ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗

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第74話 加賀百万石の街角で

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正直に言えば、舞子探しはもう万策尽きていた。

バイト先はすでに退職していて、
よく話に出てきた「仲のいいお姉さん」については、名前すら知らない。

実家の住所も電話番号も分からない。
聞いていたのは「泉州」という大まかな地域と、最寄り駅らしき名前だけ。
だからといって、その駅でいつ戻ってくるかも分からない舞子を待ち続けるわけにもいかなかった。

一番可能性が高いと思っていた軽井沢の蕎麦屋も、少なくとも一週間前の時点では、そこに舞子はいなかった。
それ以上の手がかりは、何ひとつ得られなかった。

結局、僕にできることは限られていた。
ここで一緒に暮らしていた頃の生活圏――
スーパーや錢湯、定食屋やラーメン屋、そして鴨川デルタ。
そうした場所で日々をやり過ごしながら、
「戻ってきた舞子」や、「実はまだこの街にいる舞子」と、偶然すれ違うことを期待するしかない。

けれど、その場所のひとつひとつが、舞子の存在を否応なく思い出させる。

笑顔や、声や、忙しなくパタパタと歩く後ろ姿。
ハムスターみたいに頬を膨らませて、夢中でご飯を食べていた横顔。

僕は行き交う道の途中でさえ、
信号の向こう側や、路地裏や、塀の隙間や、叡電の踏切の向こうにまで、
いるはずのない舞子の姿を、分かっていながら探し続けていた。

もう手立てはないと分かっていながら、
それでも目だけが、勝手に彼女を探してしまう。

そんな時間の隙間に、否応なく就職活動という現実が割り込んでくる。

部屋に届いた分厚い『Recruit Book 1990』の中から、
「情報・マスコミ編」以外はほとんど反射的にゴミ袋へ放り込んだ。
興味があるというより、他に目を向ける余裕がなかった。

ページを繰ると、関東の会社ばかりが目につく。
関西の広告やマスコミの欄は驚くほど少ない。
それでも、東京に出ていく気にはなれなかった。
理由を言葉にしようとすると曖昧になるけれど、
僕は京都、少なくとも関西で暮らしたかった。

大手から中堅、聞いたこともない小さな代理店や制作会社まで、
巻末のはがきを切り離し、
名前、住所、電話番号、大学名、学部――
ほとんど考える余地のない項目を淡々と埋めていく。

「有効求人倍率は2.77倍。空前の売り手市場です」

何度も聞かされたその言葉は、
希望というより、どこか他人事のままだった。

説明会の案内は次々に届き、
電話をかけると、向こうの声は妙に愛想がいい。
交通費全額支給。
中小の会社からは、説明会に来てくれと直接電話までかかってくる。

同期のタツヤは、試しにかけた一本の電話で、
大学名を告げただけで社長面接を約束されたらしい。
東京に行った連中の中には、
説明会を梯子して交通費と宿泊費を稼いでいるやつもいる。

僕のシステム手帳にも、
4月から説明会の予定がびっしりと書き込まれていった。

はがきを出し、案内を読み、予約を入れる。
それだけで、一日が静かに終わっていく。

朝ご飯を作り、昼ご飯を作る。
夜は相変わらず、舞子と一緒に行ったことのある定食屋を巡り、
最後は錢湯へ行く。

同じ道、同じ暖簾、同じ湯気。
違うのは、隣に舞子がいないことだけだった。

選択肢は増えていくのに、
一番大事なものだけが、どこにも見当たらない。

そんな感覚のまま、
僕は社会に押し出される準備だけを、淡々と進めていた。

ユリカの来襲も、香織の誘いも、薫子からの復縁を匂わせる電話も、すべて遠ざけた。
断ることができない僕は、いつものように曖昧な言葉で上手くはぐらかす。
週に2回ほどバイトに入り、バンドの練習とラグビーの練習にそれぞれ一度ずつ顔を出す。
それ以外の時間は、ほとんどを一人で過ごしていた。

大学に入って以来――いや、物心ついて以来、
こんなふうに、誰とも過ごさずに一日を終えることはなかった気がする。
舞子は、気づかないうちに、僕の生活の大部分を占めていたのだと、
その不在によって初めて思い知らされた。

鴨川デルタには、
いつの間にか、はっきりと春の匂いが漂い始めていた。

◇    ◇    ◇    ◇

「次は武生~。武生に停車致します。」

鼻にかかった車掌さんの車内アナウンスが流れた。
特急スーパー雷鳥、京都駅7時34分発、金沢行き。
今月登場したばかりの、雷鳥のグレードアップ版車両だ。
僕は家族と一緒にボックスシートで駅弁を食べていた。
母方の大叔父さんの七回忌が3月の最後の土曜日に金沢であるということで、僕も呼び出されたのだ。

母の実家の本家は、富山の氷見にある。
母方の祖母の姉――僕にとっての大叔母が婿を取り、老舗の温泉宿を営んでいた。

その弟にあたる大叔父は旅館を継ぐことを選ばず、金沢へ出て家庭を持った。
僕が中学3年か高校1年だった頃、その大叔父は金沢で亡くなった。

通夜と葬式のために、僕はそのとき初めて金沢を訪れた。
湖西線に乗っている間、車窓には雪がちらついていたから、金沢も雪景色だと思い込んでいた。
ところが着いてみると、外はしっかりとした雨。
拍子抜けすると同時に、少し不思議な気分になったのを覚えている。

金沢は雨の多い街らしく、
「弁当忘れても傘忘れるな」
そんな言葉を教えてもらったのも、そのときだった。

ちなみに祖母は3人兄妹の末っ子で、20歳のときに見合いで中主に嫁いだ。
母は、その中主で生まれ育った。

七回忌の法要は、正直に言って、僕にはただただ退屈だった。
もともと儀式や朝礼、卒業式での校長先生の話みたいなものが大の苦手だ。
正信偈がまだ続いている途中だというのに、落ち着かずに席を立ち、タバコを吸いに行ったりして、とにかく早く終わってくれとそればかり考えていた。

ようやく昼過ぎに法要が終わると、今度はホテルの宴会場に場所を移して親族の会食が始まった。
昼間から酒も入り、会場はすっかり宴会ムードだ。
久しぶりに会う母方の従兄弟たちと話すのは楽しかったけれど、問題はその周囲だった。

ほとんど顔も覚えていないような親戚のおじさんたちが入れ替わり立ち替わり寄ってきて、
「就職はどうするんだ」だの
「新人類は…」だの
好き勝手なことを言ってくる。
悪気がないのは分かっているが、相槌を打つうちに、胸の奥がじわじわと重くなってきた。

耐えきれなくなって、
「ちょっとトイレ行ってきます」
そう言い残し、僕は宴会場を抜け出した。

ホテルの外に出ると、冷たい空気が肺に入ってきて、少しだけ頭が冴えた。
くわえタバコのまま、行き先も決めずに街を歩く。
どこかに行きたいというより、ただ、あの空間から離れたかった。

しばらく歩いたところで、ふと視界の端に案内板が目に入った。

──近江町市場。

知らない街で、知らない人たちから逃げ出した先に、
「市場」という言葉だけが、妙に現実味を持って立っていた。

「近江町?……なんで金沢で近江やねん」

名前に引っかかって、矢印の示す方へ歩き出す。
数分も行かないうちに、アーケードの入口が現れた。

近江町市場。

中は薄暗く、魚の匂いと野菜の青臭さが入り混じっている。
氷が溶けて水を含んだ通路を、買い物袋を下げたおばちゃんたちが慣れた足取りで行き交っていた。
威勢のいい声が飛び、観光客らしい姿は見当たらない。

京都の錦市場に少し似ている。
けれどこちらはもっと荒っぽくて、生きた生活の温度がそのまま残っている感じがした。

蒲鉾屋の前を通りかかったとき、油の匂いが鼻をくすぐった。
奥の鍋から引き上げたばかりのすり身揚げを、おばちゃんが竹串に刺して差し出してくる。

「お兄ちゃん、この辺の人やないね?
 よかったら一本、食べてみまっし」

まだ泡を弾かせている揚げたてに、思わず受け取る。
恐る恐るかじると、表面は香ばしく、中はふわりと軽い。
魚の甘みが、熱と一緒にじんわり広がった。

「……うまい」

思わず声が漏れ、少し口の中を火傷しながら、半分ほど一気に食べてしまう。
さつま揚げに似ているけれど、もっと素朴で、港町の味がした。

竹串を持ったまま歩き出すと、魚屋がやたらと多いことに気づく。
氷の上には、名前も知らない魚がずらりと並び、
溶けた水が通路を細く流れていった。

親に「法事やのに、なんやそのブーツ?」と言われながら履いてきたビーンブーツが役に立った。


「今日はげんげが安いよ?、唐揚げにすると美味しいげん!」

と、金沢ことばの声が飛んでくる。
黒っぽいえびは生きているようにまだぴくぴくと動いていて、僕は思わず足を止めた。

「げんげ? のどぐろ? がすえび?」

京都ではまず目にしない名前ばかりで、値札の横に手書きで“煮付けに”“唐揚げに”と調理法が添えてあるのが面白かった。

市場を一通り歩いて、気が済んだ頃には、
自分がどちらの方角にいるのか、すっかり分からなくなっていた。
とりあえず、明るい方へ――そんな勘だけを頼りに、アーケードの外へ出る。

鼻の奥には、まだ氷と魚の匂いが残っている。
湿った空気が服に染みついたような気もした。
けれど一歩外へ出ると、空気は少し乾いていて、胸の奥がふっと軽くなった。

市場を抜けても、通りの表情はがらりとは変わらない。
茶道具屋、和菓子屋、茶舗、呉服屋。
格子戸と暖簾が続き、どの店も声を張り上げることはない。
派手さはないのに、背筋の伸びる静けさがあった。

――ああ、城下町なんだな。

加賀百万石、なんて言葉が、遅れて腑に落ちる。

通りの向こうで、和菓子屋の格子戸の脇に小さな幟が揺れていた。
白地に控えめな文字で、

「菓子・茶」

なるほど、と足を止める。
甘いものと、静かなお茶。
この街らしい組み合わせだと思った。

と、暖簾を押し分けて出てきた水色の着物姿が目に飛び込んできた。
脇に細長い風呂敷包みを抱えている。

「え?舞子?」

着物姿のその小柄な女の子は、一瞬舞子に見えた。
いや、金沢に舞子がいるはずはない。
他人の空似か…そう思いながらも、僕はその後を追いかけようとした。
しかしタイミング悪く信号が赤になってしまい、水色の着物は人混みの向こうに消えていった。

「この店から出てきたよなぁ」

そう呟いて、お店の人に訊いてみようと格子戸に手をかけた時、奥から笑い声と一緒に年配の女性の声が聞こえた。

「マイコちゃん、また傘忘れていったげんわ」

舞子?今舞子って言ったか?

「あの子、いつもパタパタしとるじ」

おばちゃんが笑う。
もう間違いない。
僕は確信とともに格子戸を引き、店の中に入った。

「すみません、マイコちゃんって林舞子ですか?僕その子の親戚なんですけど」

とっさに思いついたにしては上手く言えたと思う。

「あら、ちょうどいいとこに来てくれたね。ほんならこの傘、秋海棠(しゅうかいどう)の宿まで届けてあげてまっし。マイコちゃん、ほんと傘ばっかり忘れてくげんよ。慌てんぼさんやね」

「傘をずっと?」

「そうそう、よくお茶を買いに来てくれるんが、『金沢は弁当忘れても傘忘れるな』って教えられてから、ちゃんと持ち歩いとるんやけどね。可愛くて礼儀正しいからウチの主人が気に入って、すっかり仲良しになって。お茶と和菓子食べながらお喋りしてるうちに、いつも時間忘れて慌てて帰るもんやから、もう3本もここに置いてってしもうたんよ」

渡された傘には、3本とも「秋海棠」という銘が入っていた。

「分かりました。届けます。でも僕、京都から来たんで、このお宿の場所教えてもらえますか?」

おばちゃんは「京都から?」と目を丸くしたあと、ふっと笑った。

「ほうかいねぇ。京都から。なんかうちらも少し背筋が伸びるわ」

どこか誇らしげで、どこか自分の町を照れくさそうにするような響きだった。
京都に対して親近感と、ちょっぴり負けてなるものかという気持ちが入り混じっているのが伝わってきて、僕は思わず微笑んだ。

「秋海棠はね、この市場を抜けてまっすぐ行った先の…」

おばちゃんは丁寧に道順を教えてくれた。

僕は教えられた通りに道を辿った。
自然と早歩きになる。
心臓の鼓動は、ラグビーボールを持って相手のタックルに突っ込んでいくときのように高まっていた。

10分もしないうちに、その宿についた。
思ったよりもこぢんまりとした構えの和洋折衷のエントランス。
瓦屋根に洋館風の窓枠。

『を宿 秋海棠』

と、筆書きの看板が出ている。

「すみませ~ん!」

自動ドアを通り抜け、小さなロビーから声をかける。

「はーい!」

懐かしい舞子の声がした。
奥の暖簾をくぐって、水色の着物が現れる。

舞子だった。

────「ハルくん?」

ロビーの時計が3つ、時を刻んだ。
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