「ご冥福をお祈りします。」

深川夜

文字の大きさ
上 下
7 / 10
case2.紫陽花の花束

2-4

しおりを挟む
 翌日。目が覚めると、カーテンの外から薄日がさしていた。晴天とまではいかないものの、雲間から青空が見える。蛇口は固く閉じ、奇妙な水溜まりも存在しない。
 そして、毎日通るあの場所にも、紫陽花の花束は存在しなかった。全てが悪い夢であったかのように、平穏な日常は戻ってきた。


 「除霊」の後、樒はしばらく手を離してくれなかった。いつまで握ってんだと言うと「もうちょっとだけェ」といつもの調子でおどけてくる。振り払ってやろうかとも思ったが、樒の手が微かに震えているのに気づいてやめた。ようやく手首を離したのは、それから三十分は経った後だった。

「で、誰がお前のものだって?」

 落ち着いたところで話を振ると、樒は俺の椅子に腰掛け、足を組んでにっこりと笑う。

「えぇ? そんなに何度も聞きたいのォ?」
「俺は誰かの所有物になった覚えはないんだが」

 じろり、と睨む。

「だァってああでも言わないとあの女諦めなさそうだったしさァ。そうなったらハセくんも僕も困るでしょォ?」
「それは……そうだけど」
「じゃあいいじゃん」
「良くはないだろ」

 そうかなァ、と樒。何がどう「じゃあいいじゃん」なのか納得のいく説明が欲しいところだ。

「まァ、これで君の平穏は戻るはずだよォ。明日からは怪異も起こらないし、ハセくんについた匂いも元に戻る。僕のお陰だねェ」
「……もし、戻らなかったらどうする?」
「そんなの」

 有り得ないね、と言いかけた樒の顔に悪戯な光が宿る。次の言葉がろくでもなさそうなことだけは察した。

「じゃあさ、ハセくん。こうしない? もし戻ってなかったら、僕はハセくんの言うこと何でもひとつ聞いてあげる。その代わり、ちゃんと日常が戻ったらさ、僕にハグしてよ」
「はあ!?」
「ハグだよ、ハグ。別にそれくらいはいいでしょ?」

 嬉しそうに死んだ瞳に笑みを浮かべ、樒は軽く両手を広げる。予感的中、して欲しくはなかったが。何が嬉しくてこいつを抱きしめなければならないのか。

「……日常が戻ったらな」

 はあ、と溜息をひとつ。今回の騒動の代償がそれで済むなら安いものだ。そして恐らく、平穏な日常は戻ってくるのだろう。こいつは分の悪い賭けはしない。しきみ 一総かずさはそういう奴だ。

「明日が楽しみだね、ハセくん」

 こころなしか弾む声に、俺はもう一度溜息をついた。


 とうに予鈴の鳴り終えた構内で、俺は樒の姿を探す。いつもと同じ喫煙所、いつもと同じ場所で、樒はひとり、ぼんやりと宙を見ながら煙草をふかしている。背後から近づく俺に樒はまだ気づかない。そのまま肩を引き寄せ抱きしめる。樒は咥えていた煙草を落としかけ、それから「ハセくんの匂いがする」とどこか嬉しそうに呟いた。
しおりを挟む

処理中です...