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六
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ノコルの収獲は、その冬の備えには充分であった。
オペは再び舟造りに戻り、海に姿を現さなくなった。
そして、そのうち洞窟の作業場に寝泊まりするようになった。
冬の前に舟を完成させたいのだった。
保存食を洞窟に持ち込んで、篭もりっきりである。
それでも気まぐれに、オペは住処にふらりとやってくる。
それがイソンが偶然住処に居る時であれば、オペは舟造りの進み具合を教えてくれる。
土間の上に絵を描いたりして。
娘もその様子を眺め、耳を傾けた。
冬が近づくほどに、オペが住処に戻ってくる回数がますます減っていった。
毎朝、娘が洞窟に水汲みに行っているから、無事であることは確認してはいたが。
そこまで根を詰める必要があるだろうか、とイソンは訝った。
ふと、死期が近付いているのか、イソンは思う。
そんな詮索をしたくなるほど、近頃のオペの舟造りへの打ち込み方は鬼気迫るものがあった。
そんな心配を抱えながらも、イソンは毎日物見台に立った。
せめてフンぺが姿を見せ、漁に出れるなら、オペは出てくるだろうに、あれ以来、フンぺはすっかり姿を見せなくなった。
娘は、冬に備えて、毎日岩ガキを獲り、せっせと天日に干している。
村人の分を考えると、いくら獲っても獲り過ぎることはないのだ。
そんな娘の様子を、イソンはときどき物見台から眺めた。
華奢だった体も、随分と肉付きが良くなったものだと、イソンは思う。
最近の娘を見ていると、「河の熊」のことを思い出した。
勇猛果敢、屈強な狩人だった。
想えば、相当な高齢のはずだった。
オペの父、「海の熊」と交流があったのだから、少なくともオペよりは歳上のはずだった。
しかし、それを感じさせない頑丈で、しなやかな風貌をしていた。
それが、山津波であっけなく死んでしまった。
しばらくは、そのことが信じられなくて、それまでそうであったように、急にふっと現れるのではないかと、イソンは想ったりしたものだ。
それがいつの間にか、そういうことも考えなくなり、塞ぎがちだった娘も自然に打ち解けるようになり、今では最初から家族だったようである。
そして、遠からず、イソンと娘だけになる。
確実にそうなる時がくる。
不思議な話のように思えるが、そうなるのだ。
二度の津波が村を襲い、イソンの母親が死んだ。
それがきっかけで、オペが小湾近くに移り住み、舟を造り、フンぺを獲るようになった。
その後、漁師仲間も増えたが、皆先立っていった。
そして、イソンがその後を継ぐようになった。
「河の熊」の集落が消え、娘が来た。
これらはすべて宿命なのだ。
イソンは、洋上に目線を戻した。
朝に比べて、波が高くなっていると思った。
もう秋の嵐の季節だ。
そして、それを過ぎれば、冬だ。
夕暮れにはもう少しあったが、イソンは見張りを終わらせ、久しぶりに洞窟に行ってみようと思った。
娘にも、海から上がるように声をかけた。
嵐は波が先行してやって来て、風が収まっても波が後を引く。
急激に高波になる恐れがある。
今回の嵐は真正面から向かってくる嵐のようだった。
それは波の様子で分かる。
オペたちの岬に一番近づくのは、明後日のことだろう、とイソンは見積もった。
真正面からの嵐は、多くはないが、それでも年に一、二度はやってくる。
オペに意見を聞く必要があるが、そろそろ冬籠りのための萱を刈りにいく時期だ。
そろそろ、オペはそれを告げにくるだろう、イソンはそんな予感がした。
先回りして言ってみよう。
イソンのその予感は、別の意味で的中した。
その夕暮れ、洞窟の作業場で倒れていたオペを、イソンは背負って、住処に連れてきた。
高熱だった。
娘は、湧水を洞窟に汲みに行った。
そして野草をつぶして湧水に浸し、オペの首に当てた。
以前、足を挫いて腫れが引かなかったときに、オペがそのやり方で手当てをしてくれたことを覚えていたのだ。
イソンは、麻の冬用の衣を何枚もオペの体に掛けた。
それでもオペは震えている。
イソンはさらに、焚火に薪をくべた。
秋が近いとはいえ、夜は冷え込むほどではないのだが、今のオペにはそれが必要だと思ったのだ。
そのうち、オペの呼吸も静かになり、焚火の火も落ち着いたので、イソンは娘に休むように言った。
娘は頷いて、横になったが、なかなか眠れずに居た。
娘も心配なのだ。
イソンは胡坐をかいて火を見つめた。
その焚火を挟んで、反対側で娘が横になって火を見つめている。
そうして、夜は過ぎていった。
イソンは、記憶の中を彷徨っていた。
オペのところへ、なぜか、毎日村から通っていた。
それが記憶の始まりだった。
来る日も来る日も。
あるいは、最初は、海を見に来ただけだったかもしれない。
たくましい、引き締まった男たちが居た。
彼らがやっていることの一つ一つに興味を持った。
素潜りで貝を獲ったり、石を欠き割って石鏃を作ったり、麻縄を編んだり、動物の骨を削ってヤスを作ったり、そういうことだ。
でも、一番心惹かれたのは、フンぺが現れ、丸木舟で海に出ていく男たちの姿だ。
それは滅多に見られなかった。
それだけに最も印象に強く残っていて、思い出しただけでも、心臓が鼓動が高鳴った。
いつしか、イソンは、それを目撃することを心待ちにするようになった。
それでも男たちがフンぺを獲って帰ってきたことは、数えるほどもなかったはずだ。
だいたい不漁に終わるか、獲れてもタンヌ(イルカ)であったりした。
しかし、獲物のいかんに関わらず、男たちの姿そのもの、その光景のすべてに、イソンは魅かれていったのだろう。
やがて、イソンは男たちの死を経験する。
事故やそれ以外の死別に。
イソンの記憶には、男たちが海に消えた者、として残っている。
イソンがオペのところに移り住んだ時には、オペの他にまだ一人居た。
その男は、チプと呼ばれ、操船の名手だった。
イソンは、櫂のつかい方、湾周辺の潮の流れなどを、すべてチプに教わった。
チプが銛を持ったところをイソンは見たことがなかった。
もっとも、銛を持たなかったからこそ、チプは生き長らえたのだろう。
チプが片腕を無くした時、滅多に打たない一番銛をチプが放った。
見事に命中した。
しかし、銛と一緒に出っていく縄に片腕をやられた。
フンぺが引っ張った縄が右腕の付け根に絡み、チプは海に引きずり込まれた。
幸運にも、チプは、舟から五十間ほど沖合に浮かんで一時は一命を取り留めた。
しかし、オペや村人がチプの傷口を懸命に治そうとしたが、一月ほど後に、チプは帰らぬ人となった。
オペはチプを讃えた。
海で死ななかった、と。
海に生きる者は、海で死んではならない、というのは、「海の熊」の教えだった。
こうして、オペとイソンだけになった。
焚火の炭が折れて落ち、わずかに灰が舞い上がった。
気づくと、娘は眠ったようだ。
娘の父親である「河の熊」も、イソンにとっては、漁師の男たちと同様、いやそれ以上に偉大な存在だった。
イソンが最初に舟漁をしたのは、「河の熊」の縄張りの河であった。
「河の熊」が操る舟の舳先に立って、「河の熊」のやり方をまねて、何度も何度も、小さな川魚を目がけて手銛(ヤス)を放った。
始まりがそうだったから、イソンの銛使いは、オペとは少し違う。
「河の熊」の技術は、イソンに引き継がれたのだ。
もう一つ、「河の熊」が残したもの。
その娘が、そこで眠っている。
回想の末に、イソンの心には、少しの空虚が残った。
一人減って、誰かが加わる。
それが自然の成り行きだと思うのに、減ることが上回っている、という違和感のようなものだった。
そして、このままいけば、オペも亡くなる。
イソンは、少し肩を震わせた。
それは寒さのせいではなかったが、流木のかけらをいくつか、焚火にくべた。
いつの間にか、空が白んできているようだった。
イソンは立って行き、オペの手のひらを触った。
だいぶ熱が下がったようだった。
イソンは、オペの顔を覗き込んだ。
急に歳をとってしまったように思えた。
それは、明け方の青白い光のせいか、あるいは、しばらくオペの顔を間近で見ていなかったせいか。
娘が目を覚まして、起き上った。
イソンは、娘をほんの少しの間見つめ、そして立ちあがった。
そして海に向かった。
オペは再び舟造りに戻り、海に姿を現さなくなった。
そして、そのうち洞窟の作業場に寝泊まりするようになった。
冬の前に舟を完成させたいのだった。
保存食を洞窟に持ち込んで、篭もりっきりである。
それでも気まぐれに、オペは住処にふらりとやってくる。
それがイソンが偶然住処に居る時であれば、オペは舟造りの進み具合を教えてくれる。
土間の上に絵を描いたりして。
娘もその様子を眺め、耳を傾けた。
冬が近づくほどに、オペが住処に戻ってくる回数がますます減っていった。
毎朝、娘が洞窟に水汲みに行っているから、無事であることは確認してはいたが。
そこまで根を詰める必要があるだろうか、とイソンは訝った。
ふと、死期が近付いているのか、イソンは思う。
そんな詮索をしたくなるほど、近頃のオペの舟造りへの打ち込み方は鬼気迫るものがあった。
そんな心配を抱えながらも、イソンは毎日物見台に立った。
せめてフンぺが姿を見せ、漁に出れるなら、オペは出てくるだろうに、あれ以来、フンぺはすっかり姿を見せなくなった。
娘は、冬に備えて、毎日岩ガキを獲り、せっせと天日に干している。
村人の分を考えると、いくら獲っても獲り過ぎることはないのだ。
そんな娘の様子を、イソンはときどき物見台から眺めた。
華奢だった体も、随分と肉付きが良くなったものだと、イソンは思う。
最近の娘を見ていると、「河の熊」のことを思い出した。
勇猛果敢、屈強な狩人だった。
想えば、相当な高齢のはずだった。
オペの父、「海の熊」と交流があったのだから、少なくともオペよりは歳上のはずだった。
しかし、それを感じさせない頑丈で、しなやかな風貌をしていた。
それが、山津波であっけなく死んでしまった。
しばらくは、そのことが信じられなくて、それまでそうであったように、急にふっと現れるのではないかと、イソンは想ったりしたものだ。
それがいつの間にか、そういうことも考えなくなり、塞ぎがちだった娘も自然に打ち解けるようになり、今では最初から家族だったようである。
そして、遠からず、イソンと娘だけになる。
確実にそうなる時がくる。
不思議な話のように思えるが、そうなるのだ。
二度の津波が村を襲い、イソンの母親が死んだ。
それがきっかけで、オペが小湾近くに移り住み、舟を造り、フンぺを獲るようになった。
その後、漁師仲間も増えたが、皆先立っていった。
そして、イソンがその後を継ぐようになった。
「河の熊」の集落が消え、娘が来た。
これらはすべて宿命なのだ。
イソンは、洋上に目線を戻した。
朝に比べて、波が高くなっていると思った。
もう秋の嵐の季節だ。
そして、それを過ぎれば、冬だ。
夕暮れにはもう少しあったが、イソンは見張りを終わらせ、久しぶりに洞窟に行ってみようと思った。
娘にも、海から上がるように声をかけた。
嵐は波が先行してやって来て、風が収まっても波が後を引く。
急激に高波になる恐れがある。
今回の嵐は真正面から向かってくる嵐のようだった。
それは波の様子で分かる。
オペたちの岬に一番近づくのは、明後日のことだろう、とイソンは見積もった。
真正面からの嵐は、多くはないが、それでも年に一、二度はやってくる。
オペに意見を聞く必要があるが、そろそろ冬籠りのための萱を刈りにいく時期だ。
そろそろ、オペはそれを告げにくるだろう、イソンはそんな予感がした。
先回りして言ってみよう。
イソンのその予感は、別の意味で的中した。
その夕暮れ、洞窟の作業場で倒れていたオペを、イソンは背負って、住処に連れてきた。
高熱だった。
娘は、湧水を洞窟に汲みに行った。
そして野草をつぶして湧水に浸し、オペの首に当てた。
以前、足を挫いて腫れが引かなかったときに、オペがそのやり方で手当てをしてくれたことを覚えていたのだ。
イソンは、麻の冬用の衣を何枚もオペの体に掛けた。
それでもオペは震えている。
イソンはさらに、焚火に薪をくべた。
秋が近いとはいえ、夜は冷え込むほどではないのだが、今のオペにはそれが必要だと思ったのだ。
そのうち、オペの呼吸も静かになり、焚火の火も落ち着いたので、イソンは娘に休むように言った。
娘は頷いて、横になったが、なかなか眠れずに居た。
娘も心配なのだ。
イソンは胡坐をかいて火を見つめた。
その焚火を挟んで、反対側で娘が横になって火を見つめている。
そうして、夜は過ぎていった。
イソンは、記憶の中を彷徨っていた。
オペのところへ、なぜか、毎日村から通っていた。
それが記憶の始まりだった。
来る日も来る日も。
あるいは、最初は、海を見に来ただけだったかもしれない。
たくましい、引き締まった男たちが居た。
彼らがやっていることの一つ一つに興味を持った。
素潜りで貝を獲ったり、石を欠き割って石鏃を作ったり、麻縄を編んだり、動物の骨を削ってヤスを作ったり、そういうことだ。
でも、一番心惹かれたのは、フンぺが現れ、丸木舟で海に出ていく男たちの姿だ。
それは滅多に見られなかった。
それだけに最も印象に強く残っていて、思い出しただけでも、心臓が鼓動が高鳴った。
いつしか、イソンは、それを目撃することを心待ちにするようになった。
それでも男たちがフンぺを獲って帰ってきたことは、数えるほどもなかったはずだ。
だいたい不漁に終わるか、獲れてもタンヌ(イルカ)であったりした。
しかし、獲物のいかんに関わらず、男たちの姿そのもの、その光景のすべてに、イソンは魅かれていったのだろう。
やがて、イソンは男たちの死を経験する。
事故やそれ以外の死別に。
イソンの記憶には、男たちが海に消えた者、として残っている。
イソンがオペのところに移り住んだ時には、オペの他にまだ一人居た。
その男は、チプと呼ばれ、操船の名手だった。
イソンは、櫂のつかい方、湾周辺の潮の流れなどを、すべてチプに教わった。
チプが銛を持ったところをイソンは見たことがなかった。
もっとも、銛を持たなかったからこそ、チプは生き長らえたのだろう。
チプが片腕を無くした時、滅多に打たない一番銛をチプが放った。
見事に命中した。
しかし、銛と一緒に出っていく縄に片腕をやられた。
フンぺが引っ張った縄が右腕の付け根に絡み、チプは海に引きずり込まれた。
幸運にも、チプは、舟から五十間ほど沖合に浮かんで一時は一命を取り留めた。
しかし、オペや村人がチプの傷口を懸命に治そうとしたが、一月ほど後に、チプは帰らぬ人となった。
オペはチプを讃えた。
海で死ななかった、と。
海に生きる者は、海で死んではならない、というのは、「海の熊」の教えだった。
こうして、オペとイソンだけになった。
焚火の炭が折れて落ち、わずかに灰が舞い上がった。
気づくと、娘は眠ったようだ。
娘の父親である「河の熊」も、イソンにとっては、漁師の男たちと同様、いやそれ以上に偉大な存在だった。
イソンが最初に舟漁をしたのは、「河の熊」の縄張りの河であった。
「河の熊」が操る舟の舳先に立って、「河の熊」のやり方をまねて、何度も何度も、小さな川魚を目がけて手銛(ヤス)を放った。
始まりがそうだったから、イソンの銛使いは、オペとは少し違う。
「河の熊」の技術は、イソンに引き継がれたのだ。
もう一つ、「河の熊」が残したもの。
その娘が、そこで眠っている。
回想の末に、イソンの心には、少しの空虚が残った。
一人減って、誰かが加わる。
それが自然の成り行きだと思うのに、減ることが上回っている、という違和感のようなものだった。
そして、このままいけば、オペも亡くなる。
イソンは、少し肩を震わせた。
それは寒さのせいではなかったが、流木のかけらをいくつか、焚火にくべた。
いつの間にか、空が白んできているようだった。
イソンは立って行き、オペの手のひらを触った。
だいぶ熱が下がったようだった。
イソンは、オペの顔を覗き込んだ。
急に歳をとってしまったように思えた。
それは、明け方の青白い光のせいか、あるいは、しばらくオペの顔を間近で見ていなかったせいか。
娘が目を覚まして、起き上った。
イソンは、娘をほんの少しの間見つめ、そして立ちあがった。
そして海に向かった。
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