ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第36話 後はダッチオーブンがやってくれるから

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「これもう火上がってるから焼けるんちゃうん?」

マサキが言った。

「いや、まだや。もうちょっと待って」

肉を焼くのは、火が落ち着いて炭の表面に灰がまんべんなくまとって、オレンジが透ける頃。
中学生の頃、叔父さんに叩き込まれた“基本中の基本”だ。

まず——炭に直接着火剤をぶっかけるのは愚の骨頂。
それから、アウトドア雑誌がよく載せたがる「新聞紙を丸めて突っ込む」あれも無駄。あんなもので火は点かない。

大事なのは、最初に“ちゃんとしたかまど”をつくること。
空気の入口があって、蓄熱できて、炎が逃げない場所。
そこに松ぼっくりや杉の葉の火口(ほくち)。細い枝、割り箸。
それから太い薪へと段階を踏んで“育てる”。

火が育てば、炭なんて勝手に着く。
だから——慌てる必要はない。

マサキが黙って指を折り数え、僕が三つ目の“失敗あるある”を語るあたりでとうとう吹き出した。

「あ、すまん。続けてくれ」

しっかりと太い薪まで燃えている焚き火だと、あとは放っておいても炭はすぐに着火する。
薪が燃え尽きて熾火になり、その中で炭の表面が灰で銀色になり、中からうっすらオレンジが透けるくらいになったら、これで肉を焼く準備は完了だ。
この手順でやれば、よく家族の冷たい視線を浴びながら2時間もウチワで扇ぎ続けているお父さんみたいになったりしないで済む。
白い煙だらけの中でいつまで経っても焼けない肉を待つこともない。

「いるいる!そういうお父さん!」

上がった声に皆が笑った。

上手く焚き火ができたからって、火が轟々と上がっている状態で焼き始めたら、今度は表面だけまっ黒焦げで中は生焼けになってしまう。
ほとんど煙が出ない澄んだ熱気で焼くことで、肉は最高に美味しく焼ける。

──僕は中学、高校と、叔父さんから教わった手順を繰り返し、何度も失敗しながらこの火熾しを身に着けた。

「あ、ハルヒト、これ買ってきたぞ。全部任せっぱなしは申し訳ないから」

そう言ってヒロくんが、龍の絵と「金龍」と書かれた瓶を出した。

「要らん」

「ほなこっちは?エ・バ・ラ、焼肉のたれ♪」

「それも要らん」

「ほなこれで最後、ジャンは…生きている…」

「なんで焼肉のタレ3種類も持って来とんねん」

「いや、お前、食いモンのこと何やかんやうるさいし、3つあったらどれか気にいるかなと思てな」

「ありがとう。でも悪いけどな、今日はどれも要らん。外で焼肉すんのがバーベキューとちゃうねん」

「そうなんか?そう言うたら何か、見たことない道具が並んどるな。」

そう言いながら、タカトモが、炭を熾している焚き火の上でトライポッドで予熱しているダッチオーブンの蓋を取ろうとした。

「あかん!それめっちゃ熱い!」

「それくらい分かるわ!ちゃんと軍手ハメてるっちゅうねん」

そう言うとタカトモは、僕が止める間もなく蓋の取っ手を掴んだ。

ジューッ!

「うわっじ!!!」

言わんこっちゃない。僕は叔父さんから貰った革の耐熱グローブをはめ、トライポッドの鎖を掴んで鍋の揺れを止めた。

「それ、200℃とかなってるから、軍手やと全然無理やねん」

「早よ言え!」

言う前に勝手に触ったんじゃないか。


「できたよー」

舞子とユリカがボウル2つ分の、皮を剥いた野菜を仲良く持ってきてくれた。
僕はちょっとホッとしながらそれを受け取り、その中からニンニクを取り分けた。
叔父さんが下ごしらえしてくれた丸鶏のお尻の方に大きく空いた穴を広げ、舞子に言う。

「舞子、そのニンニク全部この中に入れて」

「うん…でも何か鳥さんかわいそう…」

「いつも食べてるやん。舞子、唐揚げ好きやん」

「でも、こうやって鳥の形のままのは初めて見たから」

「せやから、命に感謝して『いただきます』言うて食べるんやんか」

「そうだね。鳥さん、ありがとう」

そう言いながら舞子が慣れない手つきで鶏のお腹の中にニンニクを詰めていく。
いっぱいになったら、竹串で閉じて準備OKだ。

そうこうしている間に、炭の状態もバッチリになっていた。
ダッチオーブンの中に皮を剥いた玉ねぎ、じゃがいも、にんじんを丸のまま放り込む。
「ジュー!」という音がしてすぐに香ばしい匂いが上がった。

「おー!」

と歓声が上がる。
その上にニンニクを詰めた丸鶏を置き、隙間にも野菜を詰めて蓋をする。
熾った炭をトングで蓋の上に並べる。

「ええか、火は寂しがりやからな、離れたら弱くなる。くっついたら強くなる。」

叔父さんの言葉を思い出して、炭同士ができるだけくっつくように並べていった。
上が7、下が3。
それは感覚でしかないのだけれど、できる限りそれに近づくようにトライポッドの鎖の長さを調整する。

「後はダッチオーブンがやってくれるから」

叔父さんの言う通り、今の時間だけを確認して、ここは放置だ。

バーベキューグリルの上の炭も準備OKだ。
銀色に輝く灰に覆われたオレンジの光。
グリルの中で、強火、中火、弱火の場所ができるように、炭の位置を調整する。
火は寂しがりだから、離れたら弱くなる。くっついたら強くなる。

アメリカの匂いがする密閉袋のジッパーを開き、マリネされたスペアリブにA1ソースをたっぷり注いで袋ごと揉み込んだ。
まずは強火エリアに並べて表面を炙り、軽く焦げ目がついたら弱火エリアに移して例の半球の金属蓋をかぶせてじっくり火を通していく。

「あー、舞子」

「はい!塩水作っておいたよ!」

叔父さんの話を聞いていた舞子は、次に僕がお願いすることを先回りしたかのようにスプレーボトルの準備を終えていた。
この夏の舞子は、“自分の知らない世界をどんどん吸い込むスポンジ”みたいだった。

発泡ボックスからスチベルに移しておいたでっかい肉の塊を取り出すと、

「おー!!!」

「すごーい!!!」

と皆から歓声が上がった。
言われた通りに金属の串を刺す。
でも1本だとくるくる回って安定しなくて落としてしまいそうだ。

「もう1本刺したら?」

という舞子の提案で2本刺しにして、塩水をたっぷりプシュプシュして中火エリアに置いた。

ジュワ~!!!

その音と、肉が焼ける匂いにまた大きなどよめきにも似た歓声が上がった。

こちらにも半球金属蓋をかぶせる。
こちらはスペアリブと違って、牛肉だから赤い部分が多少残っていても大丈夫だし、表面を削ぎながら食べるから、ちょっと忙しい。

「はーいみんな!自分のお皿持って、そこのトマトと玉ねぎが刻んであるタッパーの蓋開けてスタンバイしてな!」

「ほな、焼けたとこから順番にお皿に乗せていくから、タッパーのソースをスプーンで上から乗っけて食べていって!」

そう言って、僕は串に刺さった巨大な肉を1人づつの皿の上に持っていき、教わったとおりに串を立ててこんがりと焼けた表面にナイフを入れた。

叔父さんが「これは終わったら返しに来てくれ」と言って貸してくれたナイフは、その無骨な見た目に似合わず、恐ろしい切れ味だった。
空中で肉がスッと薄くスライスされる。

1回で全員の皿には配分できないので、乗せた人からヴィネガーソースを乗せて食べていって貰うように言い、またグリルに戻ると、舞子が塩水のスプレーボトルを持ってニコニコと待っていて、僕は肉を回しながらまた全体にプシュプシュしてもらってから火にかけた。
何回も繰り返していく内に僕と舞子の連携は完璧になっていき、皆の皿には次々と肉が供されていった。

「うんま!!!」

「なんやこれ!!すげえ!!!」

「美味しい~!!!!」

「こんな食べ方初めて!」

次々と声が上がる。大好評だ。
僕と舞子も自分の皿に肉を切り分けた。
表面はカリッと焼けているのに、中はほんのり赤みが残るミディアムレア。皿に落ちた肉片を見ただけで、もう口の中が期待で震えている。

まずはひと口。
何もつけず、ただ塩だけの肉を口へ運ぶ。

噛んだ瞬間——じゅわっ。
脂と赤身が一体になって舌を包み込む。
表面は香ばしいのに、中はほんのり赤く、しっとり柔らかい。

「……うわ、これ、塩だけで完成してるやん……」

そのあとモーリョソース。
酸味と香味野菜が鼻から抜けて、肉の甘さを一段上に押し上げる。
ひと切れで人生の地図が書き換わるような衝撃だった。

肉の上に、ほんのひとさじ。
酸味と香味野菜のフレッシュな香りが立ちのぼる。

その肉を、口へ。

「……ちょっ……えっ、何これ……っ!!」

思わずテーブルを叩いてしまうほどの衝撃だった。
あの完璧だった塩味の肉が、モーリョソースによって“目を覚ました”ように鮮やかに蘇る。
脂のコクに、酸味と香りが突き刺さって、全身が震えるような快感に変わる。

「これを……今まで知らずに生きてきたなんて……」

噛むたびに旨味が濃くなる。脂の部分はトロリと溶けるのに、赤身にはしっかりとした噛みごたえ。塩だけで味付けされているとは信じられないほど、深みと複雑さがある。

「たぶん、これは……肉の哲学や。」

肉の常識が変わる、人生の分岐点とも言えるような、ひと切れの奇跡。

舞子を見ると、元々大きな目がさらに見開かれていた。
ほっぺたを膨らませる余裕もなく、噛んでは飲み込み、また次のひと口。

「……なにこれ……なにこれ……」

あたりを見回すと、僕と舞子だけではなく全員がこの肉の虜になっていた。


シュハスコに夢中になっている間に、今度はスペアリブがいい感じになっていた。
念のため、網の上で1本の骨際にナイフを入れて中の色を見る。
よし、完璧に白くなって火が通っている。

「スペアリブも焼けたよ~!」

そう言うと、グリルの前に自然と列ができた。
順番に皆の皿に1本ずつ乗せていき、僕と舞子の分も取り分ける。

香ばしく焦げた外皮の下から、スパイスとハーブ、そしてあの──どこか懐かしくてアメリカっぽい、A1ソースの甘酸っぱい香りが立ちのぼっている。

まだ熱を持った肉にそっと歯を立てると、骨から身がほろりと外れる。
その瞬間、脂の焼ける香りがふわりと舞い上がる。

ひと口──
……いや、ひと噛みで、もう分かった。

「うわ、これ……ちょっと反則やろ……!」

外はカリッと焦げ目がついていて香ばしいのに、中はしっとりと柔らかく、じゅんわりと肉汁が広がる。
ハーブと塩コショウの下地に、A1ソースの甘みと酸味がちょうどよく絡んで、味に奥行きがある。
ケチャップのようでケチャップじゃない、ステーキでもチキンでもない。
口の中で、肉と脂とスモーキーな香り、そしてあの独特のソースの風味が、見事なハーモニーを奏でる。

「これ、ビール3本分くらいの説得力あるな……」

骨を指で持ち上げ、残った部分をかぶりつく。
指先が脂でテカテカになるのも気にせず、ただ夢中で、骨のまわりの一番うまいところをむさぼる。
たった1本のスペアリブで、口の中に夏とアメリカと沖縄がやってきた。
そんな気がした。

舞子を見ると──
さっきのシュハスコのとき以上に、目が丸くなっていた。いや、もう、丸を通り越して、こぼれ落ちそうだ。

「え、なにこれ……なにこれ……」

そう言いながら、スペアリブにかぶりつき、骨を両手で持ったまま、かじっては黙り、飲み込んではまたかじる。
唇の横にソースの跡がついていることにも気づかず、夢中でむさぼっていた。

その横では、すでに2本目に並び直していたマサキが、骨を片手に、

「くっそ……これ、ビール泥棒すぎるわ……」

と呟きながら、缶ビールを一気に煽っている。

タツヤも、ヒロくんも、タカトモも、ユリカも、ユリカの友達の女性陣も、もはや指についた脂もソースも、見た目も気にせずに素手で骨を持って口の周りをベトベトにしながら食べていた。
大皿の上に置かれた骨がどんどん積み重なっていく。
笑い声と唸り声のあいだに、肉を食む音だけがしばらく続いた。

僕は、自分も食べながら、人数分捌け(はけ)たら焼き、また捌け(はけ)たら焼き、と中々に忙しい。

──気がつけば、風が湖から抜けて、グリルの煙と、スペアリブの香りをどこかへ運んでいった。
だけど、この味だけは、たぶん誰の記憶にも、しっかりと、刻まれた。

「もう一本だけ、いっとこか……」

誰かがそう呟き、また列ができはじめた。

そして、舞子はというと──
あろうことか、紙ナプキンで指を拭いたあと、両手を胸の前で合わせて、神社にお参りするみたいに目を閉じていた。

「これ……人生で食べた中で、一番、骨が神様に見えた……」

感謝と敬意のこもった顔だった。
その顔のまま、3本目に並ぶ舞子を見て、みんな笑った。


「さて、そろそろかな」

左腕のGショックの針を見て、僕はダッチオーブンの蓋に置いた炭をトングでかまどに下ろし、重い蓋を開けた。
あまりに香ばしい湯気が立ち昇り、その中にはこんがりと黄金色の焼き目をまとった丸鶏が鎮座していた。
竹串を取り出し、ももの一番分厚い部分に刺して抜く。
中から、透明な肉汁がほとばしった。
よし。完璧だ。

…はいいけど、ここからどうするんだコレ?
そもそもダッチオーブンからどこにどうやって取り出すんだ?

「こうすればいいんだよ」

叔父さんが置いていってくれた調理道具の入ったコンテナボックスから、大きなスレンレスのバットとお玉を取り出して舞子が助け舟を出してくれた。

「ハルくんはそのトング2本使って、鳥さんの持てるとこ持って。できるだけちぎれないように、足とかじゃなくて胴体の太いとこ。ちょっと持ち上げてくれたら私がこのお玉を鳥さんの下に入れて、一緒に持ち上げたらいけるんじゃない?」

「分かった。そしたらこのバットの上に置いたらええんやな」

「じゃあいくよ、せーの!」

落としそうでヒヤッとしたが、なんとか丸鶏をバットに移す。
次は解体だ。

「「まず……モモから、かな?」
「ケンタッキーって“くの字”に曲がってるでしょ?関節から外すと同じ形になるんじゃない?」

言われたとおりに関節を探り、ナイフを入れると、ふっと筋が切れた。
モモ肉が、滑らかに外れる。

「おお……いけた」

「それそれ!モモ、ひとつめ!」

舞子がバットの端に置いたモモ肉を見て、小さく拍手する。

そのまま続けて手羽、もう一方のモモ、そして最後に──問題の胸肉。
ここはどうすればいいんだ?

「うーん…大きさ的に…真ん中から切り開くのかな?」

舞子の言葉に、僕は思いきって、真ん中からスッと刃を入れた。

──ジュッ。

わずかに音がして、ナイフの切っ先から肉汁があふれ出す。
驚いて目を見開いたのは僕だけじゃなかった。

「……うそ、なにこれ、湯気……っていうか、光ってる?」

舞子が思わず手を伸ばし、切れ端をつまんで口に入れた。

「……っ!!」

目を閉じて、一拍。

「ハルくん……これ、ケンタの胸肉と全然違う……」

「それはそうやろ、フライじゃないし」

「違うんだよ、そういう話じゃなくて……これ、ジューシーすぎて言われないと胸肉って気づかないよ……ていうか、ちょっと泣きそう……」

他の連中も集まってきて、それぞれが肉のパーツを手に取る。

「この皮!やっば、パリッパリやん!」

「もも、美味しい……美味しい……」

「骨の近くのとこ、うますぎて喋りたくない……」

みんなが思い思いに手づかみで頬張り、皿の上にはそれぞれの“獲物”が並んでいく。
そんな中、ずっと黙っていたタカトモがようやく言葉を発した。

「……胸肉、パサパサのくせに調子乗っとると今まで思ってたけど……」

静かな声だった。

「……今日で誤解とけたわ。謝る」

誰もが吹き出しそうになったが、タカトモの顔はいたって真剣で、
妙に説得力があった。

僕も舞子もみんなも、夢中で鶏をあっという間に一羽食べ尽くした。

丸ごとを閉じ込めてダッチオーブンで炭火で焼くと、こんなことになるのか。

「後はダッチオーブンがやってくれるから」

叔父さんの言葉は本当だった。
ありがとう、ダッチオーブン。ありがとう、叔父さん。

◇    ◇    ◇    ◇

「それにしても、あつ~い!」

皆がローストチキンの余韻に浸っているところに、ユリカの声がした。
白いTシャツにショートパンツ。
長い脚と、Tシャツの上からでも分かる、細い体に不似合いな大きな胸。

彼女はTシャツの裾をつかむと、ためらいもなく一気に脱いだ。

時間が止まった。
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