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鏡子 (きょうこ)

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モナ・リザ

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「モナリザ お土産にしたい」(田中角栄のふろしき)
小長秘書官の証言(15)
2018年3月26日 6:30

      

パリは雨だった。シャンゼリゼ通りの歩道の脇に積もった落葉樹の葉がしっとりと濡(ぬ)れていた。1973年9月28日朝のことだ。


日本の首相、田中角栄が宿泊するホテル「クリヨン」から大統領であるポンピドーが待つエリゼ宮に到着したのは午前11時40分過ぎ。秋は深まり、もうすっかり肌寒くなっていたがエリゼ宮の前の道路にはフランスを訪れた日本の首相、角栄を一目見ようと50人以上もの市民が待ち構えていた。

角栄を待つパリ市民の目は好奇に満ちていたがそれでも11年前、首相だった池田勇人を迎えた時とは明らかに違っていた。「コンピューター付きブルドーザー」という愛称はパリ市民の間でも知られていたし、角栄が「日本列島改造論」を提唱した本人であることも知れ渡っていた。

それはフランスの新聞の論調にも表れていた。フランスの高級紙ルモンドは9月26日の夕刊で「故ドゴール大統領が『トランジスタの商人』と呼んだ首相(池田勇人)よりは田中首相は高い次元に立とうとしている」と論評、今回の一連の角栄の首相外遊を「日米欧の3極構造を樹立するとともに、新たな日ソ中の3局構造の樹立をも考えているのではないか」と分析していた。

確かにそれは角栄の秘書官、小長啓一も感じていた。「日本の首相が一国の宰相としてヨーロッパと対等に渡りあうためにやってきた。フランス側も『角栄はその資質を有する日本の宰相』と認め遇してくれた」。角栄のフランス訪問は間違いなく「日いづる国」の存在感を高めた。

実際、角栄のフランス訪問の内容は歴代首相に比べれば異例と言えたかもしれない。単なるもの売りではない。フランスと手を組むことで日本のエネルギー立国の道を探り続けたのだ。フランスと共同でニジェールのウラン鉱石開発を進めようとしたり第三国で石油の開発をしようとしたのはそのためだった。恐らくこれまでの宰相なら踏み込まないだろう領域まで踏み込んだ。

ただ、コンピューター付きブルドーザーは貪欲に過ぎた。濃縮ウランにまでたどり着き、さらに突き進んだ。

前日、首相メスメルとの会談でフランスが加工した濃縮ウランについて「どの程度か量は言えないが、将来濃縮ウランの加工をフランスに委託する用意がある」と宣言、周囲を驚愕(きょうがく)させたばかりだったが、さらにその翌日、大統領ポンピドーとの会談で同様の趣旨を繰り返し、記者会見でもこう言ったのだった。

「日本はすでに日米間で遠心分離方式による濃縮ウランが80年までは手当てがついている。しかし、80年以後の濃縮ウラン問題をどうするかはフランスを中心に検討を進めている」

日本は米国の同盟国だ。これまで日本の首相が米国の核支配に対して決して異議を唱えることはなかった。しかし、角栄は違った。エネルギー供給源の多角化の観点から現状の危うさを正々堂々、示唆したのだ。まさに衝撃の一言だった。

奇(く)しくも翌9月29日は1年前、角栄が米国の頭越しに日中国交正常化を果たし、不興をかった「記念すべき」日だった。

偶然とは言え2年連続で角栄は米国の急所を突いた。「日本と米国の間で感情的なしこりは全くなかった」と小長はいうが、最も米国が嫌がる手を角栄は無意識に打ってしまったのだった。

当然、国務長官のキッシンジャーは苦り切っていたに違いない。1年前の日中国交正常化の際、日本の真意を疑ったばかりだったのに、その同じ日に再び日本が虎の尾を踏んできたのだった。

しかし、フランスは米国とは対照的だった。大統領のポンピドーも首相のメスメルも上機嫌だった。もともとフランスは米国主導のエネルギー支配に異を唱えてきた。角栄との会談でその方向性が日本と一致することが確認できたのだから収穫は大きかった。

そしてその余勢を駆ったのか、今度は2人でコンコルドを売り込んできた。1960年代に英仏で共同開発した超音速旅客機コンコルドは1976年から定期運航が始まったものの採算がとれず2000年の墜落事故などを契機に撤退したが当時はまだ希望の星。両国から多額の資金や人材が投入され続けていたころだった。フランスも必死で売り込んできた。

しかし、ここは角栄も慎重だった。「11年前、日本の首相をあなたがたは『トランジスタの商人』と呼んだではないか」と言い返したりすることはなかったが、きっちりと「コンコルドには騒音、排ガス、航続距離に問題がある」と指摘したうえで「日本は1年間に航空機を20~30機買うが、それと同じ金額でコンコルドを買うと2機しか買えない」と得意の数字を交えた切り返しでポンピドーたちをかわした。

それでもフランス側の友好的な態度は変わらなかった。ポンピドーとの会談の終わり間際に角栄が「エネルギー分野の話などに熱が入りすぎ時間がなくなってしまったが……」と断りつつ「日本の国民に持ち帰る大きなお土産としてレオナルド・ダビンチの絵画『モナリザ』を日本で公開したい」と伝えると快く応じてくれた。

モナリザはルーヴル美術館の最高の逸品。それまで1度だけ米国に渡ったことがあるだけで事実上は「門外不出」だった。文化庁の1年がかりの働きかけに加え、角栄の一言が見事、モナリザが海を渡る道筋を付けたのだった。=敬称略

(前野雅弥)


小長 啓一氏(こなが・けいいち)1953年(昭28年)3月岡山大法文卒、通産省入省、70年企業局立地指導課長、71年7月に田中角栄通産相の秘書官、72年から田中首相秘書官、82年産業政策局長、84年通産省事務次官、86年通産省を退官。91年にアラビア石油社長。岡山県出身。



「モナリザ お土産にしたい」(田中角栄のふろしき): 日本経済新聞

https://r.nikkei.com/article/DGXMZO28480360T20C18A3X12000?s=2


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