ムエザ

鈴木 了馬

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ムエザ

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 月と太陽の両方を持っている。
 ムエザの目のことだ。
 アフマドは、ムエザの背中を撫でながら、そんなことを思っていた。
 白い短毛の猫。
 昼間、その目は青みがかって見える。
 しかし、夜になると、その目は宝石のような輝きを放って見えた。
 ただ、今は目を閉じている。
 眠ってはいないだろう。
 アフマドの手のぬくもりを感じているに違いない。
「お前は、分かってくれるか」
 アフマドは呟いた。
 横になっている。
 黄ばんだ綿布の、アフマドの単衣は、ゆったりと余裕があり、横になると、お腹のところは弛んで、ムエザのちょうどいい安息の場所となる。
「この手は、お爺さんの手だよ」
 
 ベドウィンの家族から、クライシュ族の村に戻されたのは、アフマドが六歳になった時だった。
 その年に、母が他界した。
 父親が、アフマドが生まれてすぐに亡くなったことで、母は長らく困窮状態にあった。
 栄養が悪いせいか、乳が出ず、それでベドウィンの乳母のもとで、アフマドは育てられた。
 そして母の死後、アフマドは祖父、アブドゥルムッタリブに引き取られたのだ。
「お前たちは、ちゃんとムルーワをやっているか」
 アフマドよりも皆年上の親戚の子供らが、アブドゥルムッタリブを囲んでいる。
 カアバ神殿の横に皆座っている。
 幼いアフマドは、このひと時が何よりも大好きだった。
 優しい祖父の近くで、彼の手の温もりを感じながら、いろいろな話を聞くことができる。
 言っていることの半分以上がわからなくても、祖父の側に居て、その声を聞いていることが幸せだった。
 アブドゥルムッタリブは、メッカの成功した商人の一人だった。
 六世紀のメッカは栄え、そうした商人は大勢いたのだ。
 そして、アブドゥルムッタリブは、そうした商人の中においても、尊敬される人物であった。
 それは家柄が優れているということとは関係なかった。
 それはいわゆる人徳と言っていいだろう。
 そのことを本能的に知っているのは、正に子どもたちであった。
「ムルーワって、なあに」
 ムルーワ。
 それは、一言で言い表すことが難しい。
「その家その家に、代々受け継がれている尊い行いの見本だよ」
 砂漠には災害など無いが、そもそも日々の生活環境が過酷である。
 いわゆる精神論が通用しない。
 絶対的な力、生命力が無ければ生きられはしない。
 ましてや、家族を養い、代々受け継いでいくことなど出来ないのだ。
 だから強くならねばならない。
 力こそ全てなのだ。
 しかし、それは本来、弱きを駆逐する傲慢な強さを意味しない。
 アブドゥルムッタリブは、毎年ラマダーン月に、メッカの北五キロほどの所にある、ヒラー山の洞窟に籠もり、アッラーに祈りを捧げ、訪れる貧しき人々に施しをすることを習わしとしていた。
 そういう行いも、クライシュ族ハーシム家の「ムルーワ」(言わば行動規範)であった。
 カアバ神殿を代々守ってきたハーシム家のアブドゥルムッタリブは、家のムルーワをも大切に受け継ぎ、守ってきたのであった。
「この頃は、そのムルーワすら廃れてきておる」
 そう続けると、アブドゥルムッタリブは、一つ小さくため息をつき、アフマドの背中に手をおいた。
 アフマドは、カアバ神殿の黒い壁面に向けていた顔を傾け、アブドゥルムッタリブを見上げた。
 アフマドは、そこで何か言葉を返すべきだったろうか。
 今でも、そのことを振り返ることが度々あった。
 その当時は、アブドゥルムッタリブの庇護の幸せの只中に在り、それ故に祖父の労苦のかけらも感じ得なかった自分であった、と。
 そう思えばこそ、アフマドは、後に祖父のムルーワを守り、彼の死後、ヒラー山での施しを毎年続けるようになった。
 メッカは、あれから更に栄え、誰もが衰退などを想いもしない。
 アブドゥルムッタリブの危惧は現実のものとなり、常態化し、驕れる者がはびこっていた。
 もはや、「ムルーワ」という言葉を、発する者すら見かけなくなった。
 一方、アフマドの記憶に刻まれた「ムルーワ」は、祖父の温もりとともに、常に胸にある。
 それは宿命に似ていた。

「なあ、ムエザ、お前にはわかっているのか」
 アフマドは、ムエザを撫でながら、再び問いかけた。
「この手は、私のお爺さんの手なのだよ」
 今こそ、アフマドは祖父の手の温もりを感じていた。
 その優しさと、偉大さを。
 そして、彼の信仰心と責任の重さを。
 尊き、その力を。
 その時だった。
 アフマドは、洞窟の入り口に何かの気配を感じた。
 いや、気配なのだろうか。
 岩のような、重く、黒いナニモノか。
 しかし、それは初め、近づいてくるでもなく、そこに立ち止まったままだった。
 ただ、そのモノは、底知れぬ力を内在していることが、アフマドには感じることができる。
 その力が、アフマドを引っ張っていた。
 その見えざる力が。
 それは、手だ。
 その手は、確実にアフマドを洞窟の入り口へ引っ張っているのだ。
 出てこい、と。
 これは、ジンニー(幽精、妖霊)であろうか。
 もしそうであるならば、惑わされるべきではないだろう。
 そうだ、これはジンニーなのだ。
 アフマドは、そう自らの心に言い聞かせた。
 そう何度か自分の心に呼びかけ、一時は落ち着いたかに思えた次の瞬間だった。
 見えざるそのものは、ものすごい勢いで、数十メートルもの距離を瞬間移動してやってきて、アフマドの額に押し付けた。
 やはり、それは手だった。
 最早、猶予はないことをアフマドは感じた。
 私は行かなければならない。そのことを悟ったのである。
 アフマドは、頭上の壁際を手で探った。
 すぐにそれは見つかった。
 ベドウィンの短剣。
 そして半身を起こすと、そのナイフで、服を切り始めた。
 ムエザは動かなかった。
 しかし、この力に気づいていないはずがなかった。
 ただ、その力に抑え込まれて、動けないのだろう。
「このまま寝ていておくれ、ムエザ」
 服は間もなく切り離され、ムエザを動揺させること無く、アフマドは立ち上がることができた。
 アフマドは歩き始めた。
 心の迷いが消えたわけではなかった。
 しかし、見えざる手の、その導きの力が、アフマドを歩ませていたのだ。
 一歩、また一歩、と。
 その時は、確実に近づいているにも関わらず、時はまるで進まなくなったような気がしていた。
 ただ歩みを強いられていた。
 その導きの力は、もはや止められないほどに強力だった。
 この世のものではない力だ。
 しかし、アフマドは、それとは別の凄まじい気配を感じ始めていた。
 すぐにアフマドは、これまでの導きは、きっかけに過ぎないことを知った。
 本当の力は、外の世界にある。
 その、入り口に、自分は向かっているのだ。
 自分は、それを受け入れることができるのだろうか。
 それを発するものは何ぞや。
 進む。
 アフマドの半錯乱を、静観するように、入り口は月明かりに照らされていた。
 入り口は目の前だ。
 アフマドは、次の一歩を踏み出した。
 直後、天啓は下った。
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