フンペの海

滝川 魚影

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   十七

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 フンペの銛漁は、オペが開祖だ。
 その島国、特にその北東部の沿岸の村々において、それまで誰が、フンペをこの手で獲ってやろう、と夢想した者があっただろうか。
 自然条件も、確かに恵まれてはいた。
 オペが拠点とする小湾の沖合は、フンペの通り道だ。
 そのため、もとより「寄り鯨」も多かったのだ。
 海の魚を獲るだけなら、他にも好条件の漁場はたくさんあった。
 特にオペの漁場の北には、「噴火湾」があった。
 ヌーシィ(ニシン)の好漁場だ。
 一方、オペの集落付近は、ヌーシィのような海の回遊魚が獲れないため、どちらかというと川漁が盛んだったのだ。
 そのかわり、フンペの通り道に近かった。
 それを発見したのが、少年時代のオペだ。
 小湾を遊び場としていたオペ。
 その上に立つ、ホオノキにオペは登って遠くの海を眺めたものだ。
 丸木舟に関して言うと、その時代、すでに丸木舟による広範囲な移動を人々は行っていたということが、出土品などから分かっている。 
 フンペの通り道、丸木舟、銛。
 神がオペに告げたに違いなかった。
 夢の中で。
 フンペ漁に、試練があるとすれば、待たなければならないことだろう。
 まず、フンペの出現を待つのだ。
 通り道といっても、年中通るわけではない。
 しかも、通り道は一本だけではない。
 それは決まりがあるようでない、不確かなものだった。
 そして、一番銛を打ったあと、フンペが海に潜り、なかなか上がって来ない、のを待つのだ。
 ヤキフンペ(マッコウクジラ)などは、二度と浮かび上がらないことなどザラなのだ。
 フンペの銛漁は、忍耐の漁なのだ。
 オペの技法の継承者イソンは、ただ待つだけのフンペ漁に、記録という理知を加えた。
 しかし、それは記憶の助けになるだけで、明確な解決策には、程遠かった。
 男たちに道具の使い方を説明するうちに、出現の場所は実にまちまちだということをイソンは改めて知ることとなった。
 傾向があるとすれば、右の岬の方から現れることが少し多い、というくらいだった。
 あとはその時次第。
 それは、予め舟を出して、その地点付近で待ち伏せる、という方法が取れないということを意味する。
 イソンは、二艘丸木舟を出すことができれば、それも可能だと思っていた。
 だから、仲間を欲したのだ。
 ある意味、それはイソンの結論だった。
 一艘より二艘。
 逆にそれは、オペが当初一人でフンペの銛漁に挑んだことが、極めて神業的である、ということを物語っている。
 人智を超えていたのだ。
 イソンが男たちと考えだした漁法はこうだ。
 物見の木からフンペを発見したら、追いかけられる距離かどうかを判断して、舟を出す。
 基本的には、フンペを挟みこむように舟の方向を決める。
 しかし、それはあくまでも基本。
 あとは、状況を判断して対応するしかないのだ。
 物見の木には、イソンが立つ。
 男たちは、湾で銛の訓練をしたり、貝を獲ったり。
 ひたすら待つ日が続いた。
 もちろん、フンペが全く現れないわけではなかった。
 ただ、イソンが、出漁するまでもない、と判断しただけだった。
 しかし、その日はついに来た。
 その朝は、素晴らしい海だっだ。
 雨雲の切れ間から上がってきた太陽が、雲を赤く照らしていた。
 海が、夜の重さをまだ宿しており、黒い油のように濃密な状態で横たわっていた。
 イソンは祈るように、海の命が目覚めるのを待っていた。
 ほとんど無風。
 イソンは、まずは湾に降りて行って、麻衣を脱ぐと海に飛び込んだ。
 体が海と馴染むまでひとしきり泳ぐ。
 海水は、だいぶ温かくなった。
 イソンは、確かめるように、最後に深く潜ってから水面に顔を出した。
「つぅふぁっ」
 岸に上がって、手で体の水を切り、麻衣を着ると、イソンは湾を駆け上がり、一気に物見の木に登った。
 朝陽が完全に水平線から顔を出した。
 イソンは南の海上に目を送って行き、そこから北へと目線を移していく。
 真東のそれほど遠くない沖に、鳥山が一つあった。
 悪くない兆候だと、イソンは思った。
 男たちがやってきた。
 イソンは彼らに、舟の準備をするように指示して、自分は物見台での監視を続けた。
 潮はやや速め。
 山からの風が少し。
 雲は少ない。
 一時ほど経った。
 フンペを発見した。
 二、三頭の群れか。
 南東方向。
 少し距離がある。
 進路は、北北西方向と思われる。
 岸に近づく気配は無かった。
 泳ぐ速さから推察するに、シノコルフンペ(イワシクジラ)だろう。
 シノコルは速い。
 追いかけても無駄だろう。
 イソンは目を離し、他のフンペを探し始めた。
 こういう日は、続けてフンペが現れる可能性が高かった。
 それから、四半時も経っていなかっただろう。
 別のフンペを発見した。
 真東。
 しかし、進路に対して左右への動きが少ない。
 あるいは岸側に近づいているのか。
 単独に見える。
 ヤキ(マッコウクジラ)のオスか。
 それなら、ほぼ漁は成功しない。
 オペが避けてきたように、ヤキは難しい。
 銛を放っても、潜られたら、再び浮かび上がるのを目にすることすら難しいのだ。
 それに、相当長い時間、潜水する。
 一時以上など普通だった。
 それでも、瞬間的にイソンは舟を出すことを決めた。
 勘か、虫の知らせか。
 それとも、フンペからの声か。
「ほう」
 湾内に声が届くように、イソンが声を上げ、物見の木から降り始めた。
 イソンが湾に到着したころには、準備万端だった。
 イソンは、手で合図して、イヨと一緒に舟に乗り込み、急いで舟を出した。
 イソンは前側に乗り、進路を指示する。
 もう一艘は、タシが前に乗り、ポンが後ろだ。
 まずは、真東に進路を取り、全力で舟を漕いだ。
 タシの舟は遅れを取りながらも、必至でイソンの舟を追いかける。
 イソンは舟を漕ぎながら、二艘で挑めば、ヤキでも仕留めることができるだろうか、と作戦を思い巡らしていた。
 銛は、全部で四本使える。
 最初に、二本連続で放つことは可能だろうか。
 銛縄が繋がれているのは一番銛のみ。
 長さ十間。
 その端には、竹四本の筏型の浮きが繋がれている。
 この浮きが、今日のヤキに通用するかどうかは未知数だ。
 まったく歯がたたないかもしれない。
 それもヤキの大きさに寄る。
 イソンは、そんなことを考えながら、櫂を漕ぐ。
 そろそろ、フンペを見つけた付近まで漕いできたと、イソンは判断した。
 漕ぎ手を停める。
「ホウ、ホ」
 イヨも倣った。
 間のなくタシの舟がイソンの舟の横までやってきて、停まった。
 息を潜める。
 すぐに、斜め左前方、二十間ほどを泳ぐ二頭を発見した。
 イソンは、タシに真っ直ぐ追いかけるように手で合図した。
 自分は左から回り込むとも。
 タシの舟を先に行かせてから、イソンは左に旋回して、全力で舟を漕いだ。
 イヨも必死だ。
 イソンはフンペとの間合いを気にしながら、舟の方向を合わせて漕ぐ。
「ツッホホホウ」
 フンペが吐く噴気音が近づいた。
 イソンは噴気を見た。
 ヤキだ。
 間違いなかった。
 斜め前方に吹き出す噴気。
 ヤキフンペの特徴だ。
 タシの舟の位置をイソンは確かめた。
 遅れは取っていない。
 イソンは、漕ぐ速さを更に上げた。
 気がつけば、二頭は並行に泳いでいて、その間は五間ほどに広がった。
 必然的に、イソンは舟に近い方を狙うようだ。
 言わずとも、タシにはそれは伝わっていた。
 最早、イソンの舟はヤキを追い越して、三間ほど先を行っている。
 イソンは急に櫂を右に上げた。
 ヤキの進路にさらに接近するという合図だ。
 イソンは、一番銛を取って、船首に立った。
 イソンの舟に気づいたヤキは、進路を少し右寄りに変えた。
 タシが銛を持ち船首に立っているのが、イソンの視界に入った。
 イソンは、瞬時に判断した。
 銛を下ろして、タシに手で合図を送る。
 お前が打て。
「タシ、タシ」
 銛をフンペに打つのは初めてのタシだ。
 しかも、相手は体長が五間もあろうかというヤキだ。
 しかし、タシは迷わなかった。
 タシは、舟に斜め前方に跳ねた。
 そして、体が落下すると当時に銛を打ち込んだ。
 しかし、少し間合いは遠かった。
 銛は、ヤキの腹側をかすって、海水を切っただけだった。
 タシは、銛を離し、それから離れるように泳いだ。
 そうするようにイソンから何度も教わっていた。
 銛を放ったら、それから離れろ、と。
 銛縄に絡まって、フンペもろとも海に引き込まれる。
 そうして死んだ者があった。
 だから、素早く離れる。
 立泳ぎをしながら、タシは自分の銛が当たらなかったことを確認していた。
 イソンは、既に準備ができていた。
 タシの舟とは反対側から、ヤキの左側面から、銛を打ち込んだ。
 頭から海に飛び込むように。
 銛は、左背から腹の方向かってフンペに刺さった。
 イソンの手に確かな手応えがあった。
 ヤキから離れるように泳ぎ、すぐに舟に戻る。
 縄が出て行く。
 浮きが着水する音がした。
 舟に戻ったイソンは、休む間もなく漕ぎ始め、浮きを追いかける。
 ようやく舟に上がったタシもイソンの舟を追いかけて漕ぎ始めた。
 程なくして、浮きは消えた。
 ヤキが潜ったのだ。
 イソンは一旦漕ぐのを止めた。
 他の三人もそれに倣った。
 潮は北東に流れている。
 海中は分からないが、海面はそうだ。
 銛を放った時は、ヤキはほぼ真東に向いていたはずだ。
 潮に乗って逃げるに違いない。イソンはそう判断したのだ。
 イソンも、潮流に任せて舟を進める。
 タシも後に続いた。
 四半時ほど漕いだだろうか。
 イソンは櫂を止めた。
 これ以上は無駄だと判断した。
 ヤキは完全に消えてしまった。
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