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第50話 衝撃
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「こないだお前が使こてた、『鴨川デルタ』言う呼び方な。出町柳の三角州」
深夜シフトの休憩時間、ロッカールームでタバコを吸っている僕のところにタカトモが来て言った。
タカトモもタバコに火を点けた。
「あれ、精華のツレに言うたら、『それええな』言うて、エラい気に入ってたわ。その内にあいつらの漫画とかで使うんちゃうか。もしかしたら、何年かしたら“鴨川デルタ”って言葉が、普通に地元の言葉みたいに広がっていくかもな」
タカトモは、精華大学美術学部の前衛アート集団と高校時代からの仲で、今も一緒に色々な制作活動をしている──という話は前から聞いていた。
そのメンバーのひとりは特にすごくて、
大学1回生にしてメジャー誌の新人漫画賞を受賞し、すでにデビュー済み。
今年は、あの有名漫画家の名を冠した賞まで獲り、来年には単行本も出るらしい。
「そいつな、漫画の中でオレの名前そのまんま使うてるらしいねん。“タカトモ”って。
いや恥ずかしいやろって言うたけど、完全に無視されたわ」
タカトモはそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
そのグループには他にも漫画を描いているメンバーがいて、
彼らは漫画だけに留まらず、
8mmカメラを回しながら街を歩いて偶然起きるハプニングを撮り集め、
通りすがりの人々の仕草や空気を独特の視点で切り取った映像作品を作ったり、
TASCAMの4トラックでカセットに多重録音して、自宅で音楽作品を作ったり──
とにかく毎日、表現の可能性を面白がって広げている連中だった。
一度聴かせてもらったその曲たちは、実にユニークで、そして容赦なく難解だった。
ある曲は──
岩倉自動車教習所の卒業検定コースを、ただブルース進行に乗せて延々と歌い続けるだけの曲。
別の曲は──
大阪の都ホテルの駐車場で入口まで客を運ぶ電気自動車が「とにかくダサい」という主張だけを、ディキシージャズ風に吠え立てる曲。
さらに「サンバのジャメイカン」という曲は、
朝から晩までサンバで踊り続けるジャマイカ人の生活を描いたものだった。
……いや、ジャマイカはレゲエでサンバはブラジルやろ、と心の中で突っ込みながらも黙っておいた。
どの曲にも、一種独特の「理解する気を拒む」ような香りがあったが、
それなのに聴いているうちにクセになる。
誰かの視点を通した街の断片が、唐突にこちらへ投げ込まれるような感覚だった。
それは、僕が1回生の頃、演劇サークルに入っている子に連れて行かれた
白塗り舞踏集団──「日本維新派」──のパフォーマンスと同じ匂いがした。
一見バカバカしいのに、妙に脳のどこかを刺激してくる、あの感じ。
去年、彼らが一度だけ店に客で来たことがあったが、
あの時の“本物のサブカル”と“アングラの気配”は、
関大広研の“なんちゃってサブカル”連中とは明らかに別物で、
僕は軽く気後れしたのを覚えている。
今回のバンドには、どうやらその前衛アート集団は参加しないらしい。
……少しホッとした。
「次の日曜な、初リハやから!頼むで! あ、それとな」
タカトモはタバコの火を灰皿でもみ消すと、ロッカーの奥に立てかけてあった一本のベースを
ガチャッと乱雑に引っ張り出した。
「これやるわ。昨日、リサイクルショップで1000円で投げ売られとってん。
急にベースやれ言うてもうたし、お前ギターしか持ってへんやろ?」
むき出しのまま手渡されたのは、ところどころ塗装が剥げたGRECOのJB500だった。
軽く弦に触れると、アンプにつないでもいないのに「ボーン」と低い音がロッカールームの金属壁に響いた。
ボディの木が乾ききって、妙に胴鳴りする。
こんな荒れた見た目なのに──いや、だからこそなのか、やけに“良い個体”だった。
──「その2日前の祝日は練習と練習試合やからな。ええ加減来んと、ホンマに三品先輩とか杉江先輩とか怒ってたぞ」
そう言いながら自分のロッカーからタバコを取り出したのは、いつの間にかロッカールームに来ていたヒロくんだった。
深夜3時を回ると、さすがに店も暇になってくる。
「分かった。絶対に行くわ。午後に希望が丘やんな?」
「せや。頼むで。」
「何?お前らがそういう話ってことはラグビーか?」
タカトモが首を突っ込む。
「おう。OBチームの話や。」
「ラグビーなあ、ええけど、手とか指とか怪我せんとってな、ハルヒト」
「大丈夫やって!」
僕は軽く手を振って応えた。
大丈夫に決まってる──そう思っていた、あのときは。
◇ ◇ ◇ ◇
次の祝日の秋分の日、僕は舞子を乗せて名神高速を滋賀に向けていた。
スパイクもジャージも一式カバンに詰めたし、舞子はタオルや水筒まで用意してくれた。
今日は希望が丘で練習試合だ。
途中越えで行くと安いけど時間がかかりすぎるので、そのまま京都東、大津を抜けて名神を走る。
栗東のあたりまで来ると、前方に山頂が二つに割れたようなちょっと変わった形の山が見えてきた。
「なんだか変わった形の山だね」
舞子がフロントガラス越しに指をさす。
「あれな、三上山(みかみやま)っていうんやけど、滋賀では“近江富士”って呼ぶねん」
「富士?そんな感じしないけど?」
「この角度やと割れて見えるからな。この前バーベキューしに琵琶湖行った時、あっち側から見えてた山、覚えてる?」
「あ!ハルくんの実家にウインドサーフィン取りに行った時に向こうに見えてたあれか!」
「それそれ。こっち側からやと別の山みたいやろ」
舞子はうんうん、と頷いてから、
「大ムカデとか…言ってなかった?」
「そうそう。俵藤太って人が大ムカデ退治したって昔話な」
「やっぱり昔ばなしなんだ。絵が浮かぶね」
舞子は笑って、窓の外の山をもう一度ちらりと見上げた。
そんな話をしているうちに、栗東インターをぐるぐる回って降り、国道8号に合流した。
野洲川を渡り、三上山のふもとを回り込むように北へ進むと、「希望が丘文化公園」の案内が見えてくる。
広大な芝生がどこまでも続いていて、体育館も陸上競技場もラグビー場もプールもある──
滋賀ではお馴染みの“何でもできる場所”だ。
子供の頃は家族に連れてきてもらったし、夏休みには友達と自転車でプールに通った。
小学生の頃のサッカーチームの合宿も、高校ラグビー部の合同合宿も、ぜんぶここだった。
花園予選の決勝だけは、ここの芝生のグラウンドで試合ができて、BBCのテレビカメラが並ぶ。
あれは、真剣勝負の空気が嫌でも胸に刺さった。
「ハルくんの、子供の頃から今までの思い出と汗が、ここにいーっぱい染み込んでるんだね」
舞子は、分かってるような分かってないような顔で言う。
「汗だけやなくて、涙も泥も血もやな」
と言うと、舞子は「え、血!?」とちょっとだけ目を丸くしていた。
OBチームといっても堅苦しいものじゃない。
僕らの代と一つ下が最年少で、上は三十代の先輩まで。
滋賀の社会人Bリーグに参加してはいるけれど、実態は“ラグビーを理由に集まる飲み仲間”みたいなものだ。
練習も本気で追い込むというより、軽くボールで遊んで、走って、汗をかいて──
本番はそのあと王将かあたか飯店での打ち上げ。
試合の日だけふらっと現れる先輩も多い。
とはいえ、もともと花園常連にあと一歩…というレベルの高校だっただけあって、チーム力だけは妙に高い。
昔、一度だけ勢いで入れ替え戦に勝ってAリーグに上がってしまい、そこで盛大にボコられて帰ってきたのは語り草だ。
今はBリーグで優勝しても入れ替え戦は“華麗に辞退”して、平和に楽しむ路線に落ち着いている。
今日は午後から二時間ほど、ランパス、スクラム、モール、ラック、コンビと一通り汗を流し、そのあと地元企業のクラブチームと練習試合の予定だった。
休憩のたびに僕が舞子のところへ行って水筒のお茶を注いでもらったり、タオルで汗を拭いてもらったりしていたものだから、
先輩たちはすっかり
「えらい若い彼女やのぉ」
とニヤニヤ。
説明するのも面倒なので、放置した。
やがて相手チームも到着し、向こうで軽くアップを始める。
僕らも揃いのジャージに着替え、ヘッドキャップを締め直し、気持ちを試合モードに切り替える。
キックオフ。
前半はこっちが押し気味で2トライを先行。
スコアだけ見れば上々なのに、僕自身はどうにも噛み合っていなかった。
スクラムは押され気味だし、タックルも二本外されてしまって、胸のあたりがモヤモヤする。
「くそ、今日は体が重いな……」
そんな感じで、ハーフタイムを迎えた。
「なんかすごいね。もっとのんびりしてるのかと思ったら、みんな思いっきりぶつかって。ガツン!ってぶつかる音が聞こえるんだもん」
舞子がそう言いながら水筒のお茶を渡してくれた。
「せやな。ただ、今日は僕、前半まだ何にもできてへん。後半、気合い入れな」
「ハルくん、そんなのいいから怪我だけはしないで」
そうはいかない。僕は舞子にいいところを見せたかった。
金毘羅さんでの醜態、「役に立たない大型犬」の汚名を返上せねば。
それがよくなかった。
「ピーっ!」
後半は、こちらのキックオフから始まった。
僕はラインの後ろでタイミングを計り、ホイッスルと同時に一気に加速した。
落下点へ一直線。視界の端で、相手の5番 ──身長180、体重は優に100キロはあるだろう── が高く跳んでボールを捕った。
「イケる……!」
トップスピードのまま、腰めがけて全力でタックルに入ったその瞬間だった。
バキッ!!!!!!
乾いた破裂音が自分の身体からした。
タックルした感覚がない。
逆に、僕の方が弾かれて宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。
痛い、というより──
右肩に電流みたいな衝撃が走り、思考が一瞬白くなる。
「やってもうた……!!」
高校の時にも一度だけ味わった、あの嫌な感覚。
右腕が丸ごとどこかへ引きちぎられたみたいな錯覚。
転がりながら、とっさに左手で右肩を触る。
……ない。
そこにあるはずの“丸い関節の頭”が、どこにもない。
本来は肩のくぼみに収まっているはずの上腕骨の先端──
その手応えが完全に消えていた。
「ぐあ!」
声にならない。
頭の中で「立て!イソップ!」という声がした。
遠くで、レフリーがタッチの笛を吹いた音が聞こえた。
続いて、「ピピピピ!」という笛。
チームメンバーとレフリーが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「いえ、右肩が…外れました」
またレフリーが「ピピ!」とグラウンドの外に向かって短く笛を吹いた。
担架がやってきて、僕を持ち上げて乗せる。
「うあ!」
やっと痛みを感じ始めた右肩が、体勢を変えられたことで激しく痛んだ。
そのままグラウンドの外へ。
「救急車!」
そんな声と、僕への関心はあっという間に消え去って続行されている試合の音が聞こえた。
「ハルくん…」
舞子が泣きそう顔で僕を覗き込んでいる。
「ははは。やってもた」
「やってもた、ちゃうわ!!!」
舞子が大阪弁で叫ぶ。
やがて救急車のサイレンの音が聞こえ、僕は担架ごと乗せられた。
「一緒に行きます」
舞子の声もする。
「荷物どれや?車のキーもそこにあるか?」
前半で交代してベンチにいた最年長の先輩に、荷物の場所とバッグの色、鍵を入れているポケットを急いで伝える。
「任せとけ」と言う先輩の声が聞こえた直後、救急車のハッチがガコンと閉じられた。
ふたたびサイレンが鳴り、車体がゆっくり動き出す。
揺れに合わせてストレッチャーがわずかにきしむ。
隊員が僕の肩を固定しながら言った。
「このまま栗東の済生会に向かいますね」
その言葉でようやく、試合が完全に遠ざかっていく実感が胸に広がった。
「舞子、お茶あったらちょうだい」
そういうと舞子が
「ごめん、急だったから置いてきちゃった。」
と謝る。
そりゃそうだ。
「これを。」
隊員の人がミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれた。
「ごめん、舞子、蓋開けて」
「はい」
「飲ませて。上むいて口開けるから、注いでくれたらええから」
「こう?」
ごぼごぼごぼ!!!
「わー!ごめん!!」
けへけへけへ。
むせる度に右肩がとんでもなく痛む。
「大丈夫。でももうちょっとゆっくり注いで」
「ごめんね…」
そう言って注いでくれた水は、今度はちゃんと飲めた。
救急車の揺れに合わせて微かに軋むストレッチャーの音を聞きながら、僕はただ、遠ざかっていくグラウンドと、舞子の温かい指先の存在だけを確かめていた。
深夜シフトの休憩時間、ロッカールームでタバコを吸っている僕のところにタカトモが来て言った。
タカトモもタバコに火を点けた。
「あれ、精華のツレに言うたら、『それええな』言うて、エラい気に入ってたわ。その内にあいつらの漫画とかで使うんちゃうか。もしかしたら、何年かしたら“鴨川デルタ”って言葉が、普通に地元の言葉みたいに広がっていくかもな」
タカトモは、精華大学美術学部の前衛アート集団と高校時代からの仲で、今も一緒に色々な制作活動をしている──という話は前から聞いていた。
そのメンバーのひとりは特にすごくて、
大学1回生にしてメジャー誌の新人漫画賞を受賞し、すでにデビュー済み。
今年は、あの有名漫画家の名を冠した賞まで獲り、来年には単行本も出るらしい。
「そいつな、漫画の中でオレの名前そのまんま使うてるらしいねん。“タカトモ”って。
いや恥ずかしいやろって言うたけど、完全に無視されたわ」
タカトモはそう言いながら、どこか嬉しそうだった。
そのグループには他にも漫画を描いているメンバーがいて、
彼らは漫画だけに留まらず、
8mmカメラを回しながら街を歩いて偶然起きるハプニングを撮り集め、
通りすがりの人々の仕草や空気を独特の視点で切り取った映像作品を作ったり、
TASCAMの4トラックでカセットに多重録音して、自宅で音楽作品を作ったり──
とにかく毎日、表現の可能性を面白がって広げている連中だった。
一度聴かせてもらったその曲たちは、実にユニークで、そして容赦なく難解だった。
ある曲は──
岩倉自動車教習所の卒業検定コースを、ただブルース進行に乗せて延々と歌い続けるだけの曲。
別の曲は──
大阪の都ホテルの駐車場で入口まで客を運ぶ電気自動車が「とにかくダサい」という主張だけを、ディキシージャズ風に吠え立てる曲。
さらに「サンバのジャメイカン」という曲は、
朝から晩までサンバで踊り続けるジャマイカ人の生活を描いたものだった。
……いや、ジャマイカはレゲエでサンバはブラジルやろ、と心の中で突っ込みながらも黙っておいた。
どの曲にも、一種独特の「理解する気を拒む」ような香りがあったが、
それなのに聴いているうちにクセになる。
誰かの視点を通した街の断片が、唐突にこちらへ投げ込まれるような感覚だった。
それは、僕が1回生の頃、演劇サークルに入っている子に連れて行かれた
白塗り舞踏集団──「日本維新派」──のパフォーマンスと同じ匂いがした。
一見バカバカしいのに、妙に脳のどこかを刺激してくる、あの感じ。
去年、彼らが一度だけ店に客で来たことがあったが、
あの時の“本物のサブカル”と“アングラの気配”は、
関大広研の“なんちゃってサブカル”連中とは明らかに別物で、
僕は軽く気後れしたのを覚えている。
今回のバンドには、どうやらその前衛アート集団は参加しないらしい。
……少しホッとした。
「次の日曜な、初リハやから!頼むで! あ、それとな」
タカトモはタバコの火を灰皿でもみ消すと、ロッカーの奥に立てかけてあった一本のベースを
ガチャッと乱雑に引っ張り出した。
「これやるわ。昨日、リサイクルショップで1000円で投げ売られとってん。
急にベースやれ言うてもうたし、お前ギターしか持ってへんやろ?」
むき出しのまま手渡されたのは、ところどころ塗装が剥げたGRECOのJB500だった。
軽く弦に触れると、アンプにつないでもいないのに「ボーン」と低い音がロッカールームの金属壁に響いた。
ボディの木が乾ききって、妙に胴鳴りする。
こんな荒れた見た目なのに──いや、だからこそなのか、やけに“良い個体”だった。
──「その2日前の祝日は練習と練習試合やからな。ええ加減来んと、ホンマに三品先輩とか杉江先輩とか怒ってたぞ」
そう言いながら自分のロッカーからタバコを取り出したのは、いつの間にかロッカールームに来ていたヒロくんだった。
深夜3時を回ると、さすがに店も暇になってくる。
「分かった。絶対に行くわ。午後に希望が丘やんな?」
「せや。頼むで。」
「何?お前らがそういう話ってことはラグビーか?」
タカトモが首を突っ込む。
「おう。OBチームの話や。」
「ラグビーなあ、ええけど、手とか指とか怪我せんとってな、ハルヒト」
「大丈夫やって!」
僕は軽く手を振って応えた。
大丈夫に決まってる──そう思っていた、あのときは。
◇ ◇ ◇ ◇
次の祝日の秋分の日、僕は舞子を乗せて名神高速を滋賀に向けていた。
スパイクもジャージも一式カバンに詰めたし、舞子はタオルや水筒まで用意してくれた。
今日は希望が丘で練習試合だ。
途中越えで行くと安いけど時間がかかりすぎるので、そのまま京都東、大津を抜けて名神を走る。
栗東のあたりまで来ると、前方に山頂が二つに割れたようなちょっと変わった形の山が見えてきた。
「なんだか変わった形の山だね」
舞子がフロントガラス越しに指をさす。
「あれな、三上山(みかみやま)っていうんやけど、滋賀では“近江富士”って呼ぶねん」
「富士?そんな感じしないけど?」
「この角度やと割れて見えるからな。この前バーベキューしに琵琶湖行った時、あっち側から見えてた山、覚えてる?」
「あ!ハルくんの実家にウインドサーフィン取りに行った時に向こうに見えてたあれか!」
「それそれ。こっち側からやと別の山みたいやろ」
舞子はうんうん、と頷いてから、
「大ムカデとか…言ってなかった?」
「そうそう。俵藤太って人が大ムカデ退治したって昔話な」
「やっぱり昔ばなしなんだ。絵が浮かぶね」
舞子は笑って、窓の外の山をもう一度ちらりと見上げた。
そんな話をしているうちに、栗東インターをぐるぐる回って降り、国道8号に合流した。
野洲川を渡り、三上山のふもとを回り込むように北へ進むと、「希望が丘文化公園」の案内が見えてくる。
広大な芝生がどこまでも続いていて、体育館も陸上競技場もラグビー場もプールもある──
滋賀ではお馴染みの“何でもできる場所”だ。
子供の頃は家族に連れてきてもらったし、夏休みには友達と自転車でプールに通った。
小学生の頃のサッカーチームの合宿も、高校ラグビー部の合同合宿も、ぜんぶここだった。
花園予選の決勝だけは、ここの芝生のグラウンドで試合ができて、BBCのテレビカメラが並ぶ。
あれは、真剣勝負の空気が嫌でも胸に刺さった。
「ハルくんの、子供の頃から今までの思い出と汗が、ここにいーっぱい染み込んでるんだね」
舞子は、分かってるような分かってないような顔で言う。
「汗だけやなくて、涙も泥も血もやな」
と言うと、舞子は「え、血!?」とちょっとだけ目を丸くしていた。
OBチームといっても堅苦しいものじゃない。
僕らの代と一つ下が最年少で、上は三十代の先輩まで。
滋賀の社会人Bリーグに参加してはいるけれど、実態は“ラグビーを理由に集まる飲み仲間”みたいなものだ。
練習も本気で追い込むというより、軽くボールで遊んで、走って、汗をかいて──
本番はそのあと王将かあたか飯店での打ち上げ。
試合の日だけふらっと現れる先輩も多い。
とはいえ、もともと花園常連にあと一歩…というレベルの高校だっただけあって、チーム力だけは妙に高い。
昔、一度だけ勢いで入れ替え戦に勝ってAリーグに上がってしまい、そこで盛大にボコられて帰ってきたのは語り草だ。
今はBリーグで優勝しても入れ替え戦は“華麗に辞退”して、平和に楽しむ路線に落ち着いている。
今日は午後から二時間ほど、ランパス、スクラム、モール、ラック、コンビと一通り汗を流し、そのあと地元企業のクラブチームと練習試合の予定だった。
休憩のたびに僕が舞子のところへ行って水筒のお茶を注いでもらったり、タオルで汗を拭いてもらったりしていたものだから、
先輩たちはすっかり
「えらい若い彼女やのぉ」
とニヤニヤ。
説明するのも面倒なので、放置した。
やがて相手チームも到着し、向こうで軽くアップを始める。
僕らも揃いのジャージに着替え、ヘッドキャップを締め直し、気持ちを試合モードに切り替える。
キックオフ。
前半はこっちが押し気味で2トライを先行。
スコアだけ見れば上々なのに、僕自身はどうにも噛み合っていなかった。
スクラムは押され気味だし、タックルも二本外されてしまって、胸のあたりがモヤモヤする。
「くそ、今日は体が重いな……」
そんな感じで、ハーフタイムを迎えた。
「なんかすごいね。もっとのんびりしてるのかと思ったら、みんな思いっきりぶつかって。ガツン!ってぶつかる音が聞こえるんだもん」
舞子がそう言いながら水筒のお茶を渡してくれた。
「せやな。ただ、今日は僕、前半まだ何にもできてへん。後半、気合い入れな」
「ハルくん、そんなのいいから怪我だけはしないで」
そうはいかない。僕は舞子にいいところを見せたかった。
金毘羅さんでの醜態、「役に立たない大型犬」の汚名を返上せねば。
それがよくなかった。
「ピーっ!」
後半は、こちらのキックオフから始まった。
僕はラインの後ろでタイミングを計り、ホイッスルと同時に一気に加速した。
落下点へ一直線。視界の端で、相手の5番 ──身長180、体重は優に100キロはあるだろう── が高く跳んでボールを捕った。
「イケる……!」
トップスピードのまま、腰めがけて全力でタックルに入ったその瞬間だった。
バキッ!!!!!!
乾いた破裂音が自分の身体からした。
タックルした感覚がない。
逆に、僕の方が弾かれて宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。
痛い、というより──
右肩に電流みたいな衝撃が走り、思考が一瞬白くなる。
「やってもうた……!!」
高校の時にも一度だけ味わった、あの嫌な感覚。
右腕が丸ごとどこかへ引きちぎられたみたいな錯覚。
転がりながら、とっさに左手で右肩を触る。
……ない。
そこにあるはずの“丸い関節の頭”が、どこにもない。
本来は肩のくぼみに収まっているはずの上腕骨の先端──
その手応えが完全に消えていた。
「ぐあ!」
声にならない。
頭の中で「立て!イソップ!」という声がした。
遠くで、レフリーがタッチの笛を吹いた音が聞こえた。
続いて、「ピピピピ!」という笛。
チームメンバーとレフリーが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「いえ、右肩が…外れました」
またレフリーが「ピピ!」とグラウンドの外に向かって短く笛を吹いた。
担架がやってきて、僕を持ち上げて乗せる。
「うあ!」
やっと痛みを感じ始めた右肩が、体勢を変えられたことで激しく痛んだ。
そのままグラウンドの外へ。
「救急車!」
そんな声と、僕への関心はあっという間に消え去って続行されている試合の音が聞こえた。
「ハルくん…」
舞子が泣きそう顔で僕を覗き込んでいる。
「ははは。やってもた」
「やってもた、ちゃうわ!!!」
舞子が大阪弁で叫ぶ。
やがて救急車のサイレンの音が聞こえ、僕は担架ごと乗せられた。
「一緒に行きます」
舞子の声もする。
「荷物どれや?車のキーもそこにあるか?」
前半で交代してベンチにいた最年長の先輩に、荷物の場所とバッグの色、鍵を入れているポケットを急いで伝える。
「任せとけ」と言う先輩の声が聞こえた直後、救急車のハッチがガコンと閉じられた。
ふたたびサイレンが鳴り、車体がゆっくり動き出す。
揺れに合わせてストレッチャーがわずかにきしむ。
隊員が僕の肩を固定しながら言った。
「このまま栗東の済生会に向かいますね」
その言葉でようやく、試合が完全に遠ざかっていく実感が胸に広がった。
「舞子、お茶あったらちょうだい」
そういうと舞子が
「ごめん、急だったから置いてきちゃった。」
と謝る。
そりゃそうだ。
「これを。」
隊員の人がミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれた。
「ごめん、舞子、蓋開けて」
「はい」
「飲ませて。上むいて口開けるから、注いでくれたらええから」
「こう?」
ごぼごぼごぼ!!!
「わー!ごめん!!」
けへけへけへ。
むせる度に右肩がとんでもなく痛む。
「大丈夫。でももうちょっとゆっくり注いで」
「ごめんね…」
そう言って注いでくれた水は、今度はちゃんと飲めた。
救急車の揺れに合わせて微かに軋むストレッチャーの音を聞きながら、僕はただ、遠ざかっていくグラウンドと、舞子の温かい指先の存在だけを確かめていた。
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