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ターキッシュアンゴラ、オッドアイ

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 オスマン帝国の、偉大なる旅行家、
 エウレヤ・チェレビィに



 「ちからの夜(定めの夜)」の初日であった。
 一六八一年、十月四日。
 イスラム暦では、一〇九二年、ラマダーン(九月)の二十一日である。
 「力の夜」とは、ラマダーン月の最後の十日間のことである。
 エウレヤは、その日最後の礼拝を終えると、スレイマン・パシャ・モスクを後にし、自らのアパートメントに戻った。
 エウレヤも今年で、七十歳になる。
 カイロのシタデル(城塞)の中に住まうようになって、九年が経った。
 執筆業の支援者であるエジプト知事、ケチューダ・イブラヒム・パシャの取り計らいで、城塞内にアパートを提供されたのであった。
 カイロは、エウレヤが何度も足を運び、愛した街である。
 年老いた今となっては、カイロの気候がエウレヤには合っていた。
 イスタンブールに比べて、カイロは年間を通じて圧倒的に湿度が低い。
 高温でも、カラッとしたカイロの気候は、基本的にエウレヤの老体に優しいし、何より三十二年前、ボスニアの事故で負った、下腹部の傷も痛むことが少ないような気がしていた。
 その城の中のアパートで、エウレヤは、カイロについて書き、そして、大旅行記「セアハト・ナーメ」の執筆を続けた。
 「セアハト・ナーメ」は、六〇〇〇ページを超える膨大な旅行記の大作である。
 現在、複数タイプの本が残っているが、代表的なものは全十巻からなり、第一巻のイスタンブールから始まって、第十巻の「エジプトとスーダン」に及ぶ。
 エウレヤの言に寄れば、自分は十八の王国を訪れ、一四七の異なる言語を耳にし、二十二回のジハードに参戦した、ということであった。
 その日、オフリド(マケドニア共和国西部にある都市)の部分に書き足すことを思い立ち、昼過ぎから取り掛かっていた。
 アパートに戻ると、エウレヤはすぐに机に向かう。
 
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 イズトック(東)の偉大なる山の牧草地。
 それは、その名声が遠くアラブ人やペルシャ人にまで届く、まさに牧草地のパラダイスでした。
 そのいただきの一つからは、七つのカディ地区をカバーする範囲を見渡すことができます。
 実際、そこからはオフリドの町から八時間かかる南西地区まで視界に入っていたし、さらにオフリド湖とその周辺の農業後背地を見渡せました。牧草地をもっと歩けば、さらに遠くまで見ることができます。
 この牧草地には、私の親しい友人と後援者、オリザーデ・ベイが、計三百の羊小屋を所有していて、そこには様々な種類の羊が約七万頭もいたのです。
 オスマン帝国全土では、このイズトック牧草地に匹敵する牧草地として、アラマンとリラの牧草地、専制君主の牧草地、サーレスの牧草地、そしてヴィトシャ牧草地があります。
 私たちは、折に触れて、イズトックの牧草地に行ったものです。
 テントをはり、ヨーグルトやチーズ、蜂蜜入りの生クリーム、生乳や凝乳ぎょうにゅう、はちみつ入りのオムレツなどを食べたものです。
 バターミルクと乳漿にゅうしょうを飲み、子羊のケバブやマスに舌鼓を打ったものです。
 氷のように冷たい小川の水を飲み、その水で蜂蜜を冷やして、シャーベット状にして食べたものです。
 千種類ものハーブやつる植物、薄赤褐色の野いちごやスミノミザクラをつまんだりしたものです。
 私たちは、日常的にそういうひとときを楽しんだものです。
 そこで育つ、ヒアシンス、甘松、ポピー、キズイセンやスイセンは、エルズルム地域にあるビン湖の夏の牧草地と肩を並べるものだし、ビストゥン山、デマベンド山、エルジシュ山の牧草地に比類するものです。

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 そこまで書き、エウレヤはペンを置き、目を閉じた。
 一休み。
 昔は、もっと長い時間、集中して一気に書き進んだものである。
 体力の衰えは、もはや隠しようもない。
 そして、近頃、昔を思いやることが多くなった、と自覚していた。こうして、昔書いたことがしきりに思い出され、書き直す、ということも最近増えたのだった。
 その時、飼い猫が、机に飛び上がった。
 エウレヤは、目を開け、愛猫を膝の上に置く。
 二匹飼っている猫のうちの若い方。
 一歳のターキッシュアンゴラ。
 名前は、ルナ。
 光沢のある白い毛は、短め。
 目は、オッドアイだ。
 カイロの知り合いから譲り受けた猫である。
 もう一匹の灰トラは、外出が好きで、家に居ることが少ない。
 それに比べて、ルナは、愛らしく、だいたいは家の中、エウレヤの近くに居ることが多い。
 故郷を離れ、妻帯していないエウレヤにとって、猫は唯一の家族であった。
 ルナを撫でながら、エウレヤは、再び目を閉じた。
 古い記憶が蘇ってきた。

 その日は、ハフィズ(後のエウレヤ・チェレビィ)にとっての記念すべき日である以前に、イスラムの信者にとっての特別な日であった。
 アヤソフィアで、イスラムのセレモニーがあるのだ。
 近隣だけでなく、遠方からも人々が集まってきており、礼拝に備えていた。
 アヤソフィアの敷地内は、そうした祈りの人々で、すでに埋め尽くされていた。
 そして、満を持し、ミナレット(塔)から、アザーン(礼拝への呼びかけ)がなされた。
 そのアザーンに耳をそばだて、駆け寄り、集まるもの。
 猫たち。
 聴覚の達者な猫たちは、比較的遠くから、駆け、集まってくる。
 当然、その猫たちの中には、皇帝の飼い猫の一匹である、白いターキッシュアンゴラも居た。
 左目が青、右が橙色のオッドアイ(左右の虹彩が違う目)。
 やがて、コーランが始まる。
 一際美しい声であった。
 実は、アヤソフィアでは初めて聴く声であった。
 分かる信者は、それに気付く。
 分かる猫にも。
 他でもない、皇帝がいち早くそれに気付かれたようであった。
 このような美声を、皇帝はかつて聴いたことが無かった。
 なめらかにして伸びやかな、かつ力強さを秘めた誦経は、アヤソフィア内に響き渡り、満たされていく。
 そして、コーランは、「エナムのスラ(スラ六章)」の箇所を終えた。
 皇帝は、すぐに、近くに控えていたコズベクチ・メフメト・アジャを呼んだ。
「この章が済んだら、声の主をすぐに連れてきなさい」
 
 ハフィズは、アヤソフィアの祈りの回廊に居た。
 初めての大役を終え、一息ついている。
 誰の耳にも、素晴らしい読誦であったが、ハフィズ本人は、自分の出来栄えを評価する余裕もない。
 この時、二十歳。
 エフェンディ先生からのコーラン修得も、最終盤となり、父の口添えもあり、アヤソフィアでのリサイタルが叶ったのである。
 その日は、エウレヤにとって、忘れることができない、「力の夜」の初日となった。
 一六三六年(西暦)、二月二十八日のことである。
 イスラム暦の、一〇四五年のラマダーン(九月)の二十一日。
 「力の夜(定めの夜)」の初日は、アヤソフィアにおいて、皇帝出席の上、盛大な式典が執り行われた。
 そこでのコーラン・リサイタルは、まさにハフィズの人生最初の晴れ舞台であった。
 そして、文字通り、ハフィズの人生は、この日を境に、大転換したと言っても過言ではないのだ。
 二人の使者は、突然回廊に入ってきて、ハフィズの頭に「ヨゼフの金冠」を載せ、告げたのだ。
 その二人とは、コズベクチ・メフメト・アジャと、帝国の剣持メレク・メフメト・アジャ(後の大宰相、メレク・メフメト・パシヤ)だった。
「来なさい。名君がお会いしたいとおっしゃっている」
 ハフィズは、後に、それはまさに神のお告げのようであった、と語るが、その瞬間には、全く別の意識だった。
(何か過ちを犯したのかもしれない。私が、あるいは父が)
 正直、そう思ったのであった。
 ハフィズの父、ダーウィーシュ・メフメト・アジャは、宮廷の彫金師で、イスタンブールの鍛治職にあり、エスナーフ(ギルド)の総元締めの立場であった。
 その父の仕事の上で何かが。
 いや、やはり、自分のコーランが、であった。
 しかし、それならこの金冠の説明が付かない。
 その逆であるのか。
 いや、父親が宮廷の仕事をしているというだけで取り立てられるはずもない。それにハフィズは、まだまだ駆け出しの、ほんの若造に過ぎない。
 どんな理由であれ、かくも高貴なお方に謁見できることは、幸運なのだ。
 歩きながら、ハフィズはそう思うことにした。
 その高貴なお方とは、第十七代オスマン帝国皇帝、ムラト四世であった。
 連れて行かれたのは、アヤソフィアの西のミナレット(塔)。
 そこに、スルタン(オスマン帝国の皇帝)の特別席がある。
 ハフィズは歩みよると、平伏し、床にキスをした。
 顔を上げると、皇帝は美しい微笑みを投げかけながら、話し始めた。
「そなたは、何時間で、コーランのリサイタルを終えることできるかな」
「はい、帝王様」
 ハフィズは、そう呼びかけてから説明を始めた。
 この瞬間、すでに心に迷いはない。
 そこが、ハフィズの肝の強さであった。
 なめらかに、淀みなく話す。
 ハフィズのこうした会話の力は、この後の皇帝にとって欠かせないものと成っていく。
「急げと仰せられれば、私は七時間で完了できます。しかし、いかなる間違いもしないように、適度なペースで取り組むことができるならば、神の御加護により、私は八時間で完読できます」
「神の御加護により」
 スルタンはオウム返しにそう言い、続けた。
「そなたを今から、ムサ・チェレビィに代わって、私の王室の一員となしましょう。ムサは最近亡くなりました。そのため、そなたは自分の今の言動を証明する機会を得た、そういうことなのだよ」
 これがムラト四世と、青年ハフィズの出会いであり、また、オスマン帝国における偉大なる旅行家、そして大著述家、エウレヤ・チェレビィの誕生の時であった。
 そのきっかけとなったのは、まさにエウレヤ・チェレビィの美声だったのである。
 そして、退室しようとしかけたチェレビィを、さらにスルタンは呼び止めた。
「手を出しなさい」
 チェレビィが恐れながら両手を差し出すと、スルタンはその上に一枚ずつ金貨を載せていき、手のひらで作ったカップは、溢れんばかりにその金貨で満たされた。
 その重さに、体勢を維持するのがやっとであったろう。
 後で数えると、金貨は六二三枚あったと云う。
 こうして、その美声が故に、ムラト四世に寵愛されたハフィズは、自らを「エウレヤ・チェレビィ」と名乗り、皇帝の命を受け、オスマン帝国の勢力の及ぶ範囲を旅して周り、壮大な旅行記を書いていった。
 もちろん、旅へは行きっぱなしではなく、時々イスタンブールに戻るわけだが、戻れば真っ先に宮廷に向かうわけで、その道すがら、旧知の人々に挨拶をし、立ち話をしては、歩いていく。
 そして、向かった先の宮廷で、最も早く、チェレビィの到来を察知するのは、ムラト四世の飼い猫のオッドアイであった。
 例えば、皇帝の居室の長椅子の上で、耳をそばだて、それを声の方角に向け、そして起き上がり、駆けていく。
 その異変に、ムラト四世が気付く。
 程なくして、皇帝の椅子の前まで一気に進むと、チェレビィは平伏し、床にキスをする。
「皇帝閣下。お待たせいたしました。あなたの友、エウレヤ、ただ今戻りました」

 らずに声になった、エウレヤの独り言に反応して、ルナが顔を上げ、一声鳴いた。
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