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第73話 夜明け前
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「さ、行こか」
ゴローちゃんを車に乗せてエンジンをかける。
空がほのかに白み始めていた。
少しずつ日が長くなり春が近いとは言え、3月2週目の京都の朝はまだまだ寒かった。
特に今朝は冷え込んで、車には霜が降りている。
三条通から京都東インターを目指す。
蹴上のインクラインはまだ暗く、眠っているように静かだ。
ヘッドライトに照らされた線路と、まだ丸裸の桜並木の輪郭がかすかに浮かんでは闇に沈み、春と冬の境目の時間を映していた。
名神に上がって蝉丸トンネルを抜け、大津のパーキングを過ぎる頃には空の色もすっかり白み、栗東、竜王と見慣れたインターを通り過ぎていく。
多賀のパーキングに差し掛かる頃にはすっかり朝になったが、天気は冷たい風が舞う薄曇りで、伊吹山の稜線は霧にぼんやりと滲み、どこか冬の残り香が漂っていた。
今日は多賀で休憩は取らず一気に米原ジャンクションから養老のパーキングまで。
養老の駐車エリアはがらんとして、まだ夜の延長のような静けさに包まれていた。
トイレに行って戻ってくると、後席のマジソンバッグの中に潜り込んで眠っていたゴローちゃんが起きてきて助手席に座り、こちらを見上げていた。
ボウルにカリカリを入れ、もう一つのボウルを持ってもう一度トイレに行って水を入れてくる。
美味しそうな音を立てて朝食を摂るゴローちゃんを眺めながら、僕はカゴに入れてきたスタンレーの水筒から蓋にコーヒーを注いだ。
「あっつ」
2時間前に淹れたコーヒーはまだ熱々で、僕の嫌いな酸味は全く出ていなくて、炭焼きの豆独特の香ばしい苦みが口中に広がった。
ちょっと面倒だったけど、持ってきてよかった。
もう高速のパーキングの泥水は懲り懲りだ。
朝ご飯を食べていなかったので小腹が空いているのだが、まだ朝早すぎて売店はネットが下りたままで、レストランの明かりも消えている。
開いているのは自販機のコーナーだけで、蛍光灯の白い光がやけに冷たく感じられた。
コーヒーを飲み終え、ゴローちゃんも落ち着いたのを確認して再スタート。
養老から一宮は、無駄にのっぺりと田んぼの中の直線が続く。
木曽川を越え、小牧のジャンクションから中央道に入ると、道はさっきまでとは一転してカーブと勾配がどんどんきつくなり、視界は山の風景になった。
「木曽路はすべて山の中である」
島崎藤村はよく言ったものだ。
この書き出しは天才の所業だ。
この先に何が待っているのかは分からない。
けれど、少なくとも今は、まだ“夜明け前”なのだ。
養老を出てから、まだ1時間ほどしか走っていない。
けれど腹は正直で、ちょうど8時を回った頃だし、そろそろレストランも開いているだろうと思って、恵那峡のパーキングに入った。
予想どおり、フードコーナーの灯りはすべて点いていた。
せっかくだから信州そばでも、と思いかけて、ふと横を見る。
――飛騨牛ステーキ丼。
旅先の魔力というやつだ。
券売機の前に立つと、もう選択肢はなくなっていて、気づけばチケットを買っていた。
番号を呼ばれて受け取った丼は、四角いお盆にちんまりと収まっている。
箸を取り、冷水機で紙コップに水を注ぎ、席に戻って蓋を取った瞬間、
「……は?」
思わず声が漏れた。
ステーキとは名ばかりの、焼肉みたいに薄くて小さい肉が、申し訳程度に数枚乗っている。
不味くはない。けれど、別にうまくもない。
――いや、違うだろ。
今日はご当地グルメを楽しむ旅じゃない。
舞子を探しに来たんだ。
朝から肉を食って文句を言っている場合じゃない。
残りをさっさと胃に押し込み、立ち上がる。
……と思ったが、やっぱり五平餅だけは外せなかった。
炭で炙られた味噌の香ばしさが、冷たい朝の空気にふわりと広がる。
ひと口かじると、甘じょっぱい温もりが、張りつめていた体にすっと染み込んだ。
再びハンドルを握る。
道は次第に勾配を増し、左右には険しい山肌が迫ってくる。
谷あいにはまだ濃い影が残り、日差しが差しても、どこか薄暗い。
黙々と走っているうちに、やがて諏訪湖パーキングの表示が現れた。
――ずいぶん、遠くまで来てしまったな。
そんな思いが、遅れて胸に落ちてきた。
少し休むか、と車を停め、建物を抜けて展望デッキへ出る。
扉を開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
視線の先には、諏訪湖の向こうに八ヶ岳の白い稜線が、春霞の中にかすんでいる。
「水たまり?」
武田勝頼の母の生誕地、勇猛果敢な御柱祭り、御神渡りの神秘。
有名な湖だから期待していたんだが、眼下には極めて小さな水たまりがあった。
滋賀県出身者からしたら。
がっかりして車に戻ると、ゴローちゃんはまだ寝ている。
本当によく寝るなあ。
頭を軽く撫でて、再びスタンレーからコーヒーを飲むと、まだ全く冷めていなかった。
美味い。
少し休んでから諏訪ICで高速を降り、松本方面へ車を向けた。
諏訪湖の西岸をなぞるように走りながら地図を確認していると、ふと視界に緑の看板が飛び込んでくる。
――長野道。
一瞬、胸がざわついた。
この前、舞子と安曇野の「ペンション No Side」に泊まったときに、確かに通った道だ。
どうやら「諏訪湖」の表示ばかり追いかけていて、岡谷のジャンクションを通り過ぎてしまっていたらしい。
少し遠回りになるが、構わない。
岡谷からもう一度高速に乗り、松本まで一気に走ることにした。
松本で降りて、山へ向かう国道に入る。
三才山トンネルを抜け、上田へ――
このあたりまで来ると、体が道順を覚えている気がした。
小諸を過ぎ、国道18号に入る。
軽井沢へ続くこの道は、初めて舞子と会った日、スキー帰りにタツヤたちと一緒に走った道と同じだった。
あの時は、まだ何も始まっていなかった。
まさか、こんな気持ちで同じ道を走ることになるなんて、想像もしなかった。
気づけば、道路の脇に雪が残り始めている。
軽井沢が近づくにつれ、白い帯は少しずつ厚みを増していった。
けれど車道そのものは、融雪剤のおかげで黒く乾いている。
「帰ったらすぐ車洗わんと錆びるやん…」
ハンドルを握りながら、僕は前を見つめる。
問題は、道じゃない。
――辿り着いた先で、何と向き合うことになるのか、それだけだった。
やがて僕とゴローちゃんは、軽井沢に着いた。
店先の古い看板には、
「手打生……」
最後の二文字は達筆すぎて読めない。
でも、たぶん「そば」だ。
1年前と同じ老舗の蕎麦屋。
舞子がいるとしたら、ここしかない。
そう思うと、自然に車のドアを開けていた。
1年前の1月、僕はここで舞子と出会った。
店内をペンギンみたいにパタパタ動き回って働く姿が気になって、
衝動的に箸袋に名前と連絡先を書いて渡した。
それだけのはずだった。
なのに翌週、舞子はいきなり京都に現れて、
僕のアパートに転がり込み、
そのまま、当たり前みたいに一緒に暮らし始めた。
あれから、色んな場所へ行って、くだらないことで笑って、
気づけば「一緒にいる」ことが、生活そのものになっていた。
好奇心旺盛で、落ち着きがなくて、
突拍子もないことを言い出すくせに、
実は人見知りで、少し緊張しぃで。
美味しいものを前にすると、
ハムスターみたいに頬をふくらませて、無言で食べ続けて。
困ったときには、いつも思いがけない方法で助けてくれた。
――きっと、舞子はここにいる。
僕は舞子を連れて帰る。
そしてまた、一緒に錢湯へ行く。
その光景を思い浮かべるだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
────
ちょうどお昼時とあって、店の前には行列ができている。
とりあえず列の最後尾に並んだ。
「はいお次何名さま?!」
店の人が出てきた。
僕の前にはたくさん人が並んでいるが、別に食べるために順番を割り込むわけじゃない。
列の先頭まで行って店の人に声を掛ける。
「すみません!ここに舞子って子が…」
「は!?何ですか?順番を」
「いやだから、ここに林舞子って子がいませんか!?」
「はいはい!ナンパ冷やかしお断り!お次の方どうぞ!」
……しまった。
気がはやりすぎた。
改めて列の後ろに並ぶ。
やはりここは順番を待つしかない。
「はい、お次何名様ですか?」
やっと僕の番になり、さっきの人とは違う若い男の子が出てきた。
「あ、すみません。客じゃなくて、あの、ここに林舞子って子がいませんか!?」
やはり怪訝な顔をされたが、男の子は
「ぼく先週からのバイトですけど、林?舞子?って人はいないですね」
え。
「あ、おばちゃんたちの名前は知らないです。聞いてきましょうか?」
人の良さそうな男の子は親切にそう続ける。
「いえ、結構です。ありがとうございます」
そう言って僕は列を離れた。
「あれ?お客さん!食べないんですか!?」
◇ ◇ ◇ ◇
最後の望みの糸が、静かに切れた。
ここにも、舞子はいなかった。
それだけの事実を受け止めきれないまま、
僕は気づけばまた中央道を西へ向かって走っていた。
午後の陽射しはもう傾き始めているのに、フロントガラスの向こうの景色は、やけに色を失って見える。
山の輪郭も、空の青さも、どこか平板で、まるで薄い紙を何枚も重ねたみたいだった。
ラジカセからはAORが流れている。
いつもなら好きなはずの音なのに、今日は旋律も歌詞も、耳の奥を素通りするだけで、代わりにハイウェイの白線だけが、無表情に流れていった。
頭の中は空っぽだ。
なのに、問いだけが沈殿したみたいに重い。
――ここにいないとしたら、舞子はどこにいるんだ。
――そもそも、どうして彼女は、僕の前から消えたんだ。
答えのない疑問が、
速度を落とさずに、何度も何度も戻ってくる。
これじゃまるで、
「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」じゃないか。
────あんた、あの娘の何なのさ?
自分に向けられている気がして、
思わずハンドルを握る手に力が入る。
いや、どちらかといえば――
今の僕は「あずさ2号」か。
────いつか あなたと行くはずだった
────春まだ浅い 信濃路へ
────行く先々で想い出すのは
────あなたのことだと分かっています
歌詞が、今さらのように胸に引っかかる。
思考は同じところをぐるぐると回り、出口のない環状線みたいに、先へ進めない。
何度問いかけても、午後の光は答えをくれない。
ただ、無言のまま、僕の背中を西へ、西へと押し続けるだけだった。
「にゃ」
ゴローちゃんが慰めるように膝に乗ってきた。
僕の顔を見上げる。
「ニ゛ャー!」
違った。やっぱり腹が減ったらしい。
その鳴き声に苦笑しながら、気づけば僕の腹も空っぽだった。
あれほど焦って探していたのに、いなくなった舞子の影を追ううち、自分のことなど忘れていた。
「蕎麦、食べてきたらよかったな」
午後の陽射しがフロントガラスに反射し、目を細めながらウィンカーを出す。
恵那峡の下りのパーキングに車を滑り込ませた。
◇ ◇ ◇ ◇
「え?舞子?」
僕が舞子によく似たその女の子を見かけたのは、その2週間ちょっと後、3月の末の金沢の街だった。
──まだ夜は明けていない。
ゴローちゃんを車に乗せてエンジンをかける。
空がほのかに白み始めていた。
少しずつ日が長くなり春が近いとは言え、3月2週目の京都の朝はまだまだ寒かった。
特に今朝は冷え込んで、車には霜が降りている。
三条通から京都東インターを目指す。
蹴上のインクラインはまだ暗く、眠っているように静かだ。
ヘッドライトに照らされた線路と、まだ丸裸の桜並木の輪郭がかすかに浮かんでは闇に沈み、春と冬の境目の時間を映していた。
名神に上がって蝉丸トンネルを抜け、大津のパーキングを過ぎる頃には空の色もすっかり白み、栗東、竜王と見慣れたインターを通り過ぎていく。
多賀のパーキングに差し掛かる頃にはすっかり朝になったが、天気は冷たい風が舞う薄曇りで、伊吹山の稜線は霧にぼんやりと滲み、どこか冬の残り香が漂っていた。
今日は多賀で休憩は取らず一気に米原ジャンクションから養老のパーキングまで。
養老の駐車エリアはがらんとして、まだ夜の延長のような静けさに包まれていた。
トイレに行って戻ってくると、後席のマジソンバッグの中に潜り込んで眠っていたゴローちゃんが起きてきて助手席に座り、こちらを見上げていた。
ボウルにカリカリを入れ、もう一つのボウルを持ってもう一度トイレに行って水を入れてくる。
美味しそうな音を立てて朝食を摂るゴローちゃんを眺めながら、僕はカゴに入れてきたスタンレーの水筒から蓋にコーヒーを注いだ。
「あっつ」
2時間前に淹れたコーヒーはまだ熱々で、僕の嫌いな酸味は全く出ていなくて、炭焼きの豆独特の香ばしい苦みが口中に広がった。
ちょっと面倒だったけど、持ってきてよかった。
もう高速のパーキングの泥水は懲り懲りだ。
朝ご飯を食べていなかったので小腹が空いているのだが、まだ朝早すぎて売店はネットが下りたままで、レストランの明かりも消えている。
開いているのは自販機のコーナーだけで、蛍光灯の白い光がやけに冷たく感じられた。
コーヒーを飲み終え、ゴローちゃんも落ち着いたのを確認して再スタート。
養老から一宮は、無駄にのっぺりと田んぼの中の直線が続く。
木曽川を越え、小牧のジャンクションから中央道に入ると、道はさっきまでとは一転してカーブと勾配がどんどんきつくなり、視界は山の風景になった。
「木曽路はすべて山の中である」
島崎藤村はよく言ったものだ。
この書き出しは天才の所業だ。
この先に何が待っているのかは分からない。
けれど、少なくとも今は、まだ“夜明け前”なのだ。
養老を出てから、まだ1時間ほどしか走っていない。
けれど腹は正直で、ちょうど8時を回った頃だし、そろそろレストランも開いているだろうと思って、恵那峡のパーキングに入った。
予想どおり、フードコーナーの灯りはすべて点いていた。
せっかくだから信州そばでも、と思いかけて、ふと横を見る。
――飛騨牛ステーキ丼。
旅先の魔力というやつだ。
券売機の前に立つと、もう選択肢はなくなっていて、気づけばチケットを買っていた。
番号を呼ばれて受け取った丼は、四角いお盆にちんまりと収まっている。
箸を取り、冷水機で紙コップに水を注ぎ、席に戻って蓋を取った瞬間、
「……は?」
思わず声が漏れた。
ステーキとは名ばかりの、焼肉みたいに薄くて小さい肉が、申し訳程度に数枚乗っている。
不味くはない。けれど、別にうまくもない。
――いや、違うだろ。
今日はご当地グルメを楽しむ旅じゃない。
舞子を探しに来たんだ。
朝から肉を食って文句を言っている場合じゃない。
残りをさっさと胃に押し込み、立ち上がる。
……と思ったが、やっぱり五平餅だけは外せなかった。
炭で炙られた味噌の香ばしさが、冷たい朝の空気にふわりと広がる。
ひと口かじると、甘じょっぱい温もりが、張りつめていた体にすっと染み込んだ。
再びハンドルを握る。
道は次第に勾配を増し、左右には険しい山肌が迫ってくる。
谷あいにはまだ濃い影が残り、日差しが差しても、どこか薄暗い。
黙々と走っているうちに、やがて諏訪湖パーキングの表示が現れた。
――ずいぶん、遠くまで来てしまったな。
そんな思いが、遅れて胸に落ちてきた。
少し休むか、と車を停め、建物を抜けて展望デッキへ出る。
扉を開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
視線の先には、諏訪湖の向こうに八ヶ岳の白い稜線が、春霞の中にかすんでいる。
「水たまり?」
武田勝頼の母の生誕地、勇猛果敢な御柱祭り、御神渡りの神秘。
有名な湖だから期待していたんだが、眼下には極めて小さな水たまりがあった。
滋賀県出身者からしたら。
がっかりして車に戻ると、ゴローちゃんはまだ寝ている。
本当によく寝るなあ。
頭を軽く撫でて、再びスタンレーからコーヒーを飲むと、まだ全く冷めていなかった。
美味い。
少し休んでから諏訪ICで高速を降り、松本方面へ車を向けた。
諏訪湖の西岸をなぞるように走りながら地図を確認していると、ふと視界に緑の看板が飛び込んでくる。
――長野道。
一瞬、胸がざわついた。
この前、舞子と安曇野の「ペンション No Side」に泊まったときに、確かに通った道だ。
どうやら「諏訪湖」の表示ばかり追いかけていて、岡谷のジャンクションを通り過ぎてしまっていたらしい。
少し遠回りになるが、構わない。
岡谷からもう一度高速に乗り、松本まで一気に走ることにした。
松本で降りて、山へ向かう国道に入る。
三才山トンネルを抜け、上田へ――
このあたりまで来ると、体が道順を覚えている気がした。
小諸を過ぎ、国道18号に入る。
軽井沢へ続くこの道は、初めて舞子と会った日、スキー帰りにタツヤたちと一緒に走った道と同じだった。
あの時は、まだ何も始まっていなかった。
まさか、こんな気持ちで同じ道を走ることになるなんて、想像もしなかった。
気づけば、道路の脇に雪が残り始めている。
軽井沢が近づくにつれ、白い帯は少しずつ厚みを増していった。
けれど車道そのものは、融雪剤のおかげで黒く乾いている。
「帰ったらすぐ車洗わんと錆びるやん…」
ハンドルを握りながら、僕は前を見つめる。
問題は、道じゃない。
――辿り着いた先で、何と向き合うことになるのか、それだけだった。
やがて僕とゴローちゃんは、軽井沢に着いた。
店先の古い看板には、
「手打生……」
最後の二文字は達筆すぎて読めない。
でも、たぶん「そば」だ。
1年前と同じ老舗の蕎麦屋。
舞子がいるとしたら、ここしかない。
そう思うと、自然に車のドアを開けていた。
1年前の1月、僕はここで舞子と出会った。
店内をペンギンみたいにパタパタ動き回って働く姿が気になって、
衝動的に箸袋に名前と連絡先を書いて渡した。
それだけのはずだった。
なのに翌週、舞子はいきなり京都に現れて、
僕のアパートに転がり込み、
そのまま、当たり前みたいに一緒に暮らし始めた。
あれから、色んな場所へ行って、くだらないことで笑って、
気づけば「一緒にいる」ことが、生活そのものになっていた。
好奇心旺盛で、落ち着きがなくて、
突拍子もないことを言い出すくせに、
実は人見知りで、少し緊張しぃで。
美味しいものを前にすると、
ハムスターみたいに頬をふくらませて、無言で食べ続けて。
困ったときには、いつも思いがけない方法で助けてくれた。
――きっと、舞子はここにいる。
僕は舞子を連れて帰る。
そしてまた、一緒に錢湯へ行く。
その光景を思い浮かべるだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
────
ちょうどお昼時とあって、店の前には行列ができている。
とりあえず列の最後尾に並んだ。
「はいお次何名さま?!」
店の人が出てきた。
僕の前にはたくさん人が並んでいるが、別に食べるために順番を割り込むわけじゃない。
列の先頭まで行って店の人に声を掛ける。
「すみません!ここに舞子って子が…」
「は!?何ですか?順番を」
「いやだから、ここに林舞子って子がいませんか!?」
「はいはい!ナンパ冷やかしお断り!お次の方どうぞ!」
……しまった。
気がはやりすぎた。
改めて列の後ろに並ぶ。
やはりここは順番を待つしかない。
「はい、お次何名様ですか?」
やっと僕の番になり、さっきの人とは違う若い男の子が出てきた。
「あ、すみません。客じゃなくて、あの、ここに林舞子って子がいませんか!?」
やはり怪訝な顔をされたが、男の子は
「ぼく先週からのバイトですけど、林?舞子?って人はいないですね」
え。
「あ、おばちゃんたちの名前は知らないです。聞いてきましょうか?」
人の良さそうな男の子は親切にそう続ける。
「いえ、結構です。ありがとうございます」
そう言って僕は列を離れた。
「あれ?お客さん!食べないんですか!?」
◇ ◇ ◇ ◇
最後の望みの糸が、静かに切れた。
ここにも、舞子はいなかった。
それだけの事実を受け止めきれないまま、
僕は気づけばまた中央道を西へ向かって走っていた。
午後の陽射しはもう傾き始めているのに、フロントガラスの向こうの景色は、やけに色を失って見える。
山の輪郭も、空の青さも、どこか平板で、まるで薄い紙を何枚も重ねたみたいだった。
ラジカセからはAORが流れている。
いつもなら好きなはずの音なのに、今日は旋律も歌詞も、耳の奥を素通りするだけで、代わりにハイウェイの白線だけが、無表情に流れていった。
頭の中は空っぽだ。
なのに、問いだけが沈殿したみたいに重い。
――ここにいないとしたら、舞子はどこにいるんだ。
――そもそも、どうして彼女は、僕の前から消えたんだ。
答えのない疑問が、
速度を落とさずに、何度も何度も戻ってくる。
これじゃまるで、
「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」じゃないか。
────あんた、あの娘の何なのさ?
自分に向けられている気がして、
思わずハンドルを握る手に力が入る。
いや、どちらかといえば――
今の僕は「あずさ2号」か。
────いつか あなたと行くはずだった
────春まだ浅い 信濃路へ
────行く先々で想い出すのは
────あなたのことだと分かっています
歌詞が、今さらのように胸に引っかかる。
思考は同じところをぐるぐると回り、出口のない環状線みたいに、先へ進めない。
何度問いかけても、午後の光は答えをくれない。
ただ、無言のまま、僕の背中を西へ、西へと押し続けるだけだった。
「にゃ」
ゴローちゃんが慰めるように膝に乗ってきた。
僕の顔を見上げる。
「ニ゛ャー!」
違った。やっぱり腹が減ったらしい。
その鳴き声に苦笑しながら、気づけば僕の腹も空っぽだった。
あれほど焦って探していたのに、いなくなった舞子の影を追ううち、自分のことなど忘れていた。
「蕎麦、食べてきたらよかったな」
午後の陽射しがフロントガラスに反射し、目を細めながらウィンカーを出す。
恵那峡の下りのパーキングに車を滑り込ませた。
◇ ◇ ◇ ◇
「え?舞子?」
僕が舞子によく似たその女の子を見かけたのは、その2週間ちょっと後、3月の末の金沢の街だった。
──まだ夜は明けていない。
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