トムは待っている

鈴木 了馬

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トムは待っている

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   トム・ウェイツに捧ぐ




 突然の土砂降りだった。
「くそっ。何だって、こんなに降ってきやがるんだ」
 トーマスは独り毒づいた。
 ようやく、雨宿りができそうな建物を見つけて、駆け込んだのである。
 二階建てのビルだった。
 一階の店舗は、とっくに閉店している。
 トーマスは、帽子を取って振るって雨を払うと、次にその帽子で、洋服を払った。
「くそったれが」
 買ったばかりの黒革のブーツは、すっかり濡れそびれ、爪先部分は水が染み込んでいるらしかった。
 雨は、当分止みそうにない。
 湿気った紙巻き煙草に、やっとのことで火を点けると、トーマスは、奥の階段の下に座り込んだ。
 
 その日、初めて、クラブ「トルバドール」の演奏が叶った。
 早朝から並んでみたのだ。
 一番乗りだとばかり思っていたが、三番目。
 それでもかまやしない。
 五番目までは演奏できるのだ。
 ところが、せっかく掴んだ機会を台無しにしてしまった、とトーマスは振り返った。
 思い出すだけで、手が震えてきた。
 怖かった。
 全部で四曲。
 どんなふうに演奏したかも、もはや思い出せなかった。
 ただ、客の反応は薄く、到底うまい出来とは言えないことだけは確かだった。
  
 店に並ぶ勇気も失せてしまったよ、と、トーマスは沈んだ溜息とともに煙を吐いた。
 雨は降り続いている。
 演奏の後、酒も程々にして帰れば、雨にも降られずに済んだ。
 ツイてない時は、どこまでもツイてないものだ。
「ミャア」
 振り向くと、子猫が居た。
 濡れた小さなモップみたいだった。
 トーマスは、抱き寄せると、咄嗟に拭くものを探したが無いに決まっていた。
 白いブラウスをズボンから引き出し、子猫を腹の中に入れ、ブラウスで、拭いてみた。
 子猫は、まだ爪すら生え揃っていないらしく、何度か腹を爪先で引っ掻かいてくるのだが、痛くない。
「そんなに怒らんでくれよ。お前を拭いてやってるんだからよ。風邪引いちまうだろ」
 大して拭き取れりゃしなかったが、それでも何もしないよりは遥かにマシだった。
 子猫は、もぞもぞと動いて、ブラウスのボタンの間から顔を出そうとしている。
「おい、待て」
 トーマスは、ボタンを一つ外した。
 子猫が顔を出す。
 灰色のトラだった。
「なんだ、よく見れば品のある奴だな、お前は。腹減ってんだろ」
 トーマスは、子猫を腹に入れたまま立ち上がると、通りに出て、左方向に歩いていった。

「ジーザス、メーン、そんなに大笑いすることか。マーサ」
 マーサは、立ったまま腹を抱えて、笑っている。
「ジーザス、ははは。苦しい、ははは。ああ」
「いいから早く、スープを持ってきてくれよ」
「ジーザス、スープ、あははは、スープゥ」
「おい、スープの何が、そんなにおかしいってんだよ。ほら、仕事だ」
「あはは、そんな猫、腹に入れて、スープって。あははは」
 酒しかオーダーしたことがないトーマスが、突然閉店間際にやってきて、猫のためにスープ、自分はクラブソーダ、と言った事が、マーサのツボにはまったらしかった。
 それでも、しばらくして、マーサは、ちょうど良い具合に冷ました、ソーセージ入りのコンソメスープを運んできてくれた。
「美味しいか、子猫ちゃん」
「あはは、子猫ちゃんって、似合わないし」
 子猫は、ペロペロとスープを舐め、細かく切ったソーセージに噛み付いた。
 バー・サンボーン・ハウスは、トーマス以外に客は居なかった。
 夜中の二時を回っているから無理もない。
「どうして、今夜はこんなに遅いのさ」
 マーサが訊いた。
 マーサは、トーマスの二つ年上、二十三歳だった。
 肩まであるダーク・ブロンドの髪が綺麗な美人だったが、育ちのせいか、口が悪かった。
 それでも、トーマスは、一目見た時から、マーサが好きだった。
 結婚するならウェイトレスだって決めたんだよ、と、ある時トーマスは音楽仲間の一人に語った。
 それはきっと、マーサのことだっただろう。
「すっかり、飲み過ぎちまってさ。この俺がだよ」
「そうだね、あんたも、そんなことを言うことがあるのかね。飲みすぎたなんてさ。だいたいが飲みすぎてるでしょ、いつも。それが、過ぎたなんて、どんなだけ飲んだのさ」
「分からねえ。それぐらいさ」
「それに、その猫。あんたさ、猫なんて嫌いなはずでしょ」
「まあ、そういう時もあるさね」
「呆れたねえ。今夜は、いつもと何もかも違うのかい」
「そんなこたあない」
 こうやって、この店に来たじゃないか、とトーマスは言いたい。
 お前に会いに来た、と。
「そう言えば、今日はどうだったの、出られたのかい」
「どうもこうもさ」
「どうもこうも」
 マーサは、そのままオウム返しに繰り返す。さすが勘が鋭い。話さずとも状況をよんだようだった。
「どうもこうも、どうもこうも、さ」
「何だいさ、だらしない。話も出来ない意気地無しかい」
 トーマスは、昨夜マーサにトルバドールについて話したことを、後悔した
 酔った勢いとは言え、トルバドールに出られたら、スカウトのチャンスもあるんだ、と、まるで、即デビューみたいなことを吹聴したことを。
 トーマスは問いに答える替わりに、目を見開いて、両手を上げた。
 そして、煙草を出し、口にくわえる。
 マーサが、すかさずマッチを擦って、火をつけてくれた。
 煙草が苦い。
 演奏が叶ったら、マーサに付き合ってくれ、と言うつもりだった。
 ところが、そんな気は完全に失せていた。
 とにかく、しばらくは、音楽のことは考えたくない。
「一杯やりなよ。あたいが奢るからさ」
 トーマスは、返事をしなかった。
 辛いやら、悲しいから、嬉しいやら、で。
「ミャア」
「お、お前も飲みたいか」

 それでも、トーマスに、音楽が諦められるわけがなかった。
 半年経った。
 そして、ちょうどトルバドール出演十回目の日。
 マーサが初めて、観に来ていた。
 店を休んで。
 
 四曲目。
 最後の曲だった。

 グレープフルーツのような月。
 金星も輝き、俺を照らしている。
 あの曲が流れて、今、君を思っているよ、ハニー。
 君にもこの月が見えるかい。
 そして、この曲が聞こえるかい。
 このメロディーを聴くたびに、僕の中で何かが壊れるんだ。
 グレープフルーツの月と、輝く金星。
 時の流れは戻せない。
 (トム・ウェイツ「グレープフルーツ・ムーン」より)

 マーサは、衝撃を受けた。
 こんなにも、心に響く唄を、これまでの人生で聴いたことがあっただろうか。
 このことをトムに早く伝えてあげなければ、と。
 マーサは、トーマスの才能に、最も早く気づいた人物の一人であった。
 トーマスは、遂にマーサに告白することは無かったが、後に、彼女を歌にした。
 もちろん、時の流れを戻すつもりはなかったのだが。
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