うらにわのこどもたち

深川夜

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うらにわのこどもたち2 それから季節がひとつ、すぎる間のこと

波紋(1/2)

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 ……十歌とうたの足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
 日野尾ひのおの瞳は、手元のクリップボードを映していた。身動きひとつせず、彼女は文字を見つめる。小刻みに動く瞳。彼女の中に、「こどもたち」の言葉がよみがえる。

 いつか、カイが言った。
「姉さん達の夢を見たんだ」
 姉さん? 姉さんって誰さ。君に姉さんなんて居ないはずでしょ?

 いつか、眠兎みんとが言った。
「まあ、あっちの世界も悪くないよ」
 あっちの世界? あっちの世界って何さ。君の世界は此処ここだけのはずでしょ?

 いつか、真白ましろが言った。
「ヒーローはつよくてかっこいいんだぜ!せんせーもそう思うよな?」
 思わない。ヒーロー? ねえ、何処どこでそんな言葉覚えたのさ。

 いつか、蒼一郎そういちろうが言った。
「学園には、友達がたくさんいるんだ」
 学園も友達も、私は作った覚えがない。

 もう名前も覚えていない、遠い昔の物語達こどもたちも、同じように言っていた。

「夢を見たよ」「広い学園があって」「きょうだいがいて」「友達がいて」「好きな人がいて」「辛いこともあるけど」「とても楽しくて」「夢を見るのが楽しみなんだ」「とても」「とても」「とても」。

 無邪気に。楽しそうに。嬉しそうに。

 初めは、笑って聞くことも出来た。うんうん、良かったねえ。面白い夢を見たんだねえ。そんな風に言うことも出来た。

 だけど。

「最近不思議なんだ」「何だかこの世界より」「学園に通っている方が」「現実みたいだ」。

 次第に、夢を語るこどもたちの顔を見るのが、恐ろしくなった。何万回何億回の試行錯誤を嘲笑あざわらうかのように、彼等は夢の世界を選んだ。楽しい、楽しいと言いながら、次第に目覚めなくなっていくこどもたち。頬に触れても、身体を揺すっても、すやすやと寝息を立てたまま、夢から戻らないこどもたち。

 どうして。

 彼等の共通夢が、私から物語を奪っていく。私の創り出した生命体が、私の世界を否定する。

 どうして。

 ああ、苛々する。どうして。どうして。どうして。どうして、私を拒むんだ。どうして。何がいけないんだ。どうすればいいんだ。悔しい。どうして。メスを握る感触。ぐるぐるとめぐるこどもたちの笑い声。ぬるりとした血の感触。鮮血の海に色濃く落ちる自分の影。折り重なった失敗の山。私には与えられない世界。私だけが拒絶された世界。今度こそ認められると思ったのに。私の物語だけは、私を選んでくれると思ったのに。ああ、どうして。

 ――そして、十歌とうたが言った。
「この施設せかいが、皆を幸福にするとは思えない」

 うるさい。うるさい。うるさい。黙れ。

 衝動的に資料の山を強く払った。山積みの紙が均衡を崩して床に落ちる。何枚かがひらひらと宙に舞った。がしゃんと音を立ててティーカップが倒れ、中の紅茶が紙を汚す。茶色の染みがじわじわと広がって、白い紙を汚していく。テーブルを伝い、床に出来る小さな水溜まり。
 指先に鈍い痛みを感じて、おもむろに痛みの元を辿たどる。瞳に映る自分の手。資料の山を払った右手の人差し指が切れて、血が滲んでいた。痛いなあ、とぼんやり思う。指先に意識が逸れたからか、お陰で少し、気分は落ち着いた。
 秒針の音にふと、時計を見る。そうだ、白雪しらゆきのところへ行かないと。あの子に薬を飲ませる時間だ。あの子は私が行かないと、酷く寂しがってしまう。
 白雪しらゆきが初めて此処ここに来た時、あの子はがたがたと震えていた。灰のような雪が舞う日。あれは冬の寒さだけが理由じゃない。身体の傷だけが理由じゃない。心が辛くて痛い時、ひとは寒い、寒いと震えるのだ。

「……大丈夫」

 胸に手を当てて、声に出す。

「大丈夫。まだ平気。まだやれる」

 ゆっくりと深呼吸をして、自分に言い聞かせる。
 そう、まだ平気。何度失敗しても、誰にも理解されなくても、私は私を保っていける。

「私も、研究も、まだ……」

 崩れた資料も、零れた紅茶もそのままに、彼女は静かに、洗面台の鏡をのぞく。欠けてひびの入った鏡。点滅する蛍光灯のあかりの下の自分。眼鏡を外す。年齢に不釣り合いな童顔。大きな瞳。くらい眼をした表情のない顔がこちらを見ている。大嫌いな顔。そうだ。大嫌いだ。自分の創作物にすら選ばれないお前なんか。

「うるさい。私を誰だと思ってんだ」

 目の前の顔に、言葉をぶつける。

「何億回の失敗? 何億回の否定? そんなもの、今更でしょ?」

 私の為に創った、私だけの世界。私にだけ決定権のある小さな箱庭。辻褄つじつま合わせの幸福も、つぎはぎだらけの幸福も、誰もが幸福と認めさえすれば、それは正しく本物になる。例えそこに至る道に、どれだけの血と災いがあろうとも。
 彼女は眼鏡を掛け直し、鏡に背を向ける。
 余裕のある態度を崩さない、いつも通りの日野尾ひのおがそこにいた。

 *

白雪しらゆきー! 元気にしてるかなぁ?」

 日野尾ひのおが声を掛けると、たくさんのぬいぐるみに埋もれるように座っていた白雪しらゆきが、ぱあっと顔を輝かせた。

「ひのお、せんせ!」

 白雪しらゆきは嬉しそうに日野尾ひのおを呼ぶと、きょろきょろと首を動かし、日野尾ひのおの居場所を探る。

「ここだよ」
「せんせー!」

 甘ったるい声と、ミルクのような甘い香り。日野尾ひのお白雪しらゆきを抱き締めると、彼女もふわふわの髪を首元にぐりぐりと押し付けながら、白衣のすそを握る。

「しぃ、まっ、て、た!」
「うーん、えらいなぁ。ごめんねぇ、先生、ちょっと遅くなっちゃったかなぁ」

 頭を押し付けたまま、白雪しらゆきはふるふると首を横に振る。
 小柄な彼女が埋もれるほどのぬいぐるみを、この部屋に置いたのは日野尾ひのおだ。一人でも、寂しくないように、悲しくならないように、柔らかく触り心地のいいぬいぐるみばかりを選んで、少しずつ部屋を満たしていった。その度に、白雪しらゆきがぬいぐるみを潰れるほど抱きしめて、頬ずりするのが愛おしかった。研究の合間、僅かに訪れる、ほっとする瞬間。

「待っててくれてありがとう。白雪しらゆきは本当に可愛いなぁ」
「ほ、と? しぃ、かわ、い?」
「可愛いよぉー!」

 日野尾ひのおの言葉に、白雪しらゆきは頬を赤く染めてふにゃっと笑う。もしも彼女にしっぽがついていたなら、はち切れんばかりに振っているであろう様子を想像して、日野尾ひのおも思わず、顔がほころぶ。

「あぁ本当、癒される……」
「……?い?」
「ううん。こっちの話」

 どうやら疑問符を沢山浮かべているらしい白雪の頭を優しく撫でる。

「……困ったことがあったら言うんだよ。先生が出来ることは、力になるからね」
「せんせ、すきー」

 あどけない笑顔。たどたどしくも、好意を伝えてくれる白雪しらゆきの声。無垢なこども。

 愛おしいなぁ、と、心から思う。

「よーし、お薬飲んだらお夕飯だぞぉ」
「ごは、ん!」

 おもちゃ箱のような部屋の中、二人の声は弾み――……。
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