ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第28話 XYZと三国同盟の破綻

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「XYZ」


なんだこれは?
ノートの切れ端にクレヨンで描かれた文字が冷蔵庫に貼ってある。

日曜の朝、目を覚ますと妙に部屋の中が静かだった。
日曜日はいつも朝からパタパタしているか、押し入れの巣でゴロゴロ文庫本を読んでいるか、
いずれにせよ何らかの存在感を主張している舞子の気配が、今日はない。

だいたい今何時だ?

「わ!もう10時やんけ!」

時計を見た僕は、1人で叫んで飛び起きた。
今日は舞子を嵐山に連れて行ってやる予定だったはずだ。
朝7時には起きてちゃんとした朝食を作り、遅くとも8時半には車で出発するつもりだったのだ。
そうしないと、気候のいいこの時期の嵐山なんて、車を停める場所さえなくなってしまう。

「やってもたー」

僕は大慌てで歯を磨き、顔を洗い、トイレに行き、いつもの501とヘインズに着替えて、ビーンブーツの紐を締めて部屋の外に飛び出した。
舞子はどこだ?
ていうか「XYZ」ってなんだ?シティハンターか?何の依頼だ?

アパートの自転車置き場を見ると、舞子の自転車がなかった。
かわりに、大きな黒猫がそこに香箱を組んでいた。

「デルタか」

何の確証もなかったがなぜか僕は直感的にそう思った。
自転車にまたがる。
高野川沿いに出て河合橋まで行くと、果たして、橋をわたった向こうの歩道に、舞子の自転車が停まっているのが見えた。
僕はホッとしてその横に自分の自転車を停めて河原に降りていった。

◇    ◇    ◇    ◇

「ちょっとイズミヤ行ってくるね!」

昨日、舞子がそう言ったのは、夕方6時を過ぎた頃だった。

「ん?もう1時間もせんと閉まるけど、何買いに行くん?」

「シャンプーが昨日なくなったのを思い出したの。今日も銭湯行くでしょ?あと、キャットフードも。」

「オッケー。もう閉まるから急いで、でも気をつけていってらっしゃい」

「はーい」

舞子が買い物に出かけている間に、ご飯を炊いておこう。
土釜炊飯の唯一の欠点は、炊いている間、あまり目が離せないことだ。

10分、7分、10分。

ちょっとややこしい料理に熱中したり、テレビに気を取られたりしていると、あっという間に時間をオーバーする。
僕はGショックの針を眺めながら、今日は何を作ろうかと考えていた。
確か冷蔵庫にチクワがあったはずだ。舞子の大好きな磯辺揚げでも揚げようかな。
そんな事を考えていると、あっという間にご飯は蒸らし時間に入った。

「ただいまー!ねえハルくん!この前の魚フライとフライドポテト、食べたくない?」

そう言いながら舞子が帰ってきた。
マサキの店のフィッシュ&チップスがよほど気に入ったらしく、舞子はよく「あれ美味しかったねー」と口にしていた。
うん。土曜の夜だしそれは悪くない案だ。
店も大いに賑わっていることだろう。
それに僕もなんだかフィッシュ&チップスが食べたくなってきた。
炊き上がったご飯は、帰ってきてからラップして冷凍してしまえばいい。

「あ、もしかしてハルくん、なにか作り始めてた?」

「いや、大丈夫。ご飯だけ炊いたけど、冷凍すればいいし、他はまだ何も手もつけてない。それより、僕も食べたくなった。魚フライとフライドポテト。モルトヴィネガーをたっぷり振りかけて」

そうと決まれば話は早い。
すぐに出かけよう。
舞子は今日は僕のコムサの黒いトレーナーを着ている。
この前入店実績は作ったし、もうこの短パンにポニーテールの姿でも問題ないだろう。

「また怖いお姉さんいたりして」

と笑う舞子に、頭の上に角のように指を2本突き出す仕草をする。

「きゃー」

舞子が笑う。


思った通り店は大繁盛だった。
おかげで僕と舞子のフィッシュ&チップスは、出てくるまで30分もかかった。
今回は一皿ずつ。
半分ほど食べたところで、間違いなく物足りなくなることを確信して、早めにミートパイもカウンターのマサキに注文した。

腹を満たして、店内を見渡すと、珍しくちょうどダーツのレーンが空いている。
僕は舞子を促して、他の人に取られる前にボードの前をキープし、カウンターのマサキから3本のダーツを受け取った。

「舞子、ダーツ教えてあげるわ。やったことある?」

「ううん。吸盤でくっつくおもちゃのはお兄ちゃんと遊んだ覚えがあるけど、こんなちゃんとしたカッコいいのは見たのも初めて。」

舞子は、ボードの方を見て少し目を丸くした。緑と赤と白と黒の円がいくつも重なっていて、中心にぽつんと赤い点がある。

「大丈夫、むずかしないよ。まずは構え方だけね」

僕は自分の右足を、床のスローラインぎりぎりのところに出して見せた。

「この線からは足出したらあかん。右利きなら、右足を前に出して、体をちょっとひねる。で、利き手でダーツを軽く持って、目の高さまで上げる」

「こう?」

舞子はまっすぐ立ったまま、ダーツをピンと前に伸ばした。

「いや、そんな敬礼みたいにせんでもええ(笑) 肘は曲げたままでええよ。肘を支点に、前にすっと押し出す感じ」

「すっと、ね……」

舞子は構え直して、少し眉を寄せながら真剣な顔をした。

「OK。それでいい。投げるとき、力まんでいいから。ふわっと、指先で押し出すだけ」

舞子がそっと1本目のダーツを投げた。狙いは外れてボードの外枠に当たり、床に落ちた。

「あー、むずかしい」

「最初はそんなもんやって。1回に3本投げるから。まだ2本ある」

「え、3本も投げていいの?」

「うん、それで1ターン。交代で投げて、スコアを競う」

「へえ……で、どうやったら勝ち?」

「今回は“301”っていうルールでやる。お互い301点持ってスタートして、3本の合計点を毎回引いていって、ちょうど0にしたほうが勝ち」

「ちょうど0?」

「そう。1点残ってもダメ、1点オーバーしてもダメ。ピッタリ0にしないと上がれへんのがこのゲームのキモ」
「真ん中の赤いとこが50点。その周りが25点。で、外にいくほど点数がバラバラになってて、細いリングのとこが“ダブル”で2倍、その内側の細いとこが“トリプル”で3倍になる」

「えー、ムズ……」

「え、じゃあ……この細いとこに当たったら、点数どっさり減るの?」

「そう。あと、最後は“ダブル”でぴったり0にせなあかんってルールやけど――」

僕はそこで舞子の顔を見る。目がすでに「むずかしい……」と言っていた。

「まあ、細かいことはやりながら覚えたらええよ」

僕が笑いながら言うと、舞子も笑って、もう一度、ダーツを構え直した。

最初のうちは、ボードに刺さるだけで歓声をあげていた舞子だったが、2ゲーム、3ゲームとこなすうちに、明らかにフォームが安定してきた。

ダーツを握る指先に余計な力が入らなくなり、腰の位置も、肘の角度も、自然と“それっぽい”形になってくる。
何より、本人が投げるたびに少しずつ笑顔になっていくのが、見ていて気持ちよかった。
ついには1ゲーム、きっちり取られてしまった。。

そして、6ゲーム目の終盤。
舞子の残りスコアは「2」。
つまり、“ダブル1”に入れれば勝ちという局面だった。

「……プレッシャーだなぁ」

舞子がそう言いながら、最後の1本を手にした。

「いけるいける。落ち着いて、“ちょんっ”って当てるだけでええ」

「“ちょんっ”て……それがむずかしいんだよ」

冗談めかして言い返しながらも、舞子はまっすぐ立ち、構えた。
左足をスローラインにそろえ、右手をゆっくり引いて、息を止める。

スッと前に押し出されたダーツは、美しい弧を描いてボードに刺さった。

……ぱしっ、という乾いた音。

やられたか!
しかし、よく見ると、それは隣のダブル20だった。

「えっ」

舞子がぽかんとした顔でこっちを振り返る。

僕は一瞬沈黙して、それから小さく息をついた。

「……あー、残念。バーストやな」

「は……なんで?」

「20のダブルは40点やん。今、残り2点やったやろ?1のダブルに当てなアカンとこで、間違えて20に入ってもうたら、点数オーバーでバースト。帳消しや」

「……なんか、くやし~~~っ」

舞子は両手で顔を覆って、ふにゃっと崩れた。

「Halt mal! Zat vas clearly a vicktory!」(ちょっと待て!今のは明らかに勝ちだろ!)

僕らはそろってそっちを見た。
ハイネケンの瓶を傾けながら、金髪で鼻筋の通った、背の高い男が立ち上がっていた。

「She hit za double, ja? Und she needed two, so, zat's game over, nein?」(彼女はダブルに当てたんだろ?で、残り2点だったんだろ?なら、勝ちじゃないのか?)

何とか言ってることは分かるが、ドイツ訛りの酷い英語だった。
舞子はまだダーツを抜いた手を持ったまま、ぽかんとしている。

「She hit twenty by accident, yes, but a double is a double, mein freund!」(たとえ間違えて20に当てたとしても、ダブルはダブルだ、友よ!)

僕は苦笑して、ボードを指さした。

「No, ze rure says you need exactly two points, ando you must hit double one.
Twenty is too much—it's an over, so it's a burst.」(いや、ルールでは“ちょうど2点”で、“ダブル1”に当てなきゃいけない。20はでかすぎるから、オーバーでバーストなんだ)

僕の英語も酷い日本訛だ。それは否定しない。

ドイツ人は目を見開いて、瓶ビールを握る手を強くした。

「Zat rule—I do not know it!!」(そんなルールは知らん!)

「You zink zis is real? I sink you just make zis up because you vant to vin!」(お前が勝ちたいがために勝手に言ってるだけだろ!)

「You cheat her—because she is a girl! You are a coward!」(女の子相手に卑怯者だ!)

僕はダーツをボードから静かに抜きながら、できるだけ冷静に言った。

「Calm down. I didn't write ze rures. Zis is standard, everywhere. Even in Munich, probably.」(落ち着けよ。俺がルール決めたわけじゃない。これはどこでも共通やで。ミュンヘンでも、たぶんな)

「Also, I don't need to cheat to uin. I already did. Twice.」(それに、勝つためにごまかす必要ない。さっき2回勝ってるし)

ドイツ人は口を開けたまま固まり、それから最後に吐き捨てた。

「Zen listen to me! If zere is another war, Germany vill NEVER be allies viz Japan again!!」
(いいか、聞け!今度また戦争が起きても、ドイツは絶対に日本と同盟なんかしないからな!)

ハイネケンの瓶をテーブルにゴトリと置き、彼は憤然と店を出て行った。
店内には一瞬だけ静寂が流れた。

舞子はぽかんとした顔でこっちを見て、それからポツリと言った。

「ハルくん、英語喋れるんだ…」

そこかい…

好戦的なドイツ人の乱入でこちらもエキサイトしてしまって喉が渇いたのと、腹立ちと笑いが入り混じった妙なテンションで僕はマサキに
ラフロイグのトゥワイスアップなんていう、普段なら「もうこのまま寝ていいよ」って時にしかやらない飲み方をオーダーしてしまい、しかも一気に飲み干した。

店を出て、自転車に乗ろうとしたが、上手くまたがれない。
心配そうに舞子が見ている。

結局、三条から出町柳まで2人で自転車を押して帰ることになってしまい、アパートにたどり着いた時にはとっくに日付が変わっていた。
ドイツ人め。
僕だって同盟なんかお断りだ。
イタリアとだけ組んでやる。

◇    ◇    ◇    ◇

そんなわけで、滅多なことではやらかさない寝坊なんてものをしてしまった僕は、慌てて、鴨川デルタの一番先っぽで猫にカリカリをあげている舞子を見つけて駆け寄った。

「ごめん!寝坊!嵐山に行くって言ってたのに!」

「おはよー。大丈夫だよー。今から連れてって」

舞子が僕を見上げて笑った。

「え?でも今から行っても道運んでるし駐車場も多分空いてないし、お昼食べるところも大混雑やで?」

そういうと、舞子は傍らに置いていたいつものリュックを開けて、中から小さな包みを取り出して僕に見せた。

「大丈夫。おむすび作ってきたから。おかかと梅干しと塩昆布、そしてもう一個は私の卵焼き入りだよ!これ持って、ゆっくり行こう?車じゃなくても行けるんでしょ?」

「え?いつの間に?」

とりあえず自転車に戻って今出川通を北野白梅町に向かう。

いつものバイトのクセで朝5時に目が覚めた舞子は、まず日課の朝の猫との交流に出かけ、
帰ってきて土釜にご飯があるのを見つけて、おむすびを握ってくれたのだという。
そう言えば、昨日は炊きあがったところで出かけて、帰ってきた時にはすっかり忘れていたんだった。

舞子はいつまでも寝ている僕に書き置きをして、鴨川デルタで待っていればきっと来ると思ったらしい。

「そうか。ごめんよ。そいで、ありがとう」

僕がそう言うと、舞子は嬉しそうに「えへへ」と笑った。
そこで僕は思い出した。

「で、『XYZ』って何?誰を始末するの?」

「ハルくん!」

そう言うと舞子は立ち漕ぎになって、一気に加速した。
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