「ご冥福をお祈りします。」

深川夜

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case2.紫陽花の花束

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 家の中で奇妙な出来事が起こり始めたのはそれからだ。
 朝、目が覚めると決まって水道の蛇口から細く水が出ている。初めは閉め忘れただけだろうと思った。しかし、それが一週間も続くのはどうもおかしい。故障にしても、水が出ているのは決まって朝だけなのだ。故障ならば帰宅時や夜にも同様のことがなければ理に合わない。
 朝といえば、玄関を開けると必ずそこに人一人分の水溜まりができているのだ。雨が吹き込んだ結果かと思ったが、両隣の部屋の前ではそんなことは起きていない。雨漏り――ということもなかった。見上げた先、天井部分から水が滴った形跡はない。
 まるで何者かが自身の存在を主張しているような現象に、樒の言葉が頭をぐるぐると廻った。

『片足のない女が、こっち見てる』

 ぞっ、とした。
 まさか。まさか。ありえない。あまりにも非科学的だ。こんなふうに考えるのは、樒が変なことを言ったせいだ。そのせいで、俺は偶然とありもしない超常現象を結びつけそうになっているんだ。そんな日々がさらに一週間続いた朝。

「おい……」

 ――水溜まりが、近づいてきている。

 揃えた靴の辺りを中心に、まるでそこだけ雨が降ったかのように水溜まりができている。蛇口から細く流れる水。呆然と立ち尽くす俺の耳に、ざあざあという雨の音が今朝も聞こえる。偶然もここまで重なれば、それは意味を持つものとして受け止めざるを得ない。

「……いるのか? そこに……」

 呟く。すぐに馬鹿馬鹿しいと思った。誰かが、まして幽霊なんかがいるわけがない。

 ざ――――――――――――――――――――――――――――――――っ……

 瞬間、俺の考えを否定するように、水道から勢いよく水が流れ出した。

「……っ」

 蛇口をひねり、水を止める。心臓が脈打ち、手に嫌な汗がにじむ。
 紫陽花の花束は、赤紫を通り越して毒々しい赤に色づきつつあった。

 ☻

 樒の姿は探すまでもなく見つかった。いつも見かける喫煙所でぼんやりと煙草をふかしている。俺が樒に気づいた時には樒は既にこちらを見つめていた。目が合う。雨にけぶる視界の中で、少しくすんだピンク色の髪が柔らかく揺れる。

「お前がかけた暗示のせいだ」

 開口一番、俺は樒にそう言った。樒は緩く微笑んだまま黙っている。

「お前が片足のない女がいるとか言うから。変な事は続くし雨は止まないし散々だ……っ!」
「……ふゥん?」

 樒は携帯灰皿に向けて灰を落とすと、再び煙草を咥える。先端が赤く火を灯す。

「あの女との因果、断ち切ってあげようかァ? ハセくんはそのために僕に逢いに来たんでしょ?」

 余裕の無い俺とは逆に、死んだ瞳に余裕をチラつかせ、樒は言う。「ほら、お願いしてごらんよォ」という心の声が聞こえるようだ。

「どうするゥ? 僕なら祓えるよォ?」
「何とかしろ、このペテン師」

 意地悪く笑う樒の胸倉を掴む。樒はそんな俺の手首を掴み返すと、にいっと口角を吊り上げた。触れそうなほどの至近距離で互いに目を合わせる。

「そろそろお願いの仕方を覚えて欲しいんだけどなァ」
「ろくなこと考えてないのが透けて見えるんだよ」
「心外だなァ。たまには言うこと聞いてよォ」
「死ね」

 掴んでいた手を離すと、樒は心底おかしそうに笑い、手にしていた煙草を携帯灰皿の中へと押し込む。

「じゃァ行こうかァ。幽霊退治にさ」

 こうして俺達は歩き出した。「怪異」の現場――コーポ404の俺の家へと。

 ☻

「……すごいなァ」

 玄関を開けると、樒はまずそう言った。

「お葬式の匂いしかしないやァ。よっぽど君は愛されてるんだねェ」

 感心したように頷きながら室内に上がり込む。俺も水溜まりを避けて靴を脱ぐ。

 道中、ここ最近の異常現象について樒に話した。するとこいつは「まるで現代の八百屋お七だねェ」とケラケラと笑って俺に説いた。

「雨が降ればまた会える、ハセくんが自分を気にかけてくれるって思ったんだろうねェ。いじらしいというか、執念深いというか」

 実際、朝が来る度に紫陽花を思い出していたので何も言えない。本当に幽霊の仕業だとしたら、まんまと相手の思惑にはまっていたことになる。

「でもね、ハセくんも悪いんだよォ。よせばいいのに何にでも同情するんだから。助ける相手は選ばなきゃいけないよ」

 俺は隣を歩く樒の顔を見る。ビニール傘の中、おどけた声とは裏腹に、樒の目は全く笑っていなかった。


 樒は自分のスマートフォンにイヤホンを差し込み、片側を耳に放り込む。そしてもう片側を俺に差し出した。樒の「除霊」――「暗示」の始まりだ。イヤホンを片耳にはめると、メトロノームが一定のリズムを刻む。それが雨の音と混ざり合い、不思議と心が静かになる。

「落ち着いて、メトロノームの音と僕の声だけを聴いて。頭を空っぽにするんだ。……そう。ゆっくり目を閉じて」

 囁くような樒の声に促され、目を閉じる。ゆびさきが、俺の胸元に触れるのを感じる。

「一緒に10からカウントダウンするよ。0になるまで目を開けちゃダメだからね」

 頷き、樒の気配に注意を寄せる。小さく息を吸う気配とともに、俺も口を開く。

『10』

 雨とメトロノームの音に、俺と樒の声が加わる。ただそれだけで、部屋の空気が変化したように感じる。

『9』

 冷房なんて入れていないのに、足元にひんやりとした冷気が立ち込める。

『8』

 ふわりと、知らない香りが鼻をくすぐる。線香と菊、それに土のような香りが混ざりあった匂い。

『7』

 香りはあっという間に強くなり、部屋中に充満する。――葬式の香り。死の香り。

『6』

 背後のドアの奥から水音が聞こえる。蛇口から、水が出ている。

『5』

 蛇口だけではない。何かが、玄関から水音と共に近づいている。ずる、ずる、と引きずるような音を立てて。

『4』

 何もいないはずの背後に、気配を感じる。じっとりと湿った何者かの気配。

『3』

 じわじわと靴下が水を吸う。かかとから足先へ、何かの液体が浸食していく。

『2』

 ぷぅん、と鉄錆のような匂いが俺にまとわりつく。無くなった片足から血を滴らせた女の姿が、意識の底から浮かび上がってくる。

『1』

 ――離さない。女がそう、耳元で囁いた気がした。

『0』

 目を開ける。視界の端から紫陽花が見えた。どす黒い赤色をした紫陽花が俺の背後から枝葉を伸ばし、そのまま全身を包みこもうとしている。

「――――え?」

 紫陽花は覆いかぶさりながら身体に絡みつき、次々に花を咲かせながら視界までも奪おうとその勢いを増す。状況が呑み込めないまま紫陽花に埋もれていく俺に樒はやはりくつくつと意地悪く笑うと、俺の手首を掴んで自分の元へと強く引き寄せた。ぶちぶちと枝葉が引きちぎれ、赤い花が床へと落ちる。

「あげないよ」

 完全に抱きとめられる形になった俺に構わず、樒は紫陽花に向けて続ける。

「これは僕のだから、誰にもあげない」

 思わず樒の顔を見て、挑発するような目線の先を辿る――ぼろぼろの紫陽花に埋もれるようにして女が膝をついていた。膝から下がない右脚から血液が溢れ、フローリングに血溜まりを作っている。俯いていて表情は見えないが、すすり泣く声が聞こえる。

「樒……」
「僕は同情しないよ」

 そして、俺の手首を掴んだまま、彼女の額に左手を押しあてる。瞳孔の開ききった、恨めしそうな瞳が樒を見上げる。すすり泣いていたはずのその瞳に涙はなかった。

『ご冥福をお祈りします』

 一瞬、女の顔が忌々しげに歪んだかと思うと、紫陽花の山に身体が押し潰されるように崩れ、すぐに霧散して消えた。
「死人は死んでな」
 ぽつりとこぼれ落ちた樒の声は、普段の樒からはかけ離れた、他人を突き放す無慈悲で乾いた色をしていた。
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