ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第51話 寄り道のご褒美

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「あれ?入らんなー」

「ぎぎぎぎぎぎ! 痛い! 先生痛いです!」

「おかしいな、これを、こうして……」

「ミャー!」

先生が、僕の右腕の肘をぐいっと持ち上げ、そのまま外側へひねる。
戻す。またひねる。
そのたびに、右肩の奥で雷みたいな痛みが弾けた。

痛い、なんて言葉では全然足りない。
吐き気と冷や汗が一気にせり上がってきて、視界の端が白くチカチカする。

「おっかしいな……普通ならこれで入るのになあ」

先生は、さっき撮ったレントゲンを光に透かしながら首をかしげた。
その横顔を見てるだけで、嫌な予感しかしない。

「うーん……これはあれやな。君の肩の筋肉が強すぎてな。
入れようとしたら痛みで力入ってまうから、こっちがどれだけやっても、筋肉が引っ張り返してまう。上手いことはまらへん」

「ええ……でも、前に外れた時は、簡単にスポンって入れてもらいましたよ?」

なんとか声を絞り出すと、先生がちらっとこっちを見た。

「どこで?」

「学校の近くの柔道整復師の先生です。
脇の下に足の裏あてて、右腕持って、『ちょっと痛いぞ』言いながら、ひねりつつ一気に引っ張って……」

思い出しただけで別種の痛みが蘇る。

「柔道整復師か。ごっつい人やったやろ?」

「はい。クマみたいでした」

痛みに震えながらも、なんとか返事をする。

「やっぱりなあ。君の肩の筋肉は、そういう人やないと、こっちが負けてまうんや。
医者側の腕力が足らん。しゃあない。これはもう、麻酔で寝てもらおか」

「麻酔、ですか?」

自分の声が情けないくらい裏返った。

「そう。全身麻酔でいこか。
寝てもろてる間に入れたら、痛みも感じひんし、筋肉も力抜けてるさかい、すっと入るやろ」

「分かりました。お願いします」

そう言うしかない。
もう一発あの捻りを食らうくらいなら、いっそ意識を落としてもらった方がましだ。

動くベッドに乗せられ、点滴スタンドごと別の部屋に運ばれていく。
天井の蛍光灯が、ひとつ、またひとつ、頭上を流れていく。
さっきまで耳の奥で鳴っていた救急車のサイレンは、遠い残響だけになっていた。

「はい、今から麻酔の点滴入りますねー。
静かに数を数えて下さい。だいたい10くらいで意識なくなります。
いきますよ」

麻酔科の先生が穏やかな声で言い、点滴のダイヤルをカチリと回した。

「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ……」

思ったより何も起きないので、不安になりながらも数え続ける。

「ろく、なな、はち、きゅう、じゅう……じゅういち……」

15くらいまでははっきり覚えている。
その先の数字は、舌の上でとろけるみたいにぼやけていき、ふわっと途切れた。

──あとで舞子に聞くと、僕は「にじゅうはち」まで元気に数えていたらしく、
先生たちが「まだ寝えへん……」「ようけ数えるなあ」と、ちょっと呆れ顔で笑っていたそうだ。

◇    ◇    ◇    ◇

「ハルくん。ハルくん!」

名前を呼ぶ声に、意識が水面へ浮かぶみたいに戻ってきた。
まぶたをゆっくり持ち上げると、蛍光灯の光がやけに眩しい。

視界の真ん中に、涙でうるんだ舞子の顔があった。

「ハルくん……起きた……!」

目尻から、ぽろぽろと涙がこぼれている。

「ん……もう大丈夫」

自分の声が、少し遠くから聞こえるみたいだ。
でも、不思議なくらい、右肩の痛みは引いていた。

前にも経験があるが、脱臼は、入れてもらった瞬間にスイッチを切ったみたいに痛みが消える。
もちろんしびれや違和感は残っているけれど、さっきまでの「腕ごともげた」みたいな痛みは、跡形もなかった。

「おー。もう入れてもろとるやん」

聞き慣れた声がして、カーテンがシャッと開いた。

「試合、勝ったぞ」

ヒロくんと三品先輩が病室に入ってくる。

「それは……よかったです」

まだ少しぼんやりしながら言うと、ヒロくんがベッドの脇に立って笑った。

「こっちの心配もええけどな、お前が転がった瞬間、みんな一瞬で青ざめとったんやぞ」

「すみません……」

彼らは、僕の荷物と車を届けるために、わざわざ希望が丘から済生会まで回って来てくれたらしい。

「京都まで運転して送ろか?」

ヒロくんが、車のキーをひょいと掲げる。

「いや、大丈夫。運転くらいやったら、いけると思う」

右肩をそっと試すように動かしてみる。
ぴきっと嫌な感覚は走るが、ハンドルを握るくらいなら何とかなりそうだ。

「無理すんなよ。お前の『いけるいける』は信用ならん」

ヒロくんが笑うと、舞子がぴょこんと頭を下げた。

「ヒロさん、ありがとうございます。ハルくんのために」

「いやいや。ていうか舞子ちゃん、ほんま奥さんみたいやな」

「え?」

舞子が一瞬固まる。
そこへ三品先輩が、きょとんとした顔で首をかしげた。

「え、ヒロ、この子と知り合いなん? 中田の彼女ちゃうん?」

「いや、この子はハルヒトの親戚の子らしいですよ。
最近よう一緒におるんです」

ヒロくんがさらっと説明してくれる。

「へえ……」

納得したんだかしてないんだか分からない声を出しつつ、先輩は僕と舞子をじろじろ見ていた。

「ま、今日は無理せんと、ちょっと休んでからゆっくり帰れ」

「ありがとうございます」

駐車場へ向かう途中まで、先輩はまだしつこく、

「ほんまに彼女ちゃうん?」

と2、3回は確認してきたが、全部軽く受け流した。
2人はヒロくんの車に乗り込み、手を振って帰っていった。

◇    ◇    ◇    ◇

「ハルくん、本当に大丈夫?」

病院の駐車場で、舞子が心配そうに僕の右肩を見つめる。

「いけるいける。さっきよりだいぶマシやし。
ほら、こうやってハンドル握るくらいやったら平気」

運転席に座り、左手でハンドルを持ちながら、右手を少しだけ添えてみせる。
正直、ちょっとだけズキっとくるけど、顔には出さない。

「ほんとに? 痛かったらすぐ言ってね」

「分かってるって。ほな、帰ろか」

そう言いかけた時、頭の隅にひっかかっていた記憶がふっと浮かんだ。

──そういえば、オカンが言うてたな。
「滋賀まで来るんやったら、顔見せに寄り」って。

「あ、そうや」

思わず声が出る。

「ん?」

「オカンがな、滋賀来るんやったら実家寄りって言うててん。
どうする? しんどなかったら、ちょっと寄っていこか」

そう言うと、舞子の表情がぱっと明るくなった。

「行く!……
もしよかったら、だけど」

最後だけ、少し声が小さくなる。
その遠慮がちさが、くすぐったい。

「ええよ。オカン喜ぶと思うわ」

僕はうなずき、8号線をそのまま南へ走らせた。
宅屋の信号を左折すると、見慣れた田んぼと家並みの続く道に入る。

同じ道なのに、助手席に舞子が座っているだけで、
景色が、ほんの少しだけ違って見えた。

◇    ◇    ◇    ◇

「あんた、また肩抜けたんやって? もうラグビーとか辞めとき!」

玄関を開けるなり、オカンの声が飛んできた。
どうやら先輩が、病院から電話しておいてくれたらしい。

「いや、辞めへんけど。てか、ただいまくらい言わして」

「はいはい。おかえり」

「で、どうしたん? 家寄りって?」

靴を脱いでいると、台所へ向かいかけたオカンが、ふと振り返った。

「あれ? こないだのお嬢ちゃんやんかいさ?」

「こんにちは。お邪魔します」

舞子が、きれいにお辞儀をする。
バーベキューの時に一度会っているので、オカンもすぐ思い出したらしい。

「よう来てくれたなあ。まあ上がって上がって」

「池のおっちゃんもな、『また肩外したらしいで』言うたら、『あいつは昔から加減いうもん知らん』て笑とったで」

「池のおっちゃん?」

舞子が小さく首をかしげる。

「野洲川のほとりで鮎の養殖やってる親戚がおってな。あだ名が“池のおっちゃん”やねん」

僕が補足した。

毎年夏になると、ヒレ欠けやら寸足らずやら、
見た目の理由で“商品にならん”鮎を、どっさり分けてくれる。

そのせいで、うちの冷凍庫は夏の間ずっと鮎でぎゅうぎゅうだ。

晩ごはん前の定番のやり取りといえば、だいたいこうだ。

「今日は何匹食べる?」

「ワシ3匹」「僕5匹!」「ほな僕4匹!」

だから、初めて錦市場で観光客向けの鮎の値段を見た時は、本気で腰を抜かしそうになった。

「え、鮎って……こんな高級品なん……?」

あの時の衝撃は、今思い出しても笑ってしまう。

前にその話をしたら、舞子は目を丸くして、

「鮎なんか超高級で、観光地で1本買ってみんなで食べるものだよー」

と言っていた。

「ようけあるさけ、持って帰ってもらお思てな。
そっちのお嬢ちゃんは滋賀県?」

オカンが舞子に向かって聞く。

「いえ、大阪です」

「そうかいな。
ほしたらハルヒト、お嬢ちゃんにも滋賀の鮎いっぱい食べさしたってな」

ありがたい申し出だが、さすがに今日は、
帰ってから駐車場で炭を熾して鮎を焼く元気はない。

「いや、肩のこともあるし、それはまた今度にするわ。ありがとう」

「そうかいな……お嬢ちゃん喜ぶか思てたんやけどなあ。
あ、そうや。お父さん! お父さん!」

奥の部屋に向かって声を張ると、新聞を読んでいた親父が顔を出した。

「なんや、また外したらしいな。おお、なんやエラい若い彼女連れて」

「彼女ちゃうし」

条件反射で突っ込む前に、オカンが口を挟む。

「このお嬢ちゃんに滋賀の鮎食べさせたろ思てな。
せやけどハルヒトが肩外したから、今日は家で焼くん無理や言うねん」

「ほんなら、あそこやな。宝山さん連れてったったらどうや?」

親父がぽんと手を叩いた。

「私もそれ思てな。電話したろ思てあんた呼んだんや」

オカンが続ける。

「そうかそうか。ハルヒト、それくらいの時間はあるやろ?」

宝山というのは、町で土建会社をやってる社長さんがやっている料理屋で、
このあたりの人間にとっては、祝い事でも節句でも、

「ほな、とりあえず宝山で会席食べよか」

とまず名前が挙がるような、ちょっと特別な場所だ。

僕も子どもの頃から何度も連れて行ってもらった。

冬は鴨鍋、夏は鮎の塩焼き。
一年じゅう近江牛の陶板焼き。
季節の匂いをそのまま乗せたみたいな滋賀県の料理が、でんとテーブルに並ぶ。

「払いはこっちでしといたるさけ、食べといで」

親父があっさりそう言った。

学生の身分で自腹で行くには、正直かなり勇気のいる値段だ。
けれど、親が手配してくれるというのなら、乗らない手はない。

「いやそんな、申し訳ないですし……」

と舞子が慌てて遠慮する。

「ええからええから」

オカンと親父と、ついでに僕まで一緒になって言っていたら、
親父に、

「いや、お前は薦める側やのうて、一緒に恐縮する側やろ」

と笑われた。

それでも何とか、舞子も「それじゃあ、お言葉に甘えて」と、
ありがたく招待を受けてくれることになった。

──────────

「ほな、そういうことで頼みますわ。
支払いはこっちに回しといて下さい」

電話の向こうに手短に告げて、親父が受話器を置く。
こういう段取りだけは、ほんまに早い。

「あっちも空いとる言うてたわ。
鮎の塩焼きのコース用意してくれるから、
ここからやったら、まあ30分もあれば着くな。行ってこい」

「ありがとう」

「ハルヒト、ちょっと待ち」

オカンが冷蔵庫を開けて、タッパーをひとつ取り出した。

「これ、今年の落ち鮎の飴炊き。
ようけ子ぉ入っとるで。
これやったら日持ちするさけ、持って帰り」

「うわ。ありがとう!」

想像だけで唾を飲み込む。

醤油と砂糖で甘辛く炊かれた鮎に、山椒の香りがふわっと乗る。
骨までやわらかくて、ほろっと崩れる身。
ぎっしり卵の詰まった子持ち鮎となれば、もう反則だ。

「ほな、行っておいで」

「言うても肩不自由なんやさかい、運転気ぃ付けてな」

「分かってる。ほな、行ってきます」

「ありがとうございます。お邪魔しました」

玄関でそろって頭を下げると、オカンが最後に「無茶せえへんようにな」と手を振った。

僕らは実家をあとにして、宝山へ向かって車を走らせる。

アクセルを踏む右足と、そっとハンドルに添えた右手に、
さっきとは違う種類の緊張が走る。

「怪我の功名だね」

助手席でシートベルトを締め直しながら、舞子がぽつりと言った。

横目で見ると、いたずらを思いついた時みたいな顔で笑っている。

「せやな」

僕も笑い返した。

寄り道だらけの一日やけど──
悪くない寄り道やな、と思った。
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