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 後になって冷静に考えれば考えるほど、まるで常識を逸脱した関係だった、と真一は思わずにはいられなかった。
 しかし、その当時は、晶子の見えない力に動かされるように、次々と訪れる予想もしない展開に、逆らう余裕もなく、流されていった。
 真一と晶子は、仕事と言っては毎日のように会い、いつも違う、晶子の行きつけレストランで食事をし、ホテルの部屋で夜をともに過ごすようになっていった。
 九月に入ると、店の基礎工事が始まった。
 晶子は、秘書の仕事で、地方出張が多くなった。
 北海道、高知、山形など、まさに東奔西走であった。
 真一は、毎日現場に顔を出すことにした。そのためということもあり、真一は赤いロードバイクを購入した。
 初めは、施主側の真一は、現場で浮いていた。
 しかし、毎日脚を運んで、十時、三時と差し入れなどをしているうちに、真一はすっかり職人たちと打ち解けるようになった。
 もちろん、職人たちのやることに口出しなどはしなかったが、簡単なことなら真一は率先して手伝うようになった。
 自分が企画した店が、徐々に形になっていくことは、真一にとってシンプルに嬉しいことであった。
 だから、誰に頼まれることも無く、自然と手が動くのだった。
 その年は、九月になっても残暑が厳しく、連続猛暑日の記録を更新し続けていた。
 ほとんど一日中、現場にいる真一は、すぐに真っ黒に日焼けした。
「オーナーさん、なんだか、鳶職みたいだねえ」
「いやいや、オーナーじゃないです」「雇われ何とかってやつで」
「何とかねえ」「まだ三十そこそこだろ」
「三十五です」
「おいおい、うちの馬鹿息子と同じだよ」「なんだっておい」「えらい違いだな」
 基礎の借り枠を設置する作業も、終盤になって、ようやく真一は、それぞれの材料や道具の呼び名が分かってきていた。
「社長、三尺の垂木一本取ってもらえるかい」
「はいはい、だから社長じゃないですって」
 冗談が飛び交う現場が、真一は大好きだった。
 これまでの真一の人生においては、スーツを着て、エアコンが効いた環境での仕事ばかりだった。
 それとは正反対の、建設現場。
 見聞きすること全てが、真一には新鮮だった。
 会社組織で味わうような、余計な気苦労はほとんどなかった。 
 現場に通ううちに、真一はこれまでの仕事の垢が落ちて行くような心持だった。
 時に、鳶の親方は真一を飲みに誘ったりした。
 それに対して、真一が何の気兼ねなく呼ばれていくものだから、親方はますます真一を可愛がるようになっていった。
「小島くんは、ほんといいやつだなあ」
 酔ってくると、親方の口は滑らかになった。
「うちの馬鹿に、少しは爪の垢を煎じて飲ましてやりてえ」
「そんなことないじゃないですかあ」「僕もサラリーマンをやってましたが、大変なんですよ、サラリーマンて」
「なんかな、あんな昆布みたいなの毎日ぶら下げて行ってっけど、何やってんだか」「まだ嫁ももらう気ねえんだから」「あれ、小島くんは結婚してんの」
「いや、結婚なんて、僕みたいな収入の不安定な人間には縁遠くて」
「近頃は、みんな結婚しねえなあ」「俺なんか、小島くんの歳には、二人目が生まれてたで」
 真一は、二十七の時に、真剣に結婚を考えたことがあった。
 大学時代からの恋人で、彼女の両親も認める関係だった。
「小島くん、本当にうちの娘でいいのか」
 結婚を申し込んだ夜、真一は彼女の父親と二人きりで酒を酌み交わした。
「僕も、まだまだですが、これからさらに頑張って、生活を築いていこうと思いますので、よろしくお願いします」
「ありがとうね、真一くん」
 彼女の父親も母親も否応なく、結婚を了承してくれたのだった。
 ところが、その日から数日経って、なんか面倒なことになったと、彼女が慌てて真一に電話をしてきた。
 それは、彼女の叔母に当たる人からの助言で、最近は、男性でも不妊が多いので検査した方がいい、と言ってきたというのだった。
 真一が、直接彼女の両親に、そのことで相談に行くと、そんな必要はないよ、とすぐさま言ってくれた。
 しかし、その段になって、彼女の方が悩み始めてしまった。
「こんな変な言いがかり、相手にしなくていい、と最初は私は思った」「でも、これで、もし実際に赤ちゃんができなかったら、何を言われるか」
 もちろん、彼女の両親は、そんなことは不要だと言ったらしい。
 結局、念のため、と言い聞かせて、二人は産婦人科を受診した。
 あの時、産婦人科を受診していなかったら、今頃自分はどういう人生を歩んでいただろうか。
 だいぶ経ってから、真一は考えたことがあった。
 結果は、黒。
 正確に言うと、真一だけが黒、だった。
 彼女は子宮筋腫が一つあるものの、出産には大きな影響はないということだった。
 問題の真一は、非閉塞性無精子症と診断された。
「これで、完全に子供ができない、ということじゃないから」
 方法があるとか、可能性がゼロではない、とかいうことは、真一にとってどうでもいいことだった。
 その診断を受けてからというもの、真一は、彼女に会うことを避けるようになっていった。
 そして、結局二人は別れることになった。
「子供は欲しいですけどねえ」「その前に結婚しないと」「息子さんは、彼女いるんですか」
「なんだか、いるみたいなんだけど、さっぱり連れてもこねえ」
「いるだけいいですよ、僕なんかいませんから」
「ちぇっ、近頃の女は見る目がねえなあ、なあ、ママ」
「何、なんか悪口が聞こえてきたようだけど、源さん」
 真一は、二人に合わせて笑って見せたが、古傷が沁みたように少し痛んだ。

 九月も二十日過ぎになって、ようやく暑さも和らいできた。
 建前も終わり、いよいよ建築の段になると、鳶の職人たちは、次の現場に移って行った。
 昼の休憩が終わり、断熱材の施工が始まり、それを真一が眺めていると、携帯電話がなった。
 晶子からだった。
「真一さん、いま東京駅なんですけど、今夜、会えるかしら」
「あ、帰ってきたの」
「そう、ちょっと疲れてはいるんだけど、真一さんに早く会いたくて」
「そしたら、僕がそっち行くよ、電車で」
「そうしていただけると、助かりますわ、ありがとう、真一さん」
「それでは、目黒駅まで、お迎えにあがりますわ」
「じゃあ、七時ごろでいいかな」
「はい、分かりましたわ、それでは後ほど、お気をつけてね、真一さん」
 真一は、三時の休憩に、飲み物の差し入れをすると、ロードバイクでマンション戻った。
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