。
止まったままの時間の塊。
全部がここに集まっている。
都市の記録も、塔の記憶も、白い側の視線も。
ここで、混ざっている。
タケルは、アキトの袖を掴んだ。
落下のときと同じ握り方。
現実を繋ぐ握り方。
「兄ちゃん……」
アキトは視線を戻さずに答える。
「ここからだ」
短い言葉。
だが、重い。
祈り線の光がまた一段、濃くなる。
差し込む光の筋が、ほんの僅かだけ強くなった気がした。
見ている。
待っている。
選ばせるために。
ふたりは、歯車の山の影の中で、呼吸を合わせた。
まだ走れない。
でも、止まらない。
祈り線の奥の影が、微かに揺れた。
声ではない。
言葉でもない。
拍動に似た光のゆらぎが、ふたりの胸の奥へ触れてきた。
熱でも火でもない。
都市の奥に沈んでいるはずの色が、暗闇の中で脈を打っている。
祈り線が絡んだまま、兄弟の身体を引く。
引かれているのに、落ちている。
「……来るぞ」
アキトの声は短い。
その声に返事をする余裕は、タケルにはなかった。
次の瞬間、重さが一気に戻った。
空気が肺に入る。
同時に、全身の関節が自分の位置を思い出す。
受け止められた。
床がある。
硬い。
だが石でも鉄でもない。
冷たいのに、どこか湿っている。
足の裏に、微かな震えが伝わってくる。
ふたりは膝をついたまま、しばらく動けなかった。
息を吸うたび、胸の奥が痛む。
戻ってきた痛みだ。
それが、現実だった。
タケルが顔を上げる。
目の前に広がっていたのは、空間ではなかった。
層だ。
都市の中心に折り畳まれた、巨大な内臓。
膨大な祈り線が、天井から床へ垂れ、床から天井へ逆流し、途中で絡まり、ほどけ、また結ばれている。
一本一本は細いのに、集まると壁になる。
呼吸のたびに、光の濃淡が変わる。
そして、その光の海の上に、止まった歯車が山になっていた。
大小さまざまな歯車。
欠けた歯、潰れた軸、曲がった爪。
それらが積み上がり、崩れ、また積み上がる。
誰かが捨てたのではない。
ここへ集められた、という重みがある。
タケルは喉を鳴らした。
「……ここが……」
言いかけて、言葉が落ちる。
名前をつけた瞬間に、何かがそれを記録してしまう気がした。
アキトは、立ち上がろうとして一度ふらついた。
だが転ばない。
歯車の山の手前で踏みとどまり、祈り線の揺れを見つめる。
祈り線は、塔の中で見たものよりも密だった。
塔の内部は、通路や階層がまだ人間の形をしていた。
ここは違う。
人間の通れる形にする必要がない場所だ。
都市の中心。
都市の心臓。
タケルも立ち上がった。
膝が笑う。
手が震える。
でも立てる。
自分の足で。
祈り線の光が一瞬だけ強くなる。
その光の中に、音が混じった。
耳で聞く音ではない。
頭の奥の硬い部分に触れてくる、記録の摩擦。
誰かの息。
誰かの足音。
誰かの叫び。
誰かの祈り。
断片が、順番を持たないまま流れ込んでくる。
タケルは反射的に耳を押さえた。
「……っ……また……来る……」
アキトがすぐにタケルの肩を掴む。
「見るな。掴まれる」
掴まれる、という言い方が正確だった。
ここでは記憶は思い出ではない。
触れれば、触れ返される。
タケルは肩をすくめ、息を整える。
歯車の山の隙間から、淡い光が漏れているのが見えた。
祈り線の光とは質が違う。
白い世界の光とも違う。
赤と白の中間。
灰のように薄い光。
「……あれ……何……」
タケルが言う前に、アキトの視線がそこへ吸い寄せられていた。
アキトの顔が、わずかに硬くなる。
「……差し込んでる」
タケルは首を傾げる。
「何が」
アキトは言葉を探さない。
代わりに、ゆっくりと指を上げた。
祈り線の密な天井。
そのさらに上、見えないはずの場所から、細い筋が一本だけ降りている。
光の筋。
まっすぐ。
揺れない。
祈り線の光は呼吸する。
歯車の山は沈黙する。
だが、その筋だけは、一定のまま落ちている。
タケルは背中が冷たくなった。
「……これ……外の……」
アキトは頷かない。
否定もしない。
「見てる」
短い言葉。
それだけで意味が通った。
白い世界は、こちらを観測している。
ここまで。
都市の最奥まで。
タケルは歯を食いしばった。
落下してきた時間が、身体の中で形を変えて怒りに近いものになる。
「……こんなとこまで……」
声が震える。
怖さと、屈辱と、悔しさ。
アキトはタケルの前に立つ。
背を向けるのではない。
横に立つのでもない。
少しだけ前。
盾の位置だ。
「黙れ、って言われてるわけじゃない」
タケルがアキトを見る。
「じゃあ、何」
アキトは歯車の山を見つめたまま言った。
「選ばせる。ここでも」
タケルは一瞬、息が止まる。
また選択。
また分岐。
だが今は違う。
白い世界が見せた未来ではない。
都市の中心で、実際に触れられるものがある。
祈り線の光が、ふたりの足元で微かに集まる。
線が集まっても、道にはならない。
ここはレーンではない。
まだ走る場所ではない。
ただ、集まる。
タケルは、その集まり方に見覚えがあった。
塔の深いところで、似た揺れを見た。
あのとき、声が聞こえた。
あの声に似たものが、ここにもある。
似せた声。
似せた優しさ。
引き戻すための形。
タケルは唇を噛む。
「……また……」
言いかけて、飲み込む。
言葉にしたら、こちらから縫い付けてしまう。
アキトがタケルの表情の変化だけを見て、低く言う。
「来てるな」
タケルは頷いた。
「……近い」
近い、というのは距離ではない。
祈り線の光が、胸の内側へ触れてくる感覚。
息の仕方を変えられそうになる感覚。
タケルは自分の胸を押さえた。
心臓が早い。
それでも止まらない。
アキトは歯車の山の脇に一歩踏み出す。
踏み出した瞬間、祈り線が少しだけ避ける。
避ける、というより、流れが変わる。
歯車の山の奥に、空洞があった。
巨大な空洞。
中が暗いのに、赤い光の反射だけが漂っている。
タケルが遅れてついていく。
足元の床は硬い。
だが時々、内側から脈が伝わる。
踏むたびに、都市が生きていることを思い知らされる。
空洞の手前で、ふたりは止まった。
そこには、扉がない。
門もない。
ただ、密度が変わっている。
空気が、重い。
祈り線が、密すぎて、向こう側の光が濁って見える。
タケルは小さく息を吐く。
「……ここ……」
アキトは答えない。
目が、祈り線の奥の一点に固定されている。
タケルも、その一点を見る。
赤い光の中に、影がある。
人の形ではない。
だが、輪郭だけが、人の形の名残を持っている。
近い。
まだ触れない。
でも、ここまで来た。
タケルの喉が震えた。
「……リタ……?」
声に出した瞬間、祈り線がわずかに脈動した。
胸の奥に、痛みが走る。
名前が、鍵になる。
アキトがすぐにタケルの手首を掴み、静かに引く。
「まだだ」
強くはない。
だが逆らえない確信がある。
タケルは唇を噛み、頷く。
アキトは祈り線の密な層を見上げる。
そこに差し込む細い光の筋。
観測の筋。
そして、歯車の山。
止まったままの時間の塊。
全部がここに集まっている。
都市の記録も、塔の記憶も、白い側の視線も。
ここで、混ざっている。
タケルは、アキトの袖を掴んだ。
落下のときと同じ握り方。
現実を繋ぐ握り方。
「兄ちゃん……」
アキトは視線を戻さずに答える。
「ここからだ」
短い言葉。
だが、重い。
祈り線の光がまた一段、濃くなる。
差し込む光の筋が、ほんの僅かだけ強くなった気がした。
見ている。
待っている。
選ばせるために。
ふたりは、歯車の山の影の中で、呼吸を合わせた。
まだ走れない。
でも、止まらない。
祈り線の奥の影が、微かに揺れた。
声ではない。
言葉でもない。
拍動に似た光のゆらぎが、ふたりの胸の奥へ触れてきた。
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