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マシュラビーヤの恋人
しおりを挟むナギーブ・マフフーズに敬意を表して
「あたしを虜にした赤い筋のズボンをはいた人よ、あたしの弱さを哀れんでおくれ」
(ナギーブ・マフフーズ「張り出し窓の街」より)
ファーティマは、暗い部屋から張り出し窓の格子を通して小路を見下ろした。
発情したような猫の鳴き声を聞いたからである。
珍しいことだった。
猫の姿は見えなかった。
ただ、お酒が過ぎたらしい初老の男がゆらゆらと過ぎていき、その後姿が見えただけだった。
ファーティマは、張り出し窓に腰を下ろした。
もう、眠れそうになかった。
夫は異変に気づいて起きてくるだろうか。
その時、ギューという唸り声とともに、左の暗がりから現れた栗色の猫が、街灯の下に走り出て、身を伏せた。
ファーティマは、格子に顔を近づけて注視した。
ファーティマの生家の、一つの張り出し窓からは、宮殿通り(カイロ旧市街の中心部の通り)を見下ろせた。
火曜日の朝。
通勤時間になると、ファーティマはその窓辺に佇み、彼がフルンフシュ通りの方から右に折れて来るのを待ったものだ。
彼の名は、ファフミー。
法律を学ぶ大学生だった。
彼は、偶然にもファーティマの兄、ハリールの学友だった。
「最後に目が合ったのはいつだったかしら」
それは最早、自分以外の誰かが大昔に発した言葉のように思えた。
生家の二階。
北側の窓は唯一、張り出し窓にはなっておらず、そのかわり厚いカーテンが掛けられていた。
家事の監視役の姉、アーイシャはいつも口うるさく、あれこれと指示をしてくる。
「カーテンは払った」
最初、そう問われた時、正直ファーティマは、何の事かすら分からなかった。
カーテンなんて、払う必要がある。
心の中で不平を漏らした。
しかし間もなく、そう言ってくれた姉に、内心感謝することになった。
最初に目が合ったのは、あの朝、カーテンを払っている時だった。
その無防備さを父が知ったならば、烈火のごとく叱責されたに違いない。
もっとも、そうなったとしたら姉も同罪だったが。
カーテンが揺らめく窓の隙間から、通り過ぎるファフミーを見た。
ファフミーは、それ以前は、アーイシャがカーテンを払う様子を見たことがあるのだろうか。
初めはほんの一瞬。
とっさに目を伏せた。
窓の隙間は、日に日に広がっていった。
抑えきれない感情がエスカレートしていったのだ。
ファーティマが唯一自分に課した戒めは、毎日は駄目、ということであった。
週に一度が、彼女の掟だった。
火曜日の儀式。
火曜日の朝、家事の合間を縫って、頃合いを見計らい、張り出し窓に行き、待つ。
ファフミーが宮殿通りに折れ曲がって来るのを確認した後に、カーテンを払いに行く。
そのうちに、ファフミーの姿が視界に入ってくる。
そういう日々が、約一年半続いた。
ファーティマは、十六歳から十七歳になった。
そして、その短い間に、ファフミーはファーティマに求婚してきた。
ハリールを通じて。
「父さんは、絶対に許さないと思うの。分かるでしょ、兄さんも」
ハリールは少し考えて、うなずいた。
「かといって、彼の申し出を、すぐに断ってしまっていいのかい。ファーティマ」
ファーティマは、薄ら笑いを浮かべて、ため息をついた。
「全部、父さんが決めることでしょ。私にその権利はないわ」
ハリールは、急に話題を変えるかのように言った。
「すべては、学校を卒業してからだね」
猶予を与える。
何の猶予だろう。
父が反対するまでの。
しかし、全てお見通しのファーティマにとっては、別の猶予だった。
彼に会えなくなるまでの猶予。
あの時、父に相談していたら、次の火曜日は来なかっただろう。
最後に目が合ったのはいつか、について当時のファーティマが忘れるはずはなかった。
一九一九年、三月の第一火曜日。
ちょうど八十回目の火曜日だった。
「あんな事件が起こらなければ、恋は進展したのだろうか」
それは愚問だった。
しかし、そういう愚かな自問を、当時何度もしたわけではなかった。
諦めしかない恋だから。
選ぶ権利などないのだから。
姉が嫁いで行けば、そのうちにファーティマにも縁談がもたらされ、父が納得すれば、当たり前のように婚家が決まるのだ。
「そんなことは起きないの」
それが、彼女が出した結論だが、こちらは最初の質問とは切り離され、何度も独り言として繰り返された。
彼が不在となった世界に開かれた張り出し窓の、その窓辺で。
「そんなことは起きなかったの」
一九一九年、四月八日。
革命が成就した翌日、ファフミーはデモの最中、銃弾に倒れた。
その二年後、ファーティマは砂糖小路の上流階級の家に嫁いだ。
夫が仕事をする必要がないほどの裕福な家だ。
ファーティマは、姑に家事をすることを禁じられていた。
嫁いだ翌年、女子を出産した。
これが、誰もが羨む「幸せ」と言うものだろう。
猫がまた唸った。
相手は黄金色のアビシニアンだった。
栗色の雌は上から押さえられて、じっと動かなかった。
「いつが最後か、本当に分からないわ」
仕舞い込んで、忘れ去られたはずの泪が頬を伝っていくのが分かった。
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