ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第29話 舞子の笑顔、写ルンです

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北野白梅町につくと、僕はバイト先に自転車を置いて、嵐電の駅に向かった。

改札を抜けてホームに出たところで、ちょうど1両編成の電車が静かに滑り込んできた。
深い赤紫色の車体。
中を覗くと、壁も手すりもどこかレトロで、木目のやさしい色合いと、天井からぶら下がった真鍮色の照明が目を引いた。

「え……なにこの電車、かわいい……」

舞子が目を丸くする。
僕たちは揃って乗り込み、空いている横並びのシートに腰を下ろした。

ゴトン、と小さく揺れて、電車が動き出す。
日曜の朝の街が、ゆっくりと後ろへ流れていく。

舞子が吊り下げられた路線図を見上げて、首をひねった。

「えーと……“はた……こ……の、つじ”? これなんて読むの?」

「“帷子ノ辻(かたびらのつじ)”。難読駅名ランキング常連やな」

「へー。絶対知らなかったら読めないね」

舞子が小さく笑って、次の駅名を見上げた。

「じゃあ次、これ。“くるまおり…じんじゃ”?」

「“車折神社(くるまざきじんじゃ)”。これもまた難しい読み方」

「“くるまざき”? え、全然違う……」

「ここはめっちゃ歴史あるで。後嵯峨天皇が嵐山へ向かう途中に牛車の棒が折れて動かへんようになったらしい」

「へえ……地名って面白いね。音と意味がぜんぜん違う」

「このへん、東映の撮影所があって、それも(太い秦(しん)て書いて"うずまさ"とかな。“映画村”っていうテーマパークみたいになってて、遠山の金さんとか大岡越前のお白州が見られたり、忍者ショーとかちゃんばら実演もやってるねん」

「えっ、行ってみたい!遠山の金さん、おばあちゃんと観てたよ!」

「神妙にお縄につけ!」

「ハルくん、桜吹雪ないじゃん…」

そう言って横を向いた舞子の頬に、窓から差し込む光がやわらかく当たっていた。


嵐山駅に降り立った瞬間、目の前には想像以上の人波が広がっていた。
団体客、修学旅行生、外国人観光客。
駅前の道はのろのろと進む人の列で埋め尽くされていて、僕と舞子もその流れに身を任せながら、桂川へ向かって歩き出した。

「すごい……人がいっぱいいる」

舞子が、少しだけ肩をすぼめるようにして僕の隣を歩く。
人の波に埋もれそうな舞子の横顔を見ながら、僕はそっと歩幅を合わせた。

「あっち、座れそうなとこある」

僕が指差した場所には、ちょうど一段だけ芝が広くなったスペースがあって、数組の観光客が腰を下ろして川を眺めていた。
僕たちもその隅に陣取り、舞子がリュックを開ける。

「はいっ、おむすびタイムです」

赤いリボンの白猫がテニスラケットを持ったハンカチに包まれた小さな包みを開くと、おむすびが丁寧に並んでいた。
さらにその奥から、見慣れた緑のスタンレーのボトルが出てくる。

「え、これも持ってきてたの?」

「うん。おむすびにはお茶がいるかなって思って」

そう言って、舞子が蓋に湯気の立つ緑茶を注いでくれる。
その所作がなんだか大人びて見えて、僕は「ありがとう」と言いながら、少しだけ照れた。

おかか、梅干し、塩昆布。
おむすびの塩加減は絶妙で、指先に込めた力加減まで、そのまま味に出てるみたいだった。
どれも美味しかったが、やはり舞子の絶品卵焼き入りが最高だった。

「おいしい。めっちゃうまいわ、これ」

「ほんと?よかった~」

ふたりで空を見上げた。
渡月橋の向こう、空の透明度が少しずつ高くなっていく。

「ねえ、あれ……」

舞子が、渡月橋の向こうの川面に浮かぶ細長いボートの列を見つけた。
手漕ぎボートが、数組、のんびりと桂川の流れの上を漂っている。

「あ!テレビで見たやつ!ここって乗れるんだ!」

「うん。舞子、乗りたいって言うてたやろ?ほやから今日ここに来たねん」

「えっ……ほんとに?」

「ほんと」

舞子は顔を赤らめたようにうつむいて、でも次の瞬間、ぱっと笑った。

「じゃあ行こう!」



ボート乗り場は混んでいたが、すぐに順番が回ってきた。

最初は僕が漕いだ。
川の中央へ向かって静かに進んでいくボートの上で、舞子は両手を膝に置いて、少し緊張した面持ちで座っていた。

「舞子も、やってみる?」

「えっ……私?でも、やってみたい!」

舞子が立ち上がろうとしたその瞬間、僕は思わず声を上げた。

「待って!立たない!ひっくり返る!」

「わ、ごめんっ」

「座ったまま、こうやって……身体を交差するように」

僕たちは、慎重に体をずらしながら、すれ違うようにして位置を入れ替えた。
その瞬間、ほんの数センチの距離で舞子の髪が僕の頬をかすめる。
ほのかにシャンプーの香りがして、僕はどきりとした。

「えっと、どうしたらいいの?」

「右手と左手で、それぞれのオールを握って、後ろから前にこう――ゆっくりでええよ。強く入れすぎんと、水面をなでる感じ」

「う、うん……やってみるね」

最初はぎこちなかったが、舞子はすぐに水を捉え、ボートが少しずつ進み始めた。

「おお、進んでるやん」

「ほんとだ……!わたし、漕げてる?」

「うん、たぶん……」

――バシャッ!!

突如、舞子の右オールが思いっきり水面を切り裂いた。
跳ね上がった水が、僕の顔に直撃する。

「わ、ごめん!」

「だ、大丈夫……気にせんといて……」

そこからは、舞子の初漕ぎ特訓タイムだった。
時折オールが空を切り、また水面に突き刺さり、そのたびに僕は濡れた。

「今ので17回目」

「え、数えてたの!?」

「身体が覚えてるねん……」

ようやく舞子がリズムを掴んできた頃、係の人が遠くから「お時間ですー!」と呼びかけた。

「ええっ、もう?もうちょっとやりたかったな……」

名残惜しそうにオールを見つめる舞子に代わって、僕は「任せろ」とひとこと。
またもや交代してしばし漕ぎ、腕時計を見ると、残り1分。
ヤバい。ラストスパートだ。

体重をかけ、ぐいっとオールを水に入れると、ボートの先が少し持ち上がった。

「わ、速っ!何それモーターボート!?てか飛ぶ飛ぶ飛ぶ!」

「目閉じとけ!」

桂川を切る水の音と、舞子の笑い声が混ざりながら、僕たちはボート乗り場に滑り込んだ。


「は~!楽しかった!初めてでも意外と漕げるもんだね」

舞子が満面の笑みで言う。
上半身が完全に濡れ鼠の僕の姿を見てから言ってほしいものだ。

僕たちは川沿いを北へ歩く。午後の光が、桂川の水面に細かく跳ねている。
濡れたシャツが風で冷え始めて少し寒いけれど。

「あ、抹茶ソフト!」

舞子が買ってくれた抹茶ソフトの冷たさが、さらに僕の体温を奪っていった。

「お。激辛唐辛子せんべいやって!これはいっとかなあかんやろ」

そう言って僕は目についた真っ赤なせんべいを手に取った。

「ぐああっ!これ、アカンやつや!」

まさかここまでとは、という凶暴な辛さに、僕は本気で悲鳴を上げた。
舞子も一口かじって、表情が一瞬で凍った。

「無理!」

そのあと、泣きそうな顔で僕の袖を引っ張りながらラムネを買ってくれたけれど、結局、せんべいは僕が全部食べきった。男の意地ってやつだ。

道端で写ルンですを売っているおじさんを見かけて、一つ買った。
メインストリートに出ると、タレントショップが軒を連ねている。

漬物屋さんの前で、妙に色あせた赤いエプロン姿の梅宮辰夫の人形が直立不動で立っている。

「……ちょっと、並んでみてよ」

舞子に言われるがまま、僕も直立不動になった。
カメラを構える舞子の笑い声が、写ルンですのチープなシャッター音に混じって風に溶ける。
店の中に入り、ごぼうが突き刺さった胡瓜の漬物を試食する。
美味い。
買って帰るとしよう。

次はビートたけしの顔がでっかくプリントされたトレーナーが無造作に吊るされた店。
僕は両足を広げて両手を足の付け根に当てる。

「コマネチ!!」

舞子が笑い転げながら写ルンですのシャッターを切った。

「五木ひろしって演歌の人だよね?」

五木茶屋の前で、舞子がつぶやく。

最後は「バレンタインハウス」の前。何の店か知らないけど、舞子が反応した。

「ちょっと待ったー!」

土曜の深夜に聞いたことのあるセリフとポーズ。
ああ、あの店だったか。

今度は僕がゲラゲラ笑いながら舞子の写真を撮った。
気づけば、笑いっぱなしの帰り道になっていた。


駅に着く頃には、少しずつ観光客の波が押し寄せてきていた。
混み合う前に、という目論見は成功だった。
僕たちは無事に並んで座れた。

電車が走り出して、数分もしない間に、隣の舞子が小さくあくびをして、それから僕の肩に、そっと頭をあずけてきた。
その重みは、軽いけれど確かな体温を伴っていて、なんだか胸の奥があたたかくなる。
舞子の膝の上に置かれたリュックが、カーブでつい、と傾いた。僕はそっとそれを自分の膝の上に引き寄せる。

車窓の向こうでは、夕暮れの光が瓦屋根に斜めから差し込み、古びた木造家屋の影が線路沿いに長く伸びていた。
洗濯物が風に揺れ、小さな庭先では猫が丸くなっている。
時おり、町家の格子越しに明かりが灯るのが見えた。夕餉の支度の匂いすら、電車の窓をすり抜けて漂ってきそうだった。
いまこの時間が、これ以上も以下もなく、ただ静かに進んでいけばいいのに。そんなことを、少しだけ思った。
この時間も、舞子の寝顔も、心のシャッターを押して保存しておこう。

北野白梅町の駅が近づくアナウンスで、僕は小さく声をかけた。

「舞子、着いたよ」

「……んぅ」

眠そうな声で目をこすりながら、舞子がゆっくり起きた。

店に寄って、自転車を取りに行くと、ちょうど夕方シフトのタツヤがバックヤードから出てきた。

「おー!舞子ちゃん!」

「あ、こんにちは!」

「お、今日は笑ってくれた。ちょっとは慣れてくれた?」

舞子は少し照れたように笑って、自転車にまたがる。僕も隣に並ぶ。
さあ、帰ろう。僕たちのあの部屋に。
まず銭湯に行って、戻ったらとびっきり美味しいご飯を炊いて、お土産の辰ちゃん漬けを出して
──今日という一日を、まるごと噛みしめるんだ。
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