ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第40話 冷やし中華はじめました

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「冷やし中華はじめました」

夜、北野白梅町のバイト先に向かって自転車を漕いでいた僕の目にそんな張り紙が飛び込んできたのは、上七軒あたりのことだった。

そのラーメン屋は、鶏ガラと豚骨をじっくり煮込んだというスープに野菜の甘さが特徴的な細いストレート麺で、とても美味しかった。
一度連れてきた舞子も気に入っていた。
店の壁に、池上季実子さんと並んだマスターの写真が貼られている。

なるほど。
「はじめました」というには、この8月頭は既に夏真っ盛りのような気もするのだが、多分ずっと前から貼っていたのだろう。
僕がたまたま今気づいただけのことだ。

今日の昼ごはんは舞子をここに誘ってみよう──
朝6時までたっぷりと働いた帰り道、自転車を漕ぎながら僕は思った。
深夜シフトの日、アパートに帰ると舞子は既にホテルのモーニングのバイトに出かけて既にいない。
ベッドに倒れ込んで一気に眠りの底まで落ち、目が覚めるとちょうど舞子が帰ってきたところだった。

「ただいま。暑いねー」

「うん。そやからさ、今から昼ごはんに冷やし中華食べに行かへん?バイト行くときに『冷やし中華はじめました』の張り紙見てしもてな」」

「冷やし中華…うん…」

一瞬だけ舞子の目が伏せられた。でもすぐに顔を上げて、

「うん! ハルくんが行きたいなら行く!」

と笑顔を向けてきた。

「自転車?」

「いや、夜はええけど、8月の京都で昼間に自転車は僕は無理やな」

「えー、私、今その中自転車漕いで帰ってきたんだよー」

舞子が笑った。


駐車場の車のドアを開けると、中はとんでもない温度だった。
茶碗蒸しくらいならできてしまいそうだ。ボンネットでステーキだって焼けるだろう。

「ちょっと待って」

そういって僕はエンジンをかけてエアコンを最強にし、
ドアを閉めて駐車場の隅にある水道 - 大家さんから洗車に使ってもいいと言ってもらっている - の栓を捻ってホースで水を車にかけた。

「そろそろええかな?」

「うわ!まだかなり暑いよー」

「でも、さっきのあのまま乗るよりはかなりマシやろ」

今出川通に出て西に向かう。
鴨川デルタでは、大勢の子ども達が水遊びをしていた。
いや、子どもばかりじゃなく学生も、大人も、みんな鴨川に足を浸けている。

「わー!気持ちよさそう!」

「うん。またここも来よう」

「わーい!」

御所と大学の間を抜けて烏丸、堀川、と抜けると上七軒はすぐだ。

通りの向こうには、格子戸を構えた古い町家がしんと並んでいた。
車を降りると、むわっとした夏の空気が一瞬まとわりついてきた。
その奥で、風鈴の音がかすかに揺れた。
どの建物も、いまも現役のお茶屋や割烹として使われているようで、祇園のような観光客向けの派手さはなく、昼間はむしろ人通りもまばらだ。

「上七軒って、なんか祇園とか先斗町とはまた違う雰囲気だね」

舞子が窓越しに通りの景色を眺めて言った。

「うん。ここは京都でいちばん古い花街なんや。
昔、北野天満宮を建て直した時に出た木で、茶店を七軒だけ建てたのが始まりなんやって。」

「へえ?、じゃあ“七軒”ってそういうことなんだ」

「そうそう。今でもほんまもんの芸妓さんや舞妓さんがいて、夜になると三味線や踊りのお座敷がある。
祇園ほど観光地化されてへんから、昔の花街の静けさがそのまま残ってるねん。」

「なるほど…ちょっと奥ゆかしい感じ、するかも」

舞子が頷く。

上七軒のすぐ東には、梅の名所としても知られる北野天満宮がある。学問の神様・菅原道真公を祀っていて、受験生たちが絵馬を奉納したり、お守りを求めに訪れたりする姿が絶えない。

「ここ、舞妓さんの踊りが観られる“上七軒歌舞練場”もあってな、春の“北野をどり”っていうのが有名で、僕も昔、一回だけ親に連れられて観に来たことあるんや」

「ふーん、ハルくんって意外とそういうの観るんだ」

「まあ、子どもの頃な。親の趣味で。僕は…最初は退屈かと思ったけど、意外と音楽とか動きに見とれてたな。三味線の音とか、身体に響いてくるっていうか」

舞子はしばらく何かを考えるように黙っていたが、やがて

「今度、そういうのも一緒に観に行けたらいいな」

とぽつりと言った。
舞子の横顔に、昼の光がそっと差していた。

その言葉が、なぜだか嬉しくて、僕は小さく頷いた。

「……うん、そうやな。きっと舞子、好きやと思う」

◇    ◇

「いらっしゃい!」

店の親父さんが、池上季実子さんとの写真と同じ笑顔で迎えてくれた。

「冷やし中華2つください」

「はいよ」

親父さんが麺を大鍋に入れた。

「ここ、ちょっと久しぶりだねー。前は全然涼しかった覚えがあるよ」

「せやな。ほんま京都の夏は暑すぎるわ。昔の人は何でこんなとこに都置こうと思たんやろ?」

「なんか、風水で龍がどうとか本で見たことがある気がする」

「…あー、それな。青龍とか玄武とか白虎とか、あと何やったっけ…フェニックス?みたいなやつ、言うてた気がする」

「フェニックスって…急に西洋?」

「んー、よう分からんけど、なんかそういうのが四方におるのがええ場所なんやろ?詳しくは知らんけど」

そんな話をしている間に、親父さんがカウンターの前に立っていた。

「あんたら、えらい難しい話してんなぁ。冷やし中華出すのにそんな話聞いたん初めてやわ。はい、お待たせ」

そう言って僕達の前に丼を置いた。

「わ」

舞子が声を上げた。

その冷やし中華は、僕の知っている冷やし中華とはまったく別物だった。

キラキラしたカットグラスの皿に、黄色いちぢれ麺。
その上には、よくある安っぽいハムではなく、細く割いた蒸し鶏と定番の錦糸卵。
さらに、最近よく見かけるカイワレ大根やプチトマト、小さくちぎったレタス、
それにハーブのような緑の葉っぱまで乗っている。

そして何より、金色に輝くタレ。
ふわりと香ったのは、いつものごま油ではなく──オリーブオイルの匂いだった。

「「いただきます!」」

箸を割って食べ始める。
カウンターの奥で、湯気の立つ鍋の音だけが静かに響いていた。

「わ! わ! わ! なにこれ!」

舞子が本気で驚いた声を上げた。

見た目だけじゃない。味も、僕たちが知っている冷やし中華とはまるで別物だった。

麺はつるりとなめらか。
タレは、むせそうな甘酢ではなく、爽やかで香り高く、オリーブオイルと合わさってどこかパスタを思わせる。

甘みは控えめで上品。
上に乗った蒸し鶏はしっとり柔らかく、錦糸卵は自然な甘さ。
そこにレタスやカイワレ、プチトマトが軽いアクセントを添えて、口の中で不思議なハーモニーになる。

独創的なのに、ちゃんと“冷やし中華”として成立している。

「こんな冷やし中華、初めてだよ!」

舞子はそういうと、ほっぺたを膨らませ、もはや誰も止めることはできない暴走ハムスターに変貌していた。

僕も、「よく噛みなさい」と最近舞子に注意されていることも忘れて、一気にすすり込んだ。
箸が止まらない。

親父さんがニコニコとその様子を見ている。

「このタレ、どうなってるんですか?」

食べながら訊くと、

「酢は白ワインビネガー、そこに甘みでほんの少しバルサミコっていうイタリアのお酢、そこにオリーブオイルと岩塩やね。あと中国の醤油を少々」

あっさりと秘密を教えてくれた。
しかし、なんだそのバルサミコとかいう謎のお酢は?

「は~!美味しかった!ごちそうさま!」

僕が考えている内に舞子は食べ終わっていた。
僕も残りを平らげる。

「「ごちそうさまでした!」」

「おおきに。また来てな」

そう言って店を出た僕達は、まだ不思議な感覚に包まれていた。

「実はね」

アパートに向かう車で舞子が言う。

「私、冷やし中華もあんまり好きじゃなかったんだ。」

なるほど。僕が冷やし中華を食べに行こうと言った時、一瞬表情が曇ったのはそれでか。

「麺はボソボソしてくっついて食べにくくて、ハムは何か薬品みたいな味がして、卵はめちゃくちゃ甘過ぎて。きゅうりは好きなんだけどね。それに、あの甘いお酢?あれも、むせるしベタベタするし」

うん。分からないでもない。
僕は、それが冷やし中華の醍醐味だとは思っていたが。

「でも、今日のすごかったね。

「うん。すごかった」

「親父さん、タダもんじゃないね」

「やな。」

「ねえ、またハルくんあれ作ってよ?」

「えー…味は覚えたし、何が入ってるかも教えてもらったけど、あの謎のイタリアのお酢とか初めて聞いた。どこに売ってるんやろな」

「そっかー。じゃあ、あの店また行かなくちゃね」

それは大賛成だ。
僕が再現でできるようになるまで通う口実ができた。

御所の蝉時雨が、車の中まで聞こえていた。
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