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「ナンミョウホウレンゲーキョウ、ナンミョウホウレンゲーキョウ、ナンミョウホウレンゲーキョウ、ナンミョウホウレンゲーキョウ、ナンミョウホウレンゲーキョウ・・・」
 所は、江戸、本郷丸山。
 本妙寺(ほんみょうじ)の山門からほど近い辻。
 そこに立って、経を唱えても、誰かが怪しむはずもない。
 念仏は、消え入るように小さかった。
 そこには、悟りとは違う、諦めに似た響きが、漂っていた。
 その僧姿の男は、内藤新宿方面から歩いてやってきた。
 かつて通った道場があった、新宿を通過したのは、明け方ころか。
 敢えて、その道場界隈を通ったのは、この世への最後の未練か。
 剣士としての面影は影を潜めていた。
 逃亡と隠遁の生活がそうしたのか。
 いずれにせよ、そういう生活の中で、本来の素性を隠して生きることが肌身に染み付いてしまったらしい。
 僧侶の形(なり)も、違和感がない。
 男の名は、元谷源次郎。
 駿河の浪人であった。
 不意に何回か咳き込んで、止まった経を再開する。
 前日から吹き出した北風が、弱った元谷の体を刺すようだった。
 一年ほど前から、治らない咳だった。
 それは自分を死に導く病が原因であることを、男は知っている。
 しかし、本懐を遂げるまでは、死ぬわけにはいかない。
 その一心で、ここまで生きて、そして計画を進めてきたのだ。
 志を一にした仲間たちは、自分と同じように江戸の各地に向かっているはずだった。
 今回は抜かりはない、という自信があった。
 計画は、各人の頭の中にしかないから、証拠も残り得ない。
 元谷の唯一の心残りは、最後に駿河の地を踏めなかったこと。
 菩提寺は浄土宗だが、元谷が唱える経は、南無妙法蓮華経。
 本妙寺が日蓮宗の寺だから、その方が自然だと思ったのだ。
 目を閉じた無の表情に、少しの笑みを浮かべたが、誰に気づかれようか。
 昼九ツ半ごろか。
 門前に人通りが少ないことは、幸いだったかも知れない。
 そこに立って、一時(いっとき)は過ぎた。
 元谷は、経を上げるのを止め、ゆっくり歩き出した。

 明暦三年(一六五七年)、旧暦の正月十八日から十九日まで燃え続けた火事は、江戸史上最大の火災と言われる。
 明暦の大火である。
 この大火は、特異な火事であった。
 謎も多い。
 そもそも、連続的に発生した三つの火事を総称して「明暦の大火」と言っていることも、他に例を見ない。
 第一の火の手が上がったのは、本郷丸山の本妙寺とされる。
 放火説は、否定しきれなかった。
 慶安の変から、六年しか経っていないことも、放火説が言われる一つの理由だろう。
 また、多くの大名屋敷や旗本屋敷が焼けたことも、そのことと関係があるのか。
 変の失敗で討手から逃れて各地に散った残党たちが、江戸に舞い戻り、再び幕府転覆を計画したとしても不思議はないだろう。
 もし、そうだとしたら、江戸を燃やすという事自体は成功したと言える。
 しかし、幕府転覆に関しては、必ずしもそうとは言えなかった。
 折しも、幕府は、江戸の防災と治安維持のために都市大改造の必要に迫られていた。
 大火は、結果的に幕府を利することになったのだ。

 気づけば、長一郎は、河原に居た。
 火炎地獄を渡って来たというのに、これは三途の川か。
 長一郎は、本心からそう思った。
 何処をどう逃げてきたか、全く覚えていない。
 ただ、今その川を渡ってきたことだけは確かだった。
 そして、その川を渡ったことで、長一郎は生き延びることができたのだ。
 長一郎は、今年、数えの九つ。
 まだまだ子供だった。
 燃え盛り、追ってくる炎から必至に逃げ、何度も何度も父母兄弟を求めて呼んだことが、遠い昔のように思えた。
 誰もが生き別れた家族を探していた。
 逃げ惑う人はやがて、いくつかの大きな流れとなった。
 どの流れに乗るかが運命の分かれ目だった。
 長一郎が乗った流れは、北に向かい、最後に橋を渡った。
 それで力尽きた。
「こんなところじゃ、死んじまうぜ」
 声が自分に話しかけていることに気づくまでに、少し時を要した。
 長一郎が答えずにいると、声は近づいてきてさらに続けた。
「腹減ってんじゃねえのか」
 確かに空腹かも知れなかったが、長一郎はそんなことすら忘れてしまっていた。
 しかし、その声が、それを急激に思い出させた。
 長一郎は、反射的に立ち上がった。
 しかし、それは本人の感覚で、実際にはよろよろと立ち上がったのだ。
 男が、倒れそうな長一郎を抱き上げ、抱えるように土手の上に引っ張っていった。
 汚れた町人の形だったが、眼光は鋭く、動きが素早かった。
 年の頃は三十過ぎか。
 人はその男を、菰(こも)の重蔵、と呼んだ。
 表の顔は塩売りの元締め。
 しかし、その裏では普請など人足の手配師から人売りなど、幾つもの顔を持っていて、それを使い分けた。
 重蔵の祖先は、武田家に仕えた武士だったとも言う。
 「菰」は「筵(むしろ)」のことで、乞食を意味する。
 身なりのことを言ったのか、本当に乞食同様に生活をしていたことがあったのか、定かではない。
 火事が収まってから一日経っていた。
 出火直後、重蔵は、各地を駆け回っていた。
 火事は、重蔵にとっては稼ぎどきだった。
 重蔵は、火消しの人足なども手配する。
 しかし、それもあくまで表向き。
 火事場は、一方では宝の山。
 流れ者の人足などは、二割の報酬を与える、と約束すれば、何でもやった。
 それに、裏の世界に顔が利く重蔵であったから、大規模な付け火の計画ならば、それが事前に彼の耳に入ったとしても不思議はなかった。
 仮にそれらの計画があると分かっていたなら、宝の山を手にする計画を事前に練っていたとも考えられる。
 とにかく、火事場のことも一段落つけたらしかった。
 何か積み荷があったとしても、既に舟を出した後だったろう。
 重蔵の家も焼けた。
 ほとぼりが覚めるまで、故郷の市川に下がるつもりだった。
 重蔵にとって、火事場の宝だけでは十分ではなかった。
 火事に焼け出された迷子たちが、重蔵のもう一つの手土産だった。
 長一郎も、その一人となったわけだ。
 子どもたちの運命も、重蔵次第か。
 もちろん、そんなことは、子どもたちは露も知らなかった。
 命の恩人。
 野垂れ死にするだけの自分たちを救ってくれた。そう思うだけだった。
 長一郎は特にその思いが強く、その後もずっと消えることは無かった。
 なぜなら、時が経てば経つほどに、自分は親に捨てられた、という想いが心に定着していったからだった。
 火事は確かに非常事態ではある。
 しかし、江戸でも有数の油問屋の長男が、家族とともに自宅から焼け出され、放置されるなどということが普通ありえようか。
 それどころか、自分の名を呼んでいる声すら一切聞こえなかったのだ。
 記憶の彼方に、微かに聞き覚えているのは、番頭が主人を呼ぶ声と、母の、弟を呼ぶ声だった。
 誰が自分を呼んだか。
 日を追うほどに不信感は募り、やがて明確な悪い記憶とり、やがて憎悪に変わる。
 そして、思い出す度に、憎悪は増幅していく。
 暗い心の闇に落とされる。
 自分は捨てられた、と。
 残念ながら、それは思い込みではなかった。
 火事の何年も前から、父母は、跡継ぎは長一郎ではなく、弟の宗次郎と決めていた。
 何をしても、長一郎よりも宗次郎が勝っていた。
 それは、周囲の誰の目にも明らかだった。
 捨てる神あれば拾う神あり。
 重蔵が、神であるわけがない、とは思ったが、少なくとも命の恩人だった。
 土手の上には、荷車が置いてあった。
 荷車は、もう一人の男が引いた。
 重蔵は後ろから押す。
 荷車の周りを長一郎も含めて、四人の子供が歩いて付いて行く。
 皆、十歳に満たないだろう。
 一人は女子だった。
 じきに水戸街道追分、新宿(あらしゅく)だ。
 そこまで行けば、重蔵の知り合いも多い。
 「あと少しだからな、そしたら食い物にありつける」
 重蔵の声は明るく、どこか現実離れしていた。
 しかし、長一郎たちには、それが神仏の声に聞こえたことだろう。
 長一郎には、この先の希望などどうでも良いことだった。
 頭の中は、すでに食い物のことだけだった。
 生き延びたことすらも、最早忘れかけていた。
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