ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第22話 滋賀県成分充填120%

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ご入居者様各位

最近、当アパート周辺にて鳥による糞害の報告が増えております。
洗濯物などを干される際は、十分ご注意くださいますようお願いいたします。

大家
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そんな手書きの注意書きがドアのポストに投函されていたのは、滋賀県から帰ってきた翌日のことだった。
3回生初日、午前中のコマしか入っていなかった僕は、もうすぐバイトから帰って来る舞子に、昨日たねやで買ってきたバームクーヘンを食べさせてやろうと切り分けてケーキ皿に取り分けた。

椅子に腰掛け、煙草に火を点けながら、大家さんからのチラシを改めて眺める。
そう言えば、先月末に家賃を払いに行ったときにもそんな事を言っていた。
料理は好きだが洗濯物を干すのが嫌いな僕はコインランドリーしか使っていなくて、舞子が来てからもそれぞれがコインランドリーに行くことになっていたので全く気づいていなかったが、窓の外に洗濯物を干している住人は、結構困っていたらしい。
洗濯物の上に布をかけて干したり、薄手の小さなものなら夜に干したり、結構なストレスと手間だろう。
とは言え、僕には直接関係ないことなので「ふ~ん」くらいにしか思っていなかった。

「ただいま~」

舞子が帰ってきた。
彼女が洗面所に手を洗いに行っている間に、お湯を沸かす。

「いつものミルクティでいいかな?」

「うん。ありがとう。ハルくんはコーヒー?」

「いや、バームクーヘンの時は違うねんなー」

そういって僕は、小さなミルクパンにパックから牛乳を注いで火にかけた。

「ホットミルク?」

「うん。バームクーヘンには牛乳が最高やねん」

「そうなんだ…あ、私もそれ!今からいい?」

僕はうなずいてミルクパンに牛乳を足した。
ミルクが噴かないように気を付けて火を止め、2つのマグカップに注ぐ。

「舞子、ミルク甘くする?バームクーヘンも甘いからかなり甘くなるんやけど」

「んー、じゃ、私はミルクだけでまず試してみる。いいかな?」

僕は、冷蔵庫からメープルシロップの瓶を出し、蓋を開けてミルクに一筋垂らした。
ホットミルクにはメープルシロップに限る。

「いただきます!」

2人で手を合わせて言う。
お店はもちろん、家でも、一人でも、誰もいなくても、いただきますを言うという僕の習慣は、偶然にも舞子も同じだった。
こういう小さな一致が、共同生活にはとても大事だ。

「わ。美味し!」

舞子が小さく驚きの声を上げる。

「なにこれ?すっごいしっとり。美味しい!」

「やろ?」

「ハルくん、これ本当にバームクーヘン?私の知ってるのとはぜんぜん違うんだけど!周りの砂糖もカリカリしててすごい美味しい!こんなの初めて食べた」

「な?わざわざ買いに行く必要のあるバームクーヘンやろ?そこにミルクを一口、どうぞ」

舞子がマグカップを口に運ぶ。

「うわ。本当だ。美味し!」

「メープル入れる?」

「うん、それもちょっとだけお願い」

僕は舞子のホットミルクにメープルを少し垂らした。
舞子はフォークでもう一口。

「これはいつもみたいにほっぺたにいっぱいに入れるもんじゃないね。入れたいけど」

そう笑って、マグカップを両手で持ち口に運ぶ姿は、それはそれでヒマワリの種を食べるハムスターみたいだった。

「ほんと、美味し」

窓の外は、昨日の琵琶湖の穏やかな天気の続きのように、柔らかな光が満ちていた。

◇    ◇    ◇    ◇

昨日、アパートに帰ってきたのは夕方の6時過ぎだった。
車からたくさんの自分へのお土産のビニール袋を持って部屋に戻ると、僕はまずお米を研いで炊き始めた。

僕はご飯を炊くのに炊飯器は使わない。
入学してすぐの頃、日本橋まで行って道具屋筋で買ってきた炊飯用の土釜があるのだ。
引っ越しのときに親が買ってくれた2合炊き炊飯器で炊いてみたごはんがあまりにも美味しくなくて、悲しい気分になるほどに美味しくなくて、学校の図書館で炊飯についての本まで探して調べた。
総合大学の図書館というものは、そんな本でも置いているものだ。
その中で紹介されていたのが、炊飯用の、いわゆる「飯炊き土釜」だったのだ。
飯炊き土釜で炊いたご飯は最高だった。
ずっと美味しいと思って食べてきた、実家のガス炊き炊飯器のご飯よりも美味しかった。
それ以来、ずっとこいつだ。

お米を土釜に入れて、まず水を注ぎ、一回目はすぐに流す。
右手を入れ、掌でぎゅっぎゅっと米を押し回す。
親指の付け根が、水の中の米に優しく圧をかけるたびに、細かな白い濁りが立ちのぼった。
水を注ぎ、大事なお米を一粒たりとも無駄にしないように手で受けながら水を捨てる。
それを繰り返すこと4回ほど、すすいだ水がほとんど白くならなくなったら、次は米を平らに均して水を注ぐ。
米の上に手を平らに入れてちょうど浸かるくらいがベストの水加減だ。
陶器の中蓋、そして外蓋と釜に置いていき、コンロの火を点ける。
強火で10分、粘りのある水分が外蓋の上に溢れ出てきたら火を弱めて7分。
僕は左腕のGショックで時間を測り、火を止めた。
そこから更に10分蒸らせば炊き上がりだ。
外蓋を取ると、むせ返るような炊きたてご飯の香りが立ち上る。
続いて中蓋。
まばゆいばかりに輝く真っ白のご飯。
一粒一粒がピンと立ち、芳香をはらんだ湯気の立つご飯の表面にはぽつぽつと、いわゆる「蟹の穴」が無数に空いている。
僕は、木のしゃもじを慎重に底まで差し込み、ご飯を返した。
ああ、一刻も早くお茶碗に盛らねばならない。

「わあー、いい匂い。いつもながらハルくんの炊くご飯の匂いは最高だね」

舞子が言う。

「今日買ってきた、鮎とかモロコとかゴリとかを、パック開けてお皿に出して。」

ご飯をよそいながら舞子にお願いした。
赤こんにゃくもお出汁で炊こうかと思ったが、僕の腹の虫がその時間を許してくれそうにないので、次のお楽しみだ。

「これ、すっごい黒いね。あ、こっちは黒くない…小さいエビとお豆さん?」

「うん。川エビっていう淡水のエビ。それを、大豆と一緒に甘く炊いてある。そっちの真っ黒なんは、醤油と砂糖やな」

「へー。私初めて食べるよ。このゴリ?っていうの?すごい小さい。」

「稚魚やからな。もっと小さい時に捕って炊いた『うろり』っていうのもあるで。それも最高や。」

説明しながらも、もう待ち切れない。手を合わせて、

「「いただきます!」」

まずは稚鮎を一口。
これも鮎の稚魚なので、一口で一匹だ。
お隣のモロコとほぼ同じ大きさ。
モロコはほろりと甘く、鮎は僅かな苦みが味に深みを足している。

「わ!うんま!」

舞子の目が真ん丸になる。

「やろ?あ、忘れてた」

僕は台所に立ち上がり、引き出しから小さいお匙を持ってきた。

「このゴリはな、こうやって行儀悪くご飯の上に乗せて、わーってかっこむんが最高やねん」

舞子もそれに倣う。
あっという間に一杯目のお茶碗は空になった。
2人でおかわりをよそう。

「次はこのエビ豆な。これも行儀悪く、たっぷりとすくってご飯に乗っけて、お箸で混ぜ込んで『エビ豆ごはん』にしてしまうねん」

ああ、たまらない。
箸が止まらないとはまさにこのことだ。
舞子も、ほっぺたをパンパンにして喋らなくなっている。

2杯めもあっという間になくなった。

「さ、そろそろアレ行くか…」

「アレ?」

「そう。アレ。食べる寸前まで真空パック開けたらあかんやつ。開けてから冷蔵庫なんか入れたら、冷蔵庫中あいつの匂いになってまう」

そういって僕は、冷蔵庫から鮒ずしのパックを持ってきた。
キッチンバサミで真空パックの封を切る。
瞬間、鮮烈な香りが部屋に充満した。
酸味を伴った独特の匂い。
舞子は大丈夫だろうか?
滋賀県人でも半分くらいの人はこの匂い故に食べられないと言うソウルフード。

「わあ!いい匂い!酸っぱいの大好き!」

予想に反して、舞子からものすごく肯定的な声が返ってきた。

「お。これをいい匂いと感じるとは、お主、やるな?」

「だって、いい匂いじゃん!これはどうやって食べるの?」

「これはね、僕は小学生の頃からお茶漬けで食べるのが一番好きやねん。あ、忘れたてた!すぐにお茶沸かすわ!」

台所のヤカンに水を入れて火にかけ、一昨日祇園で買ってきた宇治の煎茶の葉を急須にいれる。
沸騰したら2分程冷まし、急須に注ぐ。

「あ、そろそろお椀にごはんよそっておいて」

そう舞子に頼んで、急須をテーブルに運んだ。
葉が開くまでの間に、鮒ずしを3切れ、ご飯の上に並べる。
あ、今度はラップを忘れた。取りに行く。
1分ほど待った煎茶を、上から注ぐ。
切り身の周りの飯(いい)がほとび、オレンジ色の卵はつやつやと一段と輝く。
香りが更に鮮烈に広がった。

「ここで、ラップをかけて1分。」

「なんかの儀式みたいだね」

そう。これは儀式だ。
ラップを外したら、お醤油を2~3滴垂らす。かけすぎては台無しだ。

「さ、召し上がれ。」

舞子はお茶碗を左手に持ち、箸を取り上げてまずは鮒ずしを一口。

「わ!!!すごい!!!強烈だけどめちゃめちゃ美味しい!」

「おう!すごい!才能あるわ」

何の才能なんだか。

そこからはもう一気、僕も舞子もお茶碗の縁に唇を当て、お茶とご飯と鮒ずしの三位一体をひたすらかきこむ。
鮒ずしの酸味、発酵した複雑な旨味、ご飯の甘さ、煎茶の渋み。
全てが渾然となって、もはやこれは食事ではなく祈りだ。

「ふう~。美味しかった!ごちそうさま!滋賀県すごいね!」

舞子が言う。
3合炊いたご飯は、もう土釜がすっからかんだ。

「ああ、堪能した~!滋賀県成分充填120%や!」
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